若ものを中心に、「食べられる」を「食べれる」、「見られる」を「見れる」、「寝られる」を「寝れる」という、 いわゆる「ら抜き言葉」が広くきかれるようになってからかなりになる。  さきごろ国語審議会のまとめた答申の中で、この「ら抜き言葉」について、 「現時点の共通語では、改まった場での使用は認知しかねる」と判断したことで、この言葉遣いが改めて注目されている。  言葉は各人の生活感覚に根ざして、アイデンティティーを支え、ひいては価値観ともかかわるものである。 誤りとは知らずに使っていた言葉を「認知しかねる」といわれたら、おもしろいわけがない。 反発したくなる人がいても不思議ではない。 マスコミにも、国がそこまでふみ込むのはいかがなものか、という意見がある。  その一方では、美しい日本を守らなくてはいけない。正しい言葉遣いを伝承していく必要があるという考えもつよい。 現に、「ら抜き言葉」を使わない人は昨年の文化庁の調査でも七〇㌫を超える。 新聞でも「ら抜き言葉」が使われることはない。 「見られる」「食べられる」という語法は慣用、文法として確立している。 それから逸脱した言い方を「認知」できないとするのは当然であろう。  「ら抜き言葉」は、言葉の伝統を守ろうとする人たちと、 新しい言葉遣いを積極的に認めようとする人たちのせめぎ合いの境界線にあって、ゆれているのである。  いま「ら抜き言葉」と呼ばれている言葉は昭和のはじめごろからあったという。 それが戦後になって広まり、近年は改まった場や書き言葉にも見られるようになった。  「ら抜き言葉」というのは、可能をあらわす動詞の語尾が《られる》となる 「見られる」「食べられる」「寝られる」「着られる」「起きられる」の《ら》を落として、 「見れる」「食べれる」「寝れる」「着れる」「起きれる」とするのを指すのである。  ところで、同じ可能をあらわしても「走れる」「切れる」「蹴れる」などは、《ら》がないけれども、これで正しい。 「ら抜き言葉」ではない。さらにこれらと同質の「読める」「書ける」というのも江戸時代から使われてきた。  したがって、日本語の可能をあらわす動詞には《られる》で終わるものと、《れる》で終わるものとのふた通りあることになる。  《れる》となるのは五段活用動詞で、《られる》で終わらなくてはいけないのは、上一段、下一段、カ行変格活用の動詞である。 後者が前者に変わったのが「ら抜き言葉」になるというわけだ。  そういう文法を意識しないで、両者をこれまで使い分けてきたのは、考えてみれば、たいへんなことである。 口ぐせで、区別した。その口ぐせが変化すれば、使い分けはできなくなる。 どちらにしたらよいのか迷って、国語の辞書をひいても、普通、出ていない。 流行したら歯止めをかけることが困難である。  やかましいことは言わず、「ら抜き言葉」を認めてもよいのではないかという声もつよまっている。 国語審議会の一部委員にもそういう意見があったと伝えられる。 たとえば、「見れる」はもっぱら可能の意味に用い、「見られる」は受身、尊敬と区別するのが合理的だといった弁護論もある。  テンポの速くなった現代の言葉で、《られる》ではまどろっこしい、発音もしにくいというので「ら抜き」が好まれるのだと解説する向きもある。 その上、地方によっては「ら抜き言葉」が普通のところもある。 そういう点を考慮して、国語審議会も、「現時点」の「共通語」の「改まった場」での使用は認めないとしたのである。  「ら抜き言葉」の問題はなかなか複雑であるけれども、慣用を外れた用法が広まってきた点が注目されなくてはならないだろう。 言葉は慣用、文法によっている。その慣用は長い間につくりあげられた文化の自然である。 新しい言葉の使い方をするのはその自然を破壊することにほかならない。 環境を守ろう、自然破壊を許すなという叫びがあがるようになったのは社会の成熟を示すものであるが、 ことばの自然を守ろうという考えがそれほどつよく打ち出されないのはなぜだろうか。  言葉の自然を守るには言葉のしつけが必要であるが、いまの、学校、家庭、地域社会には言葉に対する関心がきわめて低い。 永く使われてきた言葉を尊重しようという気持ちが欠如している。 それが日本語のゆれを大きくし、乱れに対しても寛容な態度をとらせることになる。 「ら抜き言葉」の広まりは、そういう事態を象徴する事例である。  慣用のゆれの例としては三十年前に、こどもにおやつを「やる」か「あげる」か、がある。 文法的には正しくなくとも「あげる」がよいという若い世代の言い分が通り、いまはそれが認知されている。 「ら抜き言葉」にもやがてそういう時がやってくるのであろうか。                             (外山滋比古、産經新聞「正論」1996.01.11.)