枕草子 校定本文 清少納言枕草子 【一】△春はあけぼの。やうやうしろくなり行く、山ぎはすこしあかりて、むら さきだちたる雲のほそくたなびきたる。 △夏はよる。月の頃はさらなり、やみもなほ、ほたるの多く飛びちがひたる。 また、ただひとつふたつなど、ほのかにうちひかりて行くもをかし。雨など降 るもをかし。 △秋は夕暮。夕日のさして山のはいとちかうなりたるに、からすのねどころへ 行くとて、みつよつ、ふたつみつなどとびいそぐさへあはれなり。まいて雁な どのつらねたるが、いとちひさくみゆるはいとをかし。日入りはてて、風の音 むしのねなど、はたいふべきにあらず。 △冬はつとめて。雪の降りたるはいふべきにもあらず、霜のいとしろきも、ま たさらでもいと寒きに、火などいそぎおこして、炭もてわたるもいとつきづき し。晝になりて、ぬるくゆるびもていけば、火桶の火もしろき灰がちになりて わろし。 【二】△頃は、正月・三月・四月・五月・七八九月・十一二月、すべてをりにつ けつつ、一とせながらをかし。 【三】△正月一日は、まいて空のけしきもうらうらと、めづらしうかすみこめた るに、世にありとある人は、みなすがたかたち心ことにつくろひ、君をも我を もいはひなどしたる、さまことにをかし。 △七日、雪まのわかなつみ、あをやかに、例はさしもさるもの目ちかからぬ所 に、もてさわぎたるこそをかしけれ。白馬みにとて、里人は車きよげにしたて てみに行く。中御門のとじきみ引きすぐる程、かしら一所にゆるぎあひて、さ しぐしもおち、用意せねばをれなどしてわらふもまたをかし。左衞門の陣のも とに、殿上人などあまた立ちて、舍人の弓どもとりて馬どもおどろかしわらふ を、はつかに見入れたれば、立蔀などのみゆるに、主殿司・女官などのゆき ちがひたるこそをかしけれ。いかばかりなる人九重をならすらん、など思ひや らるるに。内裏にも、見るは、いとせばきほどにて、舍人の顏のきぬにあらは れ、まことにくろきに、しろき物いきつかぬ所は、雪のむらむら消えのこりた るここちして、いとみぐるしく、馬のあがりさわぐなどもいとおそろしう見ゆ れば、引きいられてよくも見えず。 △八日、人のよろこびしてはしらする車の音、ことに聞えてをかし。 △十五日、節供まゐりすゑ、かゆの木ひきかくして、家の御達・女房などのう かがふを、うたれじと用意して、つねにうしろを心づかひしたる、けしきもい とをかしきに、いかにしたるにかあらん、うちあてたるは、いみじう興ありて うちわらひたるはいとはえばえし。ねたしとおもひたるもことわりなり。あた らしうかよふ婿の君などの内裏へまゐるほどをも心もとなう、所につけてわれ はと思ひたる女房の、のぞきけしきばみ、おくのかたにたたずまふを、まへに ゐたる人は心得てわらふを、「あなかま」とまねき制すれども、女はたしらず顏 にて、おほどかにてゐ給へり。「ここなる物とり侍らん」などいひよりて、はし りうちてにぐれば、あるかぎりわらふ。をとこ君もにくからずうちゑみたるに、 ことにおどろかず、顏すこしあかみてゐたるこそをかしけれ。また、かたみに うちて、をとこをさへぞうつめる。いかなる心にかあらん、なきはらだちつつ、 人をのろひ、まがまがしくいふもあるこそをかしけれ。内裏わたりなどのやん ごとなきも、けふはみなみだれてかしこまりなし。 △除目の頃など、内裏わたりいとをかし。雪降り、いみじうこほりたるに、申 文もてありく。四位・五位、わかやかに心地よげなるはいとたのもしげなり、 老いてかしらしろきなどが人に案内いひ、女房の局などによりて、おのが身の かしこきよしなど、心ひとつをやりて説ききかするを、わかき人々はまねをし わらへど、いかでか知らん。「よきに奏し給へ、啓し給へ」などいひても、得た るはいとよし、得ずなりぬるこそいとあはれなれ。 【四】△三月三日は、うらうらとのどかに照りたる。桃の花のいまさきはじむる。 柳などをかしきこそさらなれ、それもまだまゆにこもりたるはをかし。ひろご りたるはうたてぞみゆる。 △おもしろくさきたる櫻をながく折りて、おほきなる瓶にさしたるこそをかし けれ。櫻の直衣に出袿して、まらうどにもあれ、御せうとの君たちにても、 そこちかくゐて物などうちいひたる、いとをかし。 【五】△四月、祭の頃いとをかし。上達部・殿上人も、うへのきぬのこきうすき ばかりのけぢめにて、白襲どもおなじさまに、すずしげにをかし。木々の木の 葉、まだいとしげうはあらで、わかやかにあをみわたりたるに、霞も霧もへだ てぬ空のけしきの、なにとなくすずろにをかしきに、すこしくもりたる夕つか た、よるなど、しのびたる郭公の、遠くそらねかとおぼゆばかり、たどたどし きをききつけたらんは、なに心地かせん。 △祭ちかくなりて、青朽葉・二藍の物どもおしまきて、紙などにけしきばかり おしつつみて、いきちがひもてありくこそをかしけれ。すそ濃・むら濃なども、 つねよりはをかしくみゆ。わらはべの、かしらばかりをあらひつくろひて、な りはみなほころびたえ、みだれかかりたるもあるが、屐子・履などに、「緒すげ させ。裏をさせ」などもてさわぎて、いつしかその日にならなんと、いそぎお しありくも、いとをかしや。あやしうをどりありく者どもの、裝束きしたてつ れば、いみじく定者などいふ法師のやうにねりさまよふ。いかに心もとなから ん、ほどほどにつけて、親、をばの女、姉などの、供し、つくろひて、率てあ りくもをかし。 △藏人思ひしめたる人の、ふとしもえならぬが、この日青色きたるこそ、やが てぬがせでもあらばや、と覺ゆれ。綾ならぬはわろき。 【六】△おなじことなれどもきき耳ことなるもの△法師の言葉。をとこのことば。 女の詞。下衆の詞には、かならず文字あまりたり。 【七】△思はん子を法師になしたらんこそ心ぐるしけれ。ただ木のはしなどのや うに思ひたるこそ、いといとほしけれ。精進物のいとあしきをうちくひ、寢ぬ るをも、わかきは物もゆかしからん、女などのある所をも、などか、忌みたる やうにさしのぞかずもあらん、それをもやすからずいふ。まいて、驗者などは いとくるしげなめり。困じてうちねぶれば、「ねぶりをのみして」などもどかる、 いと所せく、いかにおぼゆらん。 △これはむかしのことなめり。いまはいとやすげなり。 【八】△大進生昌が家に、宮の出でさせ給ふに、ひんがしの門は四足になして、 それより御輿は入らせ給ふ。北の門より、女房の車どもも、また陣のゐねば、 入りなんと思ひて、かしらつきわろき人も、いたうもつくろはず、よせておる べきものと思ひあなづりたるに、檳榔毛の車などは、門ちひさければ、さはり てえ入らねば、例の筵道しきておるるに、い(*)とにくくはらだたしけれども、い かがはせむ。殿上人、地下なるも、陣にたちそひて見るも、いとねたし。 △御前にまゐりて、ありつるやう啓すれば、「ここにても、人は見るまじうやは。 などかはさしもうちとけつる」とわらはせ給ふ。されど、「それは目なれにて侍 れば、よくしたてて侍らんにしもこそ、おどろく人も侍らめ。さてもかばかり の家に、車いらぬ門やはある。見えばわらはん」などいふほどにしも、「これま ゐらせ給へ」とて、御硯などさしいる。「いで、いとわろくこそおはしけれ。な どその門はたせばくは作りてすみ給ひける」といへば、わらひて、「家のほど、 身の程にあはせて侍るなり」といらふ。「されど、門のかぎりをたかう作る人も ありけるは」といへば、「あな、おそろし」とおどろきて、「それは于定國が事 にこそ侍るなれ。ふるき進士などに侍らずは、うけたまはり知るべきにも侍ら ざりけり。たまたま此の道にまかり入りにければ、かうだにわきまへしられ侍 る」といふ。「その御道もかしこからざめり。筵道敷きたれど、みなおち入りさ わぎつるは」といへば、「雨のふり侍りつれば、さも侍りつらん。よしよし、ま たおほせられかくる事もぞ侍る。まかりたちなん」とて往ぬ。「なにごとぞ、生 昌がいみじうおぢつる」と問はせ給ふ。「あらず。車の入り侍らざりつること いひ侍りつる」と申しておりたり。 △おなじ局にすむわかき人々などして、よろづのこともしらず、ねぶたければ みなねぬ。ひんがしの對の西の廂、北かけてあるに、北の障子に懸金もなかり けるを、それも尋ねず。家あるじなれば、案内をしりてあけてけり。あやしく かればみさわぎたるこゑにて、「さぶらはんはいかに、いかに」とあまたたび いふ聲にぞおどろきて見れば、几帳のうしろにたてたる燈臺の光はあらはなり、 障子を五寸ばかりあけていふなりけり。いみじうをかし。さらにかやうのすき ずきしきわざ、ゆめにせぬものを、わが家におはしましたりとて、むげに心に まかするなめり、と思ふもいとをかし。かたはらなる人をおしおこして、「かれ 見給へ。かかるみえぬもののあめるは」といへば、かしらもたげて見やりて、 いみじうわらふ。「あれはたそ、顯證に」といへば、「あらず。家のあるじと、 さだめ申すべきことの侍るなり」といへば、「門のことをこそ聞えつれ、障子あ け給へとやは聞えつる」といへば、「なほそのことも申さむ。そこにさぶらはん はいかに、いかに」といへば、「いと見ぐるしきこと。さらにえおはせじ」とて わらふめれば、「わかき人おはしけり」とて、ひきたてて往ぬる、のちに、わら ふこといみじう、あけんとならば、ただ入りねかし、消息をいはんに、よかな りとはたれかいはん、と、げにぞをかしき。 △つとめて、御前にまゐりて啓すれば、「さることも聞えざりつるものを。よべ のことにめでていきたりけるなり。あはれ、かれをはしたなういひけんこそ、 いとほしけれ」とて、わらはせ給ふ。 △姫宮の御方のわらはべの裝束、つかうまつるべきよし仰せらるるに、「この袙 のうはおそひは、なにの色にかつかうまつらすべき」と申すを、またわらふも ことわりなり。「姫宮の御前の物は、例のやうにては、にくげにさぶらはん。ち うせい折敷に、ちうせい高坏などこそよく侍らめ」と申すを、「さてこそは、う はおそひきたらんわらはも、まゐりよからめ」といふを、なほ、「例の人のやう に、これなかくないひわらひそ。いときんこうなるものを」と、いとほしがら せ給ふもをかし。 △中間なるをりに、「大進、まづ物聞えんとあり」といふをきこしめして、「ま たなでふこといひて、わらはれんとならん」と仰せらるるもまたをかし。「いき てきけ」とのたまはすれば、わざと出でたれば、「一夜の門の事、中納言にかた り侍りしかば、いみじう感じ申されて、「いかでさるべからんをりに、心のどか に對面して、申しうけたまはらん」となん申されつる」とて、またことごとも なし。一夜のことやいはん、と心ときめきしつれど、「いましづかに、御局にさ ぶらはん」とて往ぬれば、歸りまゐりたるに、「さて、なにごとぞ」とのたまは すれば、申しつることを、さなんと啓すれば、「わざと消息し、よびいづべきこ とにはあらぬや。おのづからはしつかた、局などにゐたらん時もいへかし」と てわらへば、「おのが心地にかしこしと思ふ人のほめたる、うれしとや思ふとつ げ聞かするならん」とのたまはする、御けしきもいとめでたし。 【九】△うへにさぶらふ御猫は、かうぶりにて命婦のおとどとて、いみじうをか しければかしづかせ給ふが、はしにいでてふしたるに、乳母の馬の命婦、「あな まさなや。入り給へ」とよぶに、日のさし入りたるに、ねぶりてゐたるを、お どすとて、「翁丸、いづら。命婦のおとどくへ」といふに、まことかとて、しれ ものははしりかかりたれば、おびえまどひて御簾のうちに入りぬ。 △朝餉のおまへに、うへおはしますに、御覽じていみじうおどろかせ給ふ。猫 を御ふところに入れさせ給ひて、をのこども召せば、藏人忠隆、なりなか參り たれば、「この翁丸うちてうじて、犬島へつかはせ。ただいま」とおほせらるれ ば、あつまり狩りさわぐ。馬の命婦をもさいなみて「乳母かへてん。いとうし ろめたし」と仰せらるれば、御前にもいでず。犬は狩りいでて、瀧口などして おひつかはしつ。 △「あはれ、いみじうゆるぎありきつるものを。三月三日、頭の辨の柳かづら せさせ、桃の花をかざしにささせ、櫻腰にさしなどしてありかせ給ひしをり、 かかる目見んとは思はざりけむ」などあはれがる。「御膳のをりは、かならずむ かひさぶらふに、さうざうしうこそあれ」などいひて、三四日になりぬる、ひ るつかた、犬いみじうなくこゑのすれば、なぞの犬のかくひさしうなくにかあ らん、と聞くに、よろづの犬とぶらひみにいく。 △御厠人なるものはしりきて、「あないみじ。犬を藏人二人してうち給ふ、死ぬ べし。犬をながさせ給ひけるが、かへり參りたるとててうじ給ふ」といふ。心 憂の事や、翁丸なり。「忠隆・實房なんどうつ」といへば、制しにやるほどに、 からうじてなきやみ、「死にければ、陣の外に引きすてつ」といへば、あはれが りなどする、夕つかた、いみじげにはれ、あさましげなる犬のわびしげなるが、 わななきありけば、「翁丸か。この頃かかる犬やはありく」といふに、「翁丸」 といへど、聞きも入れず。それともいひ、「あらず」とも口々申せば、「右近ぞ 見知りたる。よべ」とて召せば、參りたり。「これは翁丸か」と見せさせ給ふ。 「似ては侍れど、これはゆゆしげにこそ侍るめれ。また、「翁丸か」とだにい へば、よろこびてまうでくるものを、よべどよりこず。あらぬなめり。それは、 「打ちころして棄て侍りぬ」とこそ申しつれ。ふたりしてうたんには、侍りな むや」など申せば、こころ憂がらせ給ふ。 △くらうなりて、物くはせたれどくはねば、あらぬものにいひなしてやみぬる、 つとめて、御けづり髮、御手水などまゐりて、御鏡をもたせさせ給ひて御覽ず れば、侍ふに、犬の柱のもとにゐたるを見やりて、「あはれ、昨日翁丸をいみ じうも打ちしかな。死にけむこそあはれなれ。なにの身にこのたびはなりぬら ん。いかにわびしき心地しけん」とうちいふに、このゐたる犬のふるひわなな きて、涙をただおとしにおとすに、いとあさまし。さは翁丸にこそはありけれ、 よべはかくれしのびてあるなりけり、と、あはれにそへてをかしきことかぎり なし。 △御鏡うち置きて、「さは翁丸か」といふに、ひれふしていみじうなく。御前に もいみじうおちわらはせ給ふ。右近の内侍召して、「かくなん」と仰せらるれば、 わらひののしるを、うへにもきこしめしてわたりおはしましたり。「あさまし う、犬なども、かかる心あるものなりけり」とわらはせ給ふ。うへの女房など も、ききて參りあつまりて、よぶにも今ぞ立ちうごく。「なほこの顏などのは れたる、物のてをせさせばや」といへば、「つひにこれをいひあらはしつるこ と」などわらふに、忠隆ききて、臺盤所の方より、「まことにや侍らむ。かれ見 侍らん」といひたれば、「あな、ゆゆし。さらに、さるものなし」といはすれば、 「さりとも、見つくるをりも侍らん。さのみもえかくさせ給はじ」といふ。 △さて、かしこまりゆるされて、もとのやうになりにき。なほあはれがられて ふるひなき出でたりしこそ、よに知らずをかしくあはれなりしか。人などこそ 人にいはれて泣きなどはすれ。 【一〇】△正月一日、三月三日は、いとうららかなる。 △五月五日は、くもりくらしたる。 △七月七日は、くもりくらして、夕がたは晴れたる空に、月いとあかく、星の 數もみえたる。 △九月九日は、あかつきがたより雨すこしふりて、菊の露もこちたく、おほひ たる綿などもいたくぬれ、うつしの香ももてはやされて、つとめてはやみにた れど、なほくもりて、ややもせばふりおちぬべくみえたるもをかし。 【一一】△よろこび奏するこそをかしけれ。うしろをまかせて、御前のかたにむ かひてたてるを。拜し舞踏しさわぐよ。 【一二】△今内裏のひむがしをば北の陣といふ。なしの木のはるかにたかきを、 「いく尋あらん」などいふ。權中將、「もとよりうちきりて、定澄僧都の枝扇 にせばや」とのたまひしを、山階寺の別當になりてよろこび申す日、近衞づか さにてこの君のいで給へるに、たかき屐子をさへはきたれば、ゆゆしうたかし。 出でぬる後に、「などその枝扇をばもたせ給はぬ」といへば、「物わすれせぬ」 とわらひ給ふ。 △「定澄僧都に袿なし、すくせ君に袙なし」といひけん人こそをかしけれ。 【一三】△山は△をぐら山。かせ山。みかさ山。このくれ山。いりたちの山。わ すれずの山。すゑの松山。かたさり山こそ、いかならんとをかしけれ。いつは た山。かへる山。のちせの山。あさくら山、よそに見るぞをかしき。おほひれ 山もをかし。臨時の祭の舞人などのおもひ出でらるるなるべし。三輪の山をか し。たむけ山。まちかね山。たまさか山。みみなし山。 【一四】△市は、△たつの市。さとの市。つば市。大和にあまたある中に、長谷に 詣づる人のかならずそこにとまるは、觀音の縁のあるにや、と心ことなり。お ふさの市。しかまの市。あすかの市。 【一五】△峰は△ゆづるはの峰。あみだの峰。いやたかの峰。 【一六】△原は△みかの原。あしたの原。その原。 【一七】△淵は△かしこ淵は、いかなる底の心をみて、さる名を付けけんとをか し。ないりその淵、たれにいかなる人のをしへけむ。青色の淵こそをかしけれ。 藏人などの具にしつべくて。かくれの淵。いな淵。 【一八】△海は△水うみ。よさの海。かはふちの海。 【一九】△みささぎは△うぐひすのみささぎ。かしはぎのみささぎ。あめのみさ さぎ。 【二〇】△わたりは△しかすがのわたり。こりずまのわたり。水はしのわたり。 【二一】△たちは△たまつくり。 【二二】△家は△近衞の御門。二條みかゐ。一條もよし。そめどのの宮。せかい 院。すがはらの院。れんせい院。閑院。朱雀院。をのの宮。こうばい。あがた の井戸。たけ三條。小八條。小一條。 【二三】△清涼殿の丑寅のすみの、北のへだてなる御障子は、荒海の繪、生きた る物どものおそろしげなる、手長足長などをぞかきたる、上の御局の戸をおし あけたれば、つねに目にみゆるを、にくみなどしてわらふ。 △勾欄のもとにあをき瓶のおほきなるをすゑて、櫻のいみじうおもしろき枝の 五尺ばかりなるを、いと多くさしたれば、勾欄の外まで咲きこぼれたる、ひる つかた、大納言殿、櫻の直衣のすこしなよらかなるに、こきむらさきの固紋の 指貫、しろき御衣ども、うへにはこき綾のいとあざやかなるをいだしてまゐり 給へるに、うへのこなたにおはしませば、戸口のまへなるほそき板敷にゐ給ひ て、物など申したまふ。 △御簾のうちに、女房、櫻の唐衣どもくつろかにぬぎたれて、藤・山吹など色 々このましうて、あまた小半蔀の御簾よりもおしいでたる程、晝の御座のかた には、御膳まゐる足音たかし。警蹕など「おし」といふこゑきこゆるも、うら うらとのどかなる日のけしきなど、いみじうをかしきに、はての御盤とりたる 藏人まゐりて、御膳奏すれば、なかの戸よりわたらせ給ふ。御供に廂より、大 納言殿、御送りにまゐり給ひて、ありつる花のもとにかへりゐ給へり。 △宮の御前の御几帳おしやりて、長押のもとに出でさせ給へるなど、なにとな くただめでたきを、さぶらふ人もおもふことなき心地するに、「月も日もかはり ゆけどもひさにふる三室の山の」といふことを、いとゆるるかにうちいだし給 へる、いとをかしう覺ゆるにぞ、げに千とせもあらまほしき御ありさまなるや。 △陪膳つかうまつる人の、をのこどもなど召すほどもなくわたらせ給ひぬ。 「御硯の墨すれ」と仰せらるるに、目はそらにて、ただおはしますをのみ見た てまつれば、ほとどつぎめもはなちつべし。白き色紙おしたたみて、「これに、 ただいまおぼえんふるきことひとつづつ書け」と仰せらるる、外にゐたまへる に、「これはいかが」と申せば、「とう書きてまゐらせ給へ。男は言くはへさぶ らふべきにもあらず」とてさしいれ給へり。御硯とりおろして、「とくとく、た だ思ひまはさで、難波津もなにも、ふとおぼえんことを」と責めさせ給ふに、 などさは臆せしにか、すべて、おもてさへあかみてぞ思ひみだるるや。 △春の歌、花の心など、さいふいふも、上臈ふたつみつばかり書きて、「これに」 とあるに、 △△年ふればよはひは老いぬしかはあれど花をしみればもの思ひもなし といふことを、「君をし見れば」と書きなしたる、御覽じくらべて、「ただこの 心どものゆかしかりつるぞ」とおほせらるる、ついでに、「圓融院の御時に、 「草子に歌ひとつ書け」と、殿上人におほせられければ、いみじう書きにくう、 すまひ申す人々ありけるに、「さらにただ、手のあしさよさ、歌のをりにあはざ らんも知らじ」とおほせらるれば、わびてみな書きける中に、ただいまの關白 殿、三位の中將ときこえける時、 △△しほのみついつもの浦のいつもいつも君をばふかく思ふはやわが といふ歌のすゑを、「たのむはやわが」と書き給へりけるをなん、いみじうめで させ給ひける」などおほせらるるにも、すずろに汗あゆる心地ぞする。年わか からん人、はたさもえ書くまじきことのさまにや、などぞおぼゆる。例いとよ く書く人も、あぢきなうみなつつまれて、書きけがしなどしたるあり。 △古今の草子を御前におかせ給ひて、歌どもの本をおほせられて、「これが末 いかに」と問はせ給ふに、すべて、よるひる心にかかりておぼゆるもあるが、 けぎよう申しいでられぬはいかなるぞ。宰相の君ぞ十ばかり、それもおぼゆる かは。まいて、いつつむつなどは、ただおぼえぬよしをぞ啓すべけれど、「さや はけにくくおほせごとをはえなうもてなすべき」と、わびくちをしがるもをか し。知ると申す人なきをば、やがてみなよみつづけて、夾算せさせ給ふを、「こ れは知りたることぞかし。などかうつたなうはあるぞ」といひなげく。中にも 古今あまた書きうつしなどする人は、みなもおぼえぬべきことぞかし。 △「村上の御時に、宣耀殿の女御と聞えけるは、小一條の左の大臣殿の御女に おはしけると、たれかは知り奉らざらん。まだ姫君ときこえける時、父大臣の をしへきこえ給ひけることは、「ひとつには御手をならひ給へ。つぎにはきん の御琴を、人よりことにひきまさらんとおぼせ。さては古今の歌二十卷をみな うかべさせ給ふを御學問にはせさせ給へ」となん聞え給ひける、ときこしめし おきて、御物忌なりける日、古今をもてわたらせ給ひて、御几帳を引きへだて させ給ひければ、女御、例ならずあやし、とおぼしけるに、草子をひろげさせ 給ひて、「その月、なにのをり、その人のよみたる歌はいかに」と問ひ聞えさせ 給ふを、かうなりけり、と心得給ふもをかしきものの、ひがおぼえをもし、わ すれたる所もあらばいみじかるべきこと、とわりなうおぼしみだれぬべし。そ のかたにおぼめかしからぬ人、二三人ばかり召しいでて、碁石して數おかせ給 ふとて、強ひ聞えさせ給ひけんほどなど、いかにめでたうをかしかりけん。御 前にさぶらひけん人さへこそうらやましけれ。せめて申させ給へば、さかしう、 やがて末まではあらねども、すべて、つゆたがふことなかりけり。いかでなほ すこしひがごとみつけてをやまん、とねたきまでにおぼしめしけるに、十卷に もなりぬ。さらにふようなりけりとて、御草子に夾算さしておほとのごもりぬ るもまためでたしかし。いとひさしうありておきさせ給へるに、なほこの事、 かちまけなくてやませ給はん、いとわろしとて、下の十卷を、あすにならば、 ことをぞ見給ひあはするとて、けふさだめてんと、大殿油まゐりて、夜ふくる までよませ給ひける。されど、つひに負けきこえさせ給はずなりにけり。うへ わたらせ給ひて、かかることなど、殿に申しに奉られたりければ、いみじうお ぼしさわぎて、御誦經などあまたせさせ給ひて、そなたにむきてなん念じくら し給ひける。すきずきしうあはれなることなり」などかたりいでさせ給ふを、 うへもきこしめし、めでさせ給ふ。「我は三卷四卷をだにえ見はてじ」と仰せら る。「むかしはえせ者などもみなをかしうこそありけれ。この頃は、かやうな る事やはきこゆる」など、御前にさぶらふ人々、うへの女房、こなたゆるされ たるなどまゐりて、口々いひいでなどしたるほどは、まことにつゆおもふこと なくめでたくぞおぼゆる。 【二四】△おひさきなく、まめやかに、えせざいはひなど見てゐたらん人は、い ぶせくあなづらはしく思ひやられて、なほさりぬべからん人のむすめなどは、 さしまじらはせ、世のありさまも見せならはさまほしう、内侍のすけなどにて しばしもあらせばや、とこそおぼゆれ。 △宮仕する人を、あはあはしうわるきことにいひおもひたる男などこそ、いと にくけれ。げにそもまたさることぞかし。かけまくもかしこき御前をはじめ奉 りて、上達部・殿上人、五位・四位はさらにもいはず、見ぬ人はすくなくこそ あらめ。女房の從者、その里より來る者、長女・御厠人の從者、たびしかはら といふまで、いつかはそれをはぢかくれたりし。殿ばらなどはいとさしもやあ らざらん、それもあるかぎりは、しかさぞあらん。 △うへなどいひてかしづきすゑたらんに、心にくからずおぼえん、ことわりな れど、また内裏の内侍のすけなどいひて、をりをり内裏へまゐり、祭の使など にいでたるも、おもだたしからずやはある。さてこもりゐぬるは、まいてめで たし。受領の五節いだすをりなど、いとひなびいひ知らぬことなど、人に問ひ ききなどはせじかし。心にくきものなり。 【二五】△すさまじきもの△晝ほゆる犬、春の網代。三四月の紅梅の衣。牛死に たる牛飼。ちご亡くなりたる産屋。火おこさぬ炭櫃、地火爐。博士のうちつづ き女子生ませたる。方たがへにいきたるに、あるじせぬ所。まいて節分などは いとすさまじ。 △人の國よりおこせたるふみの物なき。京のをもさこそ思ふらめ、されどそれ はゆかしきことどもをも書きあつめ、世にある事などをもきけばいとよし。人 のもとにわざときよげに書きてやりつるふみの返りごと、いまはもてきぬらん かし、あやしうおそき、とまつほどに、ありつる文、立文をもむすびたるをも、 いときたなげにとりなしふくだめて、上にひきたりつる墨などきえて、「おはし まさざりけり」もしは、御物忌とてとりいれず」といひてもて歸りたる、いと わびしくすさまじ。 △また、かならず來べき人のもとに車をやりてまつに、來る音すれば、さなな りと人々いでて見るに、車宿にさらにひき入れて、轅ほうとうちおろすを、 「いかにぞ」と問へば、「けふはほかへおはしますとてわたり給はず」などうち いひて、牛のかぎりひきいでて往ぬる。 △また家のうちなる男君の來ずなりぬる、いとすさまじ。さるべき人の宮づか へするがりやりて、はづかしとおもひゐたるもいとあいなし。ちごの乳母の、 ただあからさまにとていでぬるほど、とかくなぐさめて、「とく來」といひやり たるに、「今宵はえまゐるまじ」とて返しおこせたるは、すさまじきのみならず、 いとにくくわりなし。女むかふる男、まいていかならん。まつ人ある所に、夜 すこしふけて、忍びやかに門たたけば、むねすこしつぶれて、人いだして問は するに、あらぬよしなき者の名のりしてきたるも、返す返すもすさまじといふ はおろかなり。 △驗者の物のけ調ずとて、いみじうしたりがほに獨鈷や數珠などもたせ、せみ の聲しぼりいだして誦みゐたれど、いささかさりげもなく、護法もつかねば、 あつまりゐ念じたるに、男も女もあやしとおもふに、時のかはるまで誦みこう じて、「さらにつかず。立ちね」とて、數珠とり返して、「あな、いと驗なしや」 とうちいひて、額よりかみざまにさくりあげ、あくびおのれうちしてよりふし ぬる。いみじうねぶたしとおもふに、いとしもおぼえぬ人の、おしおこしてせ めて物いふこそいみじうすさまじけれ。 △除目に司得ぬ人の家。今年はかならずと聞きて、はやうありし者どものほか ほかなりつる、田舍だちたる所に住むものどもなど、みなあつまりきて、出で 入る車の轅もひまなく見え、物まうでする供に、我も我もとまゐりつかうまつ り、ものくひ、酒のみ、ののしりあへるに、はつる曉まで門たたく音もせず、 あやしうなど耳立ててきけば、前驅おふこゑごゑなどして、上達部などみな出 で給ひぬ。ものききに、宵よりさむがりわななきをりける下衆男、いと物うげ にあゆみくるを、見る者どもはえ問ひにだにも問はず。外よりきたる者などぞ、 「殿はなににかならせ給ひたる」などとふに、いらへには、「なにの前司にこそ は」などぞかならずいらふる。まことにたのみけるものは、いとなげかしとお もへり。つとめてになりて、ひまなくをりつる者ども、ひとりふたりすべりい でて往ぬ。ふるき者どもの、さもえいきはなるまじきは、來年の國々、手を折 りてうちかぞへなどして、ゆるぎありきたるも、いとほしうすさまじげなり。 △よろしうよみたるとおもふ歌を人のもとにやりたるに、返しせぬ。懸想人は いかがせん、それだにをりをかしうなどある返事せぬは、心おとりす。またさ わがしう時めきたる所に、うちふるめきたる人の、おのがつれづれといとまお ほかるならひに、むかしおぼえてことなることなき歌よみておこせたる。物の をりの扇、いみじとおもひて、心ありと知りたる人にとらせたるに、その日に なりて、思はずなる繪などかきて得たる。 △産養、むまのはなむけなどの使に、祿とらせぬ。はかなき藥玉・卯槌なども てありく者などにも、なほかならずとらすべし。思ひかけぬことに得たるをば、 いとかひありとおもふべし。これはかならずさるべき使と思ひ、心ときめきし ていきたるは、ことにすさまじきぞかし。 △婿取りして四五年まで産屋のさわぎせぬ所も、いとすさまじ。おとななる子 どもあまた、ようせずは、孫などもはひありきぬべき人の親どち晝寢したる。 かたはらなる子どもの心地にも、親の晝寢したるほどは、より所なくすさまじ うぞあるかし。寢おきてあぶる湯は、はらだたしうさへぞおぼゆる。 △十二月のつごもりのながあめ。「一日ばかりの精進解齋」とやいふらん。 【二六】△たゆまるるもの△精進の日のおこなひ。とほきいそぎ。寺にひさしく こもりたる。 【二七】△人にあなづらるるもの△築土のくづれ。あまり心よしと人にしられぬ る人。 【二八】△にくきもの△いそぐ事あるをりにきてながごとするまらうど。あなづ りやすき人ならば、「後に」とてもやりつべけれど、さすがに心はづかしき人、 いとにくくむつかし。すずりに髮の入りてすられたる。また、墨の中に、石の きしきしときしみ鳴りたる。 △俄かにわづらふ人のあるに、驗者もとむるに、例ある所にはなくて、ほかに 尋ねありくほど、いと待ちどほに久しきに、からうじてまちつけて、よろこび ながら加持せさするに、この頃もののけにあづかりて、困じにけるにや、ゐる ままにすなはちねぶりごゑなる、いとにくし。 △なでふことなき人の笑がちにて物いたういひたる。火桶の火、炭櫃などに、 手のうらうち返しうち返し、おしのべなどしてあぶりをる者。いつかわかやか なる人など、さはしたりし。老いばみたる者こそ、火桶のはたに足をさへもた げて、物いふままにおしすりなどはすらめ。さやうのものは、人のもとにきて、 ゐんとする所を、まづ扇してこなたかなたあふぎちらして、塵はきすて、ゐも さだまらずひろめきて、狩衣のまへまき入れてもゐるべし。かかることは、い ふかひなき者のきはにやと思へど、すこしよろしきものの式部の大夫などいひ しがせしなり。 △また、酒のみてあめき、口をさぐり、ひげあるものはそれをなで、さかづき こと人にとらするほどのけしき、いみじうにくしとみゆ。また、「のめ」といふ なるべし。身ぶるひをし、かしらふり、口わきをさへひきたれて、わらはべの 「こふ殿にまゐりて」などうたふやうにする、それはしも、まことによき人の し給ひしを見しかば、心づきなしとおもふなり。 △物うらやみし、身のうへなげき、人のうへいひ、つゆちりのこともゆかしが り、きかまほしうして、いひしらせぬをば怨じ、そしり、また、わづかに聞き えたることをば、我もとよりしりたることのやうに、こと人にもかたりしらぶ るもいとにくし。 △物きかむと思ふほどに泣くちご。からすのあつまりてとびちがひ、さめき鳴 きたる。 △しのびてくる人見しりてほゆる犬。あながちなる所にかくしふせたる人の、 いびきしたる。また、しのびくる所に、長烏帽子して、さすがに人に見えじと まどひ入るほどに、物につきさはりて、そよろといはせたる。伊豫簾などかけ たるにうちかづきて、さらさらと鳴らしたるも、いとにくし。帽額の簾は、ま して、こはじのうちおかるるおといとしるし。それも、やをらひきあげて入る は、さらに鳴らず。遣戸をあらくたてあくるもいとあやし。すこしもたぐるや うにしてあくるは、鳴りやはする。あしうあくれば、障子などもごほめかしう ほとめくこそしるけれ。 △ねぶたしとおもひてふしたるに、蚊のほそごゑにわびしげに名のりて、顏の ほどにとびありく。羽風さへその身のほどにあるこそいとにくけれ。 △きしめく車にのりてありく者。耳もきかぬにやあらんといとにくし。わが乘 りたるは、その車のぬしさへにくし。また、物語するに、さし出でして我ひと りさいまくる者。すべてさしいでは、わらはもおとなもいとにくし。あからさ まにきたる子ども・わらはべを、見入れらうたがりて、をかしきものとらせな どするに、ならひて常にきつつ、ゐ入りて調度うちちらしぬる、いとにくし。 △家にても宮づかへ所にても、あはでありなんとおもふ人の來たるに、そら寢 をしたるを、わがもとにあるもの、おこしにより來て、いぎたなしとおもひ顏 にひきゆるがしたる、いとにくし。いままゐりのさしこえて、物しり顏にをし へやうなる事いひうしろみたる、いとにくし。 △わがしる人にてある人の、はやう見し女のことほめいひ出でなどするも、程 へたることなれど、なほにくし。まして、さしあたりたらんこそおもひやらる れ。されど、なかなかさしもあらぬなどもありかし。 △はなひて、誦文する。おほかた、人の家のをとこ主ならでは、たかくはなひた る、いとにくし。蚤もいとにくし。衣のしたにをどりありきてもたぐるやうに する。犬のもろ聲にながながとなきあげたる、まがまがしくさへにくし。 △あけて出で入る所たてぬ人、いとにくし。 【二九】△こころときめきするもの△雀の子飼。ちごあそばする所のまへわたる。 よきたき物たきてひとりふしたる。唐鏡のすこしくらき見たる。よき男の車と どめて案内し問はせたる。 △かしらあらひ化粧じて、かうばうしうしみたるきぬなどきたる。ことに見る人 なき所にても、心のうちはなほいとをかし。待つ人などのある夜、雨のおと、 風の吹きゆるがすも、ふとおどろかる。 【三〇】△すぎにしかた戀しきもの△枯れたる葵。ひひなあそびの調度。二藍・ 葡萄染などのさいでの、おしへされて草子の中などにありける見つけたる。 △また、をりからあはれなりし人の文、雨などふりつれづれなる日、さがし出 でたる。こぞのかはほり。 【三一】△こころゆくもの△よくかいたる女繪の、ことばをかしうつけておほか る。物見のかへさに、乘りこぼれて、をのこどもいとおほく、牛よくやる者の 車はしらせたる。しろくきよげなるみちのくに紙に、いといとほそう、かくべ くはあらぬ筆してふみかきたる。うるはしき絲のねりたる、あはせぐりたる。 てうばみに、てうおほくうちいでたる。物よくいふ陰陽師して、河原にいでて 呪詛のはらへしたる。よる寢おきてのむ水。 △つれづれなるをりに、いとあまりむつまじうもあらぬまらうどの來て、世の 中の物がたり、此の頃あることのをかしきもにくきもあやしきも、これかれに かかりて、おほやけわたくしおぼつかなからず、聞きよきほどにかたりたる、 いと心ゆく心地す。 △神・寺などにまうでて物申さするに、寺は法師、社は禰宜などの、くらから ずさわやかに、思ふ程にもすぎてとどこほらず聞きよう申したる。 【三二】△檳榔毛はのどかにやりたる。いそぎたるはわろく見ゆ。 △網代ははしらせたる。人の門の前などよりわたりたるを、ふと見やるほども なく過ぎて、供の人ばかりはしるを、誰ならんと思ふこそをかしけれ。ゆるゆ ると久しくゆくはいとわろし。 【三三】△説經の講師は顏よき。講師の顏をつとまもらへたるこそ、その説くこ とのたふとさもおぼゆれ。ひが目しつればふとわするるに、にくげなるは罪や 得らんとおぼゆ。このことはとどむべし。すこし年などのよろしきほどは、か やうの罪えがたのことはかき出でけめ、今は罪いとおそろし。 △また、たふときこと、道心おほかりとて、説經すといふ所ごとに最初にいき ゐるこそ、なほこの罪の心には、いとさしもあらでと見ゆれ。 △藏人など、昔は御前などいふわざもせず、その年ばかりは、内裏わたりなど にはかげもみえざりける、いまはさしもあらざめる。藏人の五位とて、それを しもぞいそがしうつかへど、なほ名殘つれづれにて、心ひとつはいとまある心 地すべかめれば、さやうの所にぞひとたび二たびもききそめつれば、つねにま でまほしうなりて、夏などのいとあつきにも、かたびらいとあざやかにて、薄 二藍、青鈍の指貫など、ふみちらしてゐためり。烏帽子に物忌つけたるは、さ るべき日なれど、功徳のかたにはさはらずと見えんとにや。 △その事する聖とものがたりし、車たつることなどをさへぞ見入れ、ことにつ いたるけしきなる。ひさしうあはざりつる人のまうであひたる、めづらしがり て、ちかうゐより、物いひうなづき、をかしきことなどかたり出でて、扇ひろ うひろげて、口にあててわらひ、よくさうぞくしたる數珠かいまさぐり、手ま さぐりにして、こなたかなたうち見やりなどして、車のあしよしほめそしり、 なにがしにてその人のせし八講、經供養せしこと、とありし事かかりし事、い ひくらべゐたる程に、この説經の事はききも入れず。なにかは、つねにきくこ となれば、耳なれてめづらしうもあらぬにこそは。 △さはあらで、講師ゐてしばしあるほどに、前驅すこしおはする車とどめてお るる人、蝉の羽よりもかるげなる直衣・指貫、生絹のひとへなどきたるも、狩 衣のすがたなるも、さやうにてわかうほそやかなる三四人ばかり、さぶらひの もの、またさばかりして入れば、はじめゐたる人々もすこしうち身じろぎ、く つろい、高座のもとちかきはしらもとにすゑつれば、かすかに數珠おしもみな どしてききゐたるを、講師もはえばえしくおぼゆるなるべし、いかでかたりつ たふばかりと説き出でたなり。 △聽聞すなどたふれさわぎ、ぬかつくほどにもならで、よきほどにたちいづと て、車どものかたなど見おこせて、我どちいふことも、何事ならむとぼゆ。 見しりたる人はをかしとおもふ、見しらぬは、たれならん、それにやなど思ひ やり、目をつけて見おくらるるこそをかしけれ。 △「そこに説經しつ、八講しけり」など人のいひつたふるに、「その人はありつ や」「いかがは」など、さだまりていはれたる、あまりなり。などかはむげにさ しのぞかではあらん。あやしからん女だに、いみじう聞くめるものを。されば とて、はじめつかたは、かちありきする人はなかりき。たまさかには、壷裝束 などして、なまめき化粧じてこそはあめりしか。それも物まうでなどをぞせし。 説經などにはことにおほく聞えざりき。この頃、そのをりさしいでけむ人、命 ながくて見ましかば、いかばかりそしり誹謗せまし。 【三四】△菩提といふ寺に、結縁の八講せしにまうでたるに、人のもとより「と く歸り給ひね。いとさうざうし」といひたれば、蓮の葉のうらに、 △△もとめてもかかるはちすの露をおきてうき世にまたはかへるものかは と書きてやりつ。 △まことにいとたふとくあはれなれば、やがてとまりぬべくおぼゆるに、さう ちうが家の人のもどかしさも忘れぬべし。 【三五】△小白河といふ所は、小一條の大將殿の御家ぞかし。そこにて上達部、 結縁の八講し給ふ。世の中の人、いみじうめでたき事にて、「おそからん車など は立つべきやうもなし」といへば、露とともにおきて、げにぞひまなかりける。 轅のうへにまたさしかさねて、みつばかりまではすこし物もきこゆべし。 △六月十よ日にて、あつきこと世にしらぬ程なり。池のはちすを見やるのみ ぞいと涼しき心地する。左右の大臣たちをおき奉りては、おはせぬ上達部なし。 二藍の指貫、直衣、淺葱の帷子どもぞすかし給へる。すこしおとなび給へるは、 青鈍の指貫、しろき袴もいとすずしげなり。佐理の宰相なども、みなわかやぎ だちて、すべてたふときことのかぎりもあらず、をかしき見物なり。 △廂の簾たかうあげて、長押のうへに、上達部はおくにむきてながながとゐ給 へり。そのつぎには、殿上人・若君達、狩裝束・直衣などもいとをかしうて、 えゐもさだまらず、ここかしこにたちさまよひたるもいとをかし。實方の兵衞 の佐、長命侍從など、家の子にて今すこしいで入りなれたり。まだわらはなる 君など、いとをかしくておはす。 △すこし日たくるほどに、三位の中將とは關白殿をぞきこえし、かうのうすも のの二藍の御直衣、二藍の織物の指貫、濃蘇枋のしたの御袴に、はりたるしろ きひとへのいみじうあざやかなるを着給ひて、あゆみ入り給へる、さばかりか ろびすずしげなる御中に、あつかはしげなるべけれど、いといみじうめでたし とぞ見え給ふ。朴・塗骨など、骨はかはれど、ただあかき紙を、おしなべてう ちつかひもたまへるは、撫子のいみじう咲きたるにぞいとよく似たる。 △まだ講師ものぼらぬ程、懸盤して、何にかあらん、ものまゐるなるべし。義 懷の中納言の御さま、つねよりもまさりておはするぞかぎりなきや。色あひの はなばなと、いみじうにほひあざやかなるに、いづれともなきなかのかたびら を、これはまことにすべて、ただ直衣ひとつを着たるやうにて、つねに車ども のかたを見おこせつつ、ものなどいひかけ給ふ、をかしと見ぬ人はなかりけん。 △後に來たる車の、ひまもなかりければ、池にひきよせてたちたるを見給ひて、 實方の君に、「消息をつきづきしういひつべからん者ひとり」と召せば、いかな る人にかあらん、えりて率ておはしたり。「いかがいひやるべき」と、ちかう ゐ給ふかぎりのたまひあはせて、やり給ふことばはきこえず、いみじう用意し て車のもとへあゆみよるを、かつわらひ給ふ。しりのかたによりていふめる。 ひさしうたてれば、「歌などよむにやあらむ。兵衞の佐、返しおもひまうけよ」 などわらひて、いつしか返りごときかむと、あるかぎり、おとな上達部まで、 みなそなたざまに見やり給へり。げにぞ顯證の人まで見やりしもをかしかりし。 △返りごとききたるにや、すこしあゆみくるほどに、扇をさしいでてよびかへ せば、歌などの文字いひあやまりてばかりや、かうはよびかへさむ、ひさしか りつる程、おのづからあるべきことはなほすべくもあらじものを、とぞおぼえ たる。ちかうまゐりつくも心もとなく、「いかにいかに」と、たれもたれも問ひ 給ふ。ふともいはず、權中納言ぞのたまひつれば、そこにまゐり、けしきばみ 申す。三位の中將、「とくいへ。あまり有心すぎて、しそこなふな」とのたまふ に、「これもただおなじことになん侍る」といふは聞ゆ。藤大納言、人よりけ にさしのぞきて、「いかがいひたる」とのたまふめれば、三位の中將、「いとな ほき木なんおしをりためる」と聞え給ふに、うちわらひ給へば、みな何とな くさとわらふこゑ、聞えやすらん。 △中納言、「さてよびかへさざりつるさきは、いかがいひつる。これやなほした ること」と問ひ給へば、「ひさしうたちて侍りつれど、ともかくも侍らざりつ れば、「さば、歸りまゐりなむ」とて歸り侍りつるに、よびて」などぞ申す。 「たが車ならん、見しり給へりや」などあやしがり給ひて、「いざ、歌よみて、 此の度はやらん」などのたまふ程に、講師のぼりぬれば、みなゐしづまりて、 そなたをのみ見る程に、車はかいけつやうにうせにけり。下簾など、ただけふ はじめたりと見えて、こきひとへがさねに二藍の織物、蘇枋のうす物のうは着 など、しりにも摺りたる裳、やがてひろげながらうちさげなどして、なに人な らん、なにかはまた、かたほならんことよりは、げにときこえて、なかなかい とよしとぞおぼゆる。 △朝座の講師清範、高座のうへも光りみちたる心地して、いみじうぞあるや。 あつさのわびしきにそへて、しさしたることのけふすぐすまじきをうちおきて、 ただすこし聞きてかへりなんとしつるに、しきなみにつどひたる車なれば、出 づべきかたもなし。朝講はてなば、なほいかで出でなむと、まへなる車どもに 消息すれば、ちかくたたむがうれしさにや、「はやはや」と引きいであけていだ すを見給ひて、いとかしがましきまで、老上達部さへわらひにくむをも、きき いれず、いらへもせで、しひてせばがりいづれば、權中納言の、「やや、まかり ぬるもよし」とて、うちゑみ給へるぞめでたき。それも耳にもとまらず、あつ きにまどはしいでて、人して、「五千人のうちには入らせ給はぬやうあらじ」 と聞えかけてかへりにき。 △そのはじめより、やがてはつる日まで、たてたる車のありけるに、人より來 とも見えず、すべてただあさましう、繪などのやうにて過しければ、ありがた くめでたく心にくく、いかなる人ならん、いかでしらんと、問ひ尋ね給ひける を、聞き給ひて、藤大納言などは、「なにかめでたからん。いとにくくゆゆし き者にこそあなれ」とのたまひけるこそをかしかりしか。 △さて、その二十日あまりに、中納言、法師になり給ひにしこそあはれなりし か。櫻などちりぬるも、なほ世のつねなりや。「おくをまつまの」とだにいふ べくもあらぬ御ありさまにこそみえ給ひしか。 【三六】△七月ばかりいみじうあつければ、よろづの所あけながら夜もあかすに、 月の頃は寢おどろきて見いだすに、いとをかし。やみもまたをかし。有明、は たいふもおろかなり。 △いとつややかなる板の端ちかう、あざやかなる疊一ひらうち敷きて、三尺の 几帳、おくのかたにおしやりたるぞあぢきなき。端にこそたつべけれ。おくの うしろめたからんよ。 △人はいでにけるなるべし、うす色の、うらいとこくて、うへはすこしかへり たるならずは、こき綾のつややかなるが、いとなえぬを、かしらごめに引き着 てぞ寢たる。香染のひとへ、もしは黄生絹のひとへ、くれなゐのひとへ、袴の 腰のいとながやかに、衣の下よりひかれ着たるも、まだとけながらめり。そ とのかたに髮のうちたたなはりてゆるらかなる程、ながさおしはかられたるに、 またいづこよりにかあらむ、朝ぼらけのいみじう霧りたちたるに、二藍の指貫 に、あるかなきかの色したる香染の狩衣、白き生絹にくれなゐのとほすにこそ はあらめ、つややかなる、霧にいたうしめりたるをぬぎ、鬢のすこしふくだみ たれば、烏帽子のおし入れたるけしきも、しどけなく見ゆ。 △朝顏の露おちぬさきに文かかむと、道の程も心もとなく、「麻生の下草」など、 くちずさみつつ、我がかたにいくに、格子のあがりたれば、御簾のそばをいさ さかひきあげて見るに、おきていぬらん人もをかしう、露もあはれなるにや、 しばしみたてれば、枕がみのかたに、朴にむらさきの紙はりたる扇、ひろごり ながらある。みちのくに紙の疊紙のほそやかなるが、花かくれなゐか、すこし にほひたるも、几帳のもとにちりぼひたり。 △人けのすれば、衣のなかよりみるに、うちゑみて長押におしかかりてゐぬ。 恥ぢなどすべき人にはあらねど、うちとくべき心ばへにもあらぬに、ねたうも 見えぬるかな、と思ふ。「こよなきなごりの御朝寢かな」とて、簾のうちにな から入りたれば、「露よりさきなる人のもどかしさに」といふ。をかしきこと、 とりたてて書くべき事ならねど、とかくいひかはすけしきどもはにくからず。 △枕がみなる扇、わが持たるして、およびてかきよするが、あまりちかうより くるにや、と心ときめきして、ひきぞ下らるる。とりて見などして、「うとくお ぼいたる事」などうちかすめ、うらみなどするに、あかうなりて、人の聲々し、 日もさしいでぬべし。霧のたえま見えぬべき程、いそぎつる文も、たゆみぬる こそうしろめたけれ。 △いでぬる人も、いつのほどにかとみえて、萩の、露ながらおしをりたるにつ けてあれど、えさしいでず。香の紙のいみじうしめたる、にほひいとをかし。 あまりはしたなき程になれば、たちいでて、わがおきつる所も、かくやと思ひ やらるるも、をかしかりぬべし。 【三七】△木の花は△こきもうすきも紅梅。櫻は、花びらおほきに、葉の色こき が、枝ほそくて咲きたる。藤の花は、しなひながく、色こく咲きたる、いとめ でたし。 △四月のつごもり、五月のついたちの頃ほひ、橘の葉のこくあをきに、花のい としろう咲きたるが、雨うちふりたるつとめてなどは、世になう心あるさまに をかし。花のなかよりこがねの玉かと見えて、いみじうあざやかに見えたるな ど、朝露にぬれたるあさぼらけの櫻におとらず。ほととぎすのよすがとさへお もへばにや、なほさらにいふべうもあらず。 △梨の花、よにすさまじきものにして、ちかうもてなさず、はかなき文つけな どだにせず。愛敬おくれたる人の顏などを見ては、たとひにいふも、げに、葉 の色よりはじめて、あいなくみゆるを、もろこしには限りなきものにて、ふみ にも作る、なほさりともやうあらんと、せめて見れば、花びらのはしに、をか しき匂ひこそ、心もとなうつきためれ。楊貴妃の帝の御使にあひて泣きける顏 に似せて、「梨花一枝、春、雨を帶びたり」などいひたるは、おぼろげならじと おもふに、なほいみじうめでたきことは、たぐひあらじとおぼえたり。 △桐の木の花、むらさきに咲きたるはなほをかしきに、葉のひろごりざまぞ、 うたてこちたけれど、こと木どもとひとしういふべきにもあらず。もろこしに ことごとしき名つきたる鳥の、えりてこれにのみゐるらん、いみじう心ことな り。まいて琴に作りて、さまざまなる音のいでくるなどは、をかしなど世のつ ねにいふべくやはある、いみじうこそめでたけれ。 △木のさまにくげなれど、楝の花いとをかし。かれがれにさまことに咲きて、 かならず五月五日にあふもをかし。 【三八】△池は△かつまたの池。磐余の池、贄野の池、初瀬にまうでしに、水鳥 のひまなくゐてたちさわぎしが、いとをかしう見えしなり。 △水なしの池こそ、あやしう、などてつけけるならんとて問ひしかば、「五月な ど、すべて雨いたうふらんとする年は、この池に水といふものなんなくなる。 また、いみじう照るべき年は、春のはじめに水なんおほくいづる」といひしを、 「むげになくかはきてあらばこそさもいはめ、出づるをりもあるを、一すぢに もつけけるかな」といはまほしかりしか。 △猿澤の池は、采女の身投げたるをきこしめして、行幸などありけんこそ、い みじうめでたけれ。「ねくたれ髮を」と人丸がよみけん程など思ふに、いふもお ろかなり。 △おまへの池、またなにの心にてつけけるならんとゆかし。かみの池。狹山の 池は、みくりといふ歌のをかしきがおぼゆるならん。こひぬまの池。はらの池 は、「玉藻な刈りそ」といひたるも、をかしうおぼゆ。 【三九】△節は五月にしく月はなし。菖蒲・蓬などのかをりあひたる、いみじう をかし。九重の御殿の上をはじめて、いひしらぬ民のすみかまで、いかでわが もとにしげく葺かんと葺きわたしたる、なほいとめづらし。いつかは、ことを りにさはしたりし。 △空のけしき、くもりわたりたるに、中宮などには、縫殿より御藥玉とて、色 々の絲を組み下げて參らせたれば、御帳たてたる母屋のはしらに、左右につけ たり。九月九日の菊を、あやしき生絹のきぬにつつみてまゐらせたるを、おな じはしらにゆひつけて月頃ある藥玉にときかへてぞ棄つめる。また、藥玉は、 菊のをりまであるべきにやあらん。されど、それはみな絲をひきとりて、もの ゆひなどして、しばしもなし。 △御節供まゐり、わかき人々菖蒲のさしぐしさし、物忌つけなどして、さまざ まの唐衣・汗衫などに、をかしき折枝ども、ながき根にむら濃の組してむすび つけたるなど、めづらしういふべきことならねど、いとをかし。さて、春ごと に咲くとて、櫻をよろしう思ふ人やはある。 △つちありくわらはべなどの、ほどほどにつけて、いみじきわざしたりと思ひ て、つねに袂まぼり、人のにくらべなど、えもいはずと思ひたるなどを、そば へたる小舍人童などに、ひきはられて泣くもをかし。 △むらさきの紙に楝の花、あをき紙に菖蒲の葉、ほそくまきてゆひ、また、し ろき紙を、根してひきゆひたるもをかし。いとながき根を、文のなかに入れな どしたるを見る心地ども、えんなり。返りごと書かんといひあはせ、かたらふ どちは見せかはしなどするも、いとをかし。人の女、やむごとなき所々に、御 文など聞え給ふ人も、けふは心ことにぞなまめかしき。夕暮の程に、ほととぎ すの名のりてわたるも、すべていみじき。 【四〇】△花の木ならぬは△かへで。かつら。五葉。 △たそばの木、しななき心地すれど、花の木どもちりはてて、おしなべてみど りになりたるなかに、時もわかず、こきもみぢのつやめきて、思ひもかけぬ青 葉の中よりさし出でたる、めづらし。 △まゆみ、さらにもいはず。そのものとなけれど、やどり木といふ名、いとあ はれなり。さか木、臨時の祭の御神樂のをりなど、いとをかし。世に木どもこ そあれ、神の御前のものと生ひはじめけむも、とりわきてをかし。 △楠の木は、木立おほかる所にも、ことにまじらひたてらず、おどろおどろし き思ひやりなどうとましきを、千枝にわかれて戀する人のためしにいはれたる こそ、たれかは數を知りていひはじめけんと思ふにをかしけれ。 △桧の木、またけぢかからぬものなれど、三葉四葉の殿づくりもをかし。五月 に雨の聲をまなぶらんもあはれなり。 △かへでの木のささやかなるに、もえいでたる葉末のあかみて、おなじかたに ひろごりたる、葉のさま、花も、いと物はかなげに、蟲などの乾れたるに似て をかし。 △あすはひの木、この世にちかくもみえきこえず。御嶽にまうでて歸りたる人 などのもて來める、枝ざしなどは、いと手ふれにくげにあらくましけれど、な にの心ありて、あすはひの木とつけけむ。あぢきなきかねごとなりや。たれに たのめたるにかとおもふに、きかまほしくをかし。 △ねずもちの木、人なみなみになるべきにもあらねど、葉のいみじうこまかに ちひさきがをかしきなり。楝の木。山橘。山梨の木。 △椎の木、常磐木はいづれもあるを、それしも、葉がへせぬためしにいはれた るもをかし。 △白樫といふものは、まいて深山木のなかにもいとけどほくて、三位・二位の うへのきぬ染むるをりばかりこそ、葉をだに人の見るめれば、をかしきこと、 めでたきことにとりいづべくもあらねど、いづくともなく雪のふりおきたるに 見まがへられ、素盞嗚尊出雲の國におはしける御ことを思ひて、人丸がよみた る歌などを思ふに、いみじくあはれなり。をりにつけても、ひとふしあはれと もをかしとも聞きおきつるものは、草・木・鳥・蟲もおろかにこそおぼえね。 △ゆづり葉の、いみじうふさやかにつやめき、莖はいとあかくきらきらしく見 えたるこそ、あやしけれどをかし。なべての月には見えぬ物の、師走のつごも りのみ時めきて、亡き人のくひものに敷く物にやとあはれなるに、また、よは ひを延ぶる齒固めの具にももてつかひためるは。いかなる世にか、「紅葉せん 世や」といひたるもたのもし。 △柏木、いとをかし。葉守の神のいますらんもかしこし。兵衞の督・佐・尉な どいふもをかし。 △姿なけれど、椶櫚の木、唐めきて、わるき家の物とは見えず。 【四一】△鳥は△こと所の物なれど、鸚鵡、いとあはれなり。人のいふらんこと をまねぶらんよ。ほととぎす。くひな。しぎ。都鳥。ひわ。ひたき。 △山鳥、友を戀ひて、鏡を見すればなぐさむらん、心わかう、いとあはれなり。 谷へだてたる程など、心ぐるし。鶴は、いとこちたきさまなれど、鳴くこゑ雲 井まできこゆる、いとめでたし。 △かしらあかき雀。斑鳩の雄鳥。たくみ鳥。 △鷺は、いとみめも見ぐるし。まなこゐなども、うたてよろづになつかしから ねど、「ゆるぎの森にひとりはねじ」とあらそふらん、をかし。水鳥、鴛鴦いと あはれなり。かたみにゐかはりて、羽のうへの霜はらふらん程など。千鳥いと をかし。 △鴬は、ふみなどにもめでたきものにつくり、聲よりはじめてさまかたちも、 さばかりあてにうつくしき程よりは、九重のうちになかぬぞいとわろき。人の 「さなんある」といひしを、さしもあらじと思ひしに、十年ばかりさぶらひて ききしに、まことにさらに音せざりき。さるは、竹ちかき紅梅も、いとよくか よひぬべきたよりなりかし。まかでてきけば、あやしき家の見所もなき梅の木 などには、かしがましきまでぞなく。よるなかぬもいぎたなき心地すれども、 今はいかがせん。夏・秋の末まで老いごゑに鳴きて、「むしくひ」など、ようも あらぬ者は、名を付けかへていふぞ、くちをしくくすしき心地する。それもた だ、雀などのやうに常にある鳥ならば、さもおぼゆまじ。春なくゆゑこそはあ らめ。「年たちかへる」など、をかしきことに、歌にも文にもつくるなるは。な ほ春のうちならましかば、いかにをかしからまし。人をも、人げなう、世のお ぼえあなづらはしうなりそめにたるをばそしりやはする。鳶・烏などのうへは、 見入れきき入れなどする人、世になしかし。されば、いみじかるべきものとな りたれば、とおもふに、心ゆかぬ心地するなり。 △祭のかへさ見るとて、雲林院・知足院などのまへに車を立てたれば、ほとと ぎすもしのばぬにやあらん、なくに、いとようまねび似せて、木だかき木ども の中に、もろ聲になきたるこそ、さすがにをかしけれ。 △ほととぎすは、なほさらにいふべきかたなし。いつしかしたり顏にも聞えた るに、卯の花・花橘などにやどりをして、はたかくれたるも、ねたげなる心ば へなり。 △五月雨のみじかき夜に寢覺をして、いかで人よりさきにきかむとまたれて、 夜ふかくうちいでたるこゑの、らうらうじう愛敬づきたる、いみじう心あくが れ、せんかたなし。六月になりぬれば、音もせずなりぬる、すべていふもおろ かなり。 △よる鳴くもの、なにもなにもめでたし。ちごどものみぞさしもなき。 【四二】△あてなるもの△薄色に白襲の汗衫。かりのこ。削り氷にあまづら入れ て、あたらしき金鋺に入れたる。水晶の數珠。藤の花。梅の花に雪のふりかか りたる。いみじううつくしきちごの、いちごなどくひたる。 【四三】△蟲は△すずむし。ひぐらし。てふ。松蟲。きりぎりす。はたおり。わ れから。ひをむし。螢。 △みのむし、いとあはれなり。鬼の生みたりければ、親に似てこれもおそろし き心あらんとて、親のあやしききぬひき着せて、「いま秋風吹かむをりぞ來んと する。まてよ」といひおきて、にげていにけるも知らず、風の音を聞き知りて、 八月ばかりになれば、「ちちよ、ちちよ」とはかなげに鳴く、いみじうあはれな り。 △ぬかづき蟲、またあはれなり。さる心地に道心おこしてつきありくらんよ。 思ひかけず、くらき所などに、ほとめきありきたるこそをかしけれ。 △蝿こそにくき物のうちにいれつべく、愛敬なき物はあれ。人々しう、かたき などにすべきもののおほきさにはあらねど、秋など、ただよろづの物にゐ、顏 などに、ぬれ足してゐるなどよ。人の名につきたる、いとうとまし。 △夏蟲、いとをかしうらうたげなり。火ちかうとりよせて物語などみるに、草 子の上などにとびありく、いとをかし。蟻は、いとにくけれど、かろびいみじ うて、水の上などを、ただあゆみにあゆみありくこそをかしけれ。 【四四】△七月ばかりに、風いたうふきて、雨などさわがしき日、おほかたいと すずしければ、扇もうちわすれたるに、汗の香すこしかかへたる綿衣のうすき を、いとよくひき着て晝寢したるこそをかしけれ。 【四五】△にげなきもの△下衆の家に雪の降りたる。また、月のさし入りたるも くちをし。月のあかきに、屋形なき車のあひたる。また、さる車にあめ牛かけ たる。また、老いたる女の腹たかくてありく。わかきをとこ持ちたるだに見ぐ るしきに、こと人のもとへいきたるとてはら立つよ。 △老いたるをとこの寢まどひたる。また、さやうに鬚がちなるものの椎摘みた る。齒もなき女の梅くひて酸がりたる。下衆の紅の袴着たる。この頃はそれの みぞあめる。 △靱負の佐の夜行すがた。狩衣すがたも、いとあやしげなり。人におぢらるる うへのきぬは、おどろおどろし。立ちさまよふも、見つけてあなづらはし。「嫌 疑の者やある」ととがむ。入りゐて、空だきものにしみたる几帳にうちかけた る袴など、いみじうたつきなし。 △かたちよき君たちの、彈正の弼にておはする、いと見ぐるし。宮の中將など の、さもくちをしかりしかな。 【四六】△細殿に人あまたゐて、やすからず物などいふに、きよげなるをとこ、 小舍人童など、よきつつみ・袋などに、衣どもつつみて、指貫のくくりなどぞ みえたる、弓・矢・楯など持てありくに、「たがぞ」と問へば、ついゐて、「な にがし殿の」とていく者はよし。けしきばみ、やさしがりて、「知らず」ともい ひ、物もいはでも往ぬる者は、いみじうにくし。 【四七】△主殿司こそ、なほをかしきものはあれ。下女の際は、さばかりうらや ましきものはなし。よき人にもせさせまほしきわざなめり。わかくかたちよか らんが、なりなどよくてあらんは、ましてよからんかし。すこし老いて、物の 例知り、おもなきさまなるも、いとつきづきしくめやすし。 △主殿司の顏愛敬づきたらん、ひとり持たりて、裝束時にしたがひ、裳・唐衣 などいましめかしくてありかせばや、とこそおぼゆれ。 【四八】△をのこは、また、隨身こそあめれ。いみじう美々しうてをかしき君た ちも、隨身なきはいとしらじらし。辨などは、いとをかしき官に思ひたれど、 下襲の裾みじかくて隨身のなきぞいとわろきや。 【四九】△職の御曹司の西面の立蔀のもとにて、頭の辨、物をいと久しういひ立 ち給へれば、さしいでて、「それはたれぞ」といへば、「辨さぶらふなり」との たまふ。「なにかさもかたらひ給ふ。大辨みえば、うちすて奉りてんものを」 といへば、いみじうわらひて、「たれかかかる事をさへいひ知らせけん。「それ、 さなせそ」とかたらふなり」とのたまふ。 △いみじうみえ聞えて、をかしきすぢなど立てたることはなう、ただありなる やうなるを、みな人さのみ知りたるに、なほ奧ふかき心ざまを見知りたれば、 「おしなべたらず」など、御前にも啓し、また知ろしめしたるを、つねに、 「「女は己をよろこぶもののために顏づくりす。士は己を知る者のために死ぬ」 となんいひたる」といひあはせ給ひつつ、よう知り給へり。「遠江の濱柳」と いひかはしてあるに、わかき人々は、ただいひに見ぐるしきことどもなど、つ くろはずいふに、「此の君こそうたてみえにくけれ。こと人のやうに、歌うたひ 興じなどもせず、けすさまじ」などそしる。 △さらにこれかれに物いひなどもせず、「まろは、目はたたざまにつき、眉は額 ざまに生ひあがり、鼻はよこざまなりとも、ただ口つき愛敬づき、おとがひの 下、くびきよげに、聲にくからざらん人のみなん思はしかるべき。とはいひな がら、なほ顏いとにくげならん人は心憂し」とのみのたまへば、ましておとが ひほそう、愛敬おくれたる人などは、あいなくかたきにして、御前にさへぞあ しざまに啓する。 △物など啓せさせんとても、そのはじめいひそめてし人をたづね、下なるをも 呼びのぼせ、つねに來ていひ、里なるは、文かきても、みづからもおはして、 「おそくまゐらば、「さなん申したる」と申しにまゐらせよ」とのたまふ。「そ れ、人のさぶらふらん」などいひゆづれど、さしもうけひかずなどぞおはす る。 △「あるにしたがひ、さだめず、なに事ももてなしたるをこそよきにすめれ」 とうしろ見きこゆれど、「我がもとの心の本性」とのみのたまひて、「改まらざ るものは心なり」とのたまへば、「さて、「憚りなし」とはなにをいふにか」と あやしがれば、わらひつつ、「なかよしなども人にいはる。かくかたらふとなら ば、なにか恥づる。見えなどもせよかし」とのたまふ。「いみじくにくげなれば、 さあらん人をばえ思はじとのたまひしによりて、え見奉らぬなり」といへば、 「げににくくもぞなる。さらばな見えそ」とて、おのづから見つべきをりも、 おのれ顏ふたぎなどして見給はぬも、まごころに空ごとし給はざりけりと思ふ に、三月つごもりがたは、冬の直衣の着にくきにやあらん、うへのきぬがちに てぞ、殿上の宿直姿もある。 △つとめて、日さし出づるまで、式部のおもとと小廂にねたるに、奧の遣戸を あけさせ給ひて、上の御前、宮の御前出でさせ給へば、おきもあへずまどふを、 いみじくわらはせ給ふ。唐衣をただ汗衫の上にうち着て、宿直物もなにもうづ もれながらある、上におはしまして、陣より出で入る者ども御覽ず。殿上人の つゆ知らでより來て物いふなどもあるを、「けしきな見せそ」とて、わらはせ給 ふ。 △さて立たせ給ふ。「ふたりながら、いざ」と仰せらるれど、「いま、顏などつ くろひたててこそ」とて、まゐらず。 △入らせ給ひて後も、なほめでたきことどもなどいひあはせてゐたる、南の遣 戸のそばの、几帳の手のさし出でたるにさはりて、簾のすこしあきたるより、 くろみたる物の見ゆれば、説孝がゐたるなめりとて、見も入れで、なほこと事 どもをいふに、いとよくゑみたる顏のさし出でたるも、なほ説孝なめりとて見 やりたれば、あらぬ顏なり。あさましとわらひさわぎて、几帳ひきなほし隱る れば、頭の辨にぞおはしける。みえ奉らじとしつるものをといとくちをし。も ろともにゐたる人は、こなたにむきたれば顏もみえず。 △立ち出でて、「いみじく名殘なくも見つるかな」とのたまへば、「説孝と思ひ 侍りつれば、あなづりてぞかし。などかは、見じとのたまふに、さつくづくと は」といふに、「女は寢起き顏なんいとかたき、といへば、ある人の局にいきて、 かいばみして、またも見やするとて來たりつるなり。まだ上のおはしましつる 折からあるをば、知らざりける」とて、それより後は、局の簾うちかづきなど し給ふめりき。 【五〇】△馬は△いとくろきが、ただいささかしろき所などある。むらさきの紋 つきたる。蘆毛。薄紅梅の毛にて、髮・尾などいとしろき。げに「ゆふかみ」 ともいひつべし。くろきが、足四つ白きもいとをかし。 【五一】△牛は△額はいとちひさく、しろみたるが、腹の下、足、尾の筋などは、 やがてしろき。 【五二】△猫は△上のかぎりくろくて、腹いとしろき。 【五三】△雜色・隨身は、すこし痩せてほそやかなるぞよき。男は、なほわかき 程は、さるかたなるぞよき。いたく肥えたるは、いねぶたからんとみゆ。 【五四】△小舍人童、ちひさくて髮いとうるはしきが、筋さはらかにすこし色な る、聲をかしうて、かしこまりて物などいひたるぞらうらうじき。 【五五】△牛飼は、おほきにて、髮あららかなるが、顏あかみて、かどかどしげ なる。 【五六】△殿上の名對面こそなほをかしけれ。御前に人侍ふをりは、やがて問ふ もをかし。足音どもしてくづれ出づるを、上の御局の東おもてにて、耳をとな へて聞くに、知る人の名のあるは、ふと例の胸つぶるらんかし。また、ありと もよく聞かせぬ人など、此のをりに聞きつけたるは、いかが思ふらん。「名のり よし」「あし」「聞きにくし」などさだむるもをかし。 △果てぬなりと聞く程に、瀧口の弓鳴らし、沓の音し、そそめき出づると、藏 人のいみじくたかく踏みごほめかして、丑寅のすみの勾欄に、高膝まづきとい ふゐずまひに、御前のかたにむかひて、うしろざまに、「誰々か侍る」と問ふこ そをかしけれ。たかくほそく名乘り、また、人々侍はねば、名對面つかうまつ らぬよし奏するも、「いかに」と問へば、さはる事ども奏するに、さ聞きてかへ るを、方弘きかずとて、君たちの教へ給ひければ、いみじう腹立ち叱りて、か うがへて、また瀧口にさへわらはる。 △御厨子所の御膳棚に沓おきて、いひののしらるるを、いとほしがりて、「誰が 沓にかあらん、え知らず」と主殿司、人々などのいひけるを、「やや、方弘がき たなきものぞ」とて、いとどさわがる。 【五七】△若くよろしき男の、下衆女の名よび馴れていひたるこそにくけれ。知 りながらも、なにとかや、片文字はおぼえでいふはをかし。 △宮仕所の局によりて、夜などぞあしかるべけれど、主殿司、さらぬただ所な どは、侍などにある者を具して來ても呼ばせよかし。手づから、聲もしるきに。 はした者・わらはべなどは、されどよし。 【五八】△若き人、ちごどもなどは、肥えたるよし。受領など大人だちぬるも、 ふくらかなるぞよき。 【五九】△ちごは、あやしき弓、しもとだちたる物などささげて遊びたる、いと うつくし。車などとどめて、いだき入れて見まほしくこそあれ。 △また、さて行くに、たき物の香いみじうかかへたるこそ、いとをかしけれ。 【六〇】△よき家の中門あけて、檳榔毛の車のしろくきよげなるに、蘇枋の下簾、 にほひいときよらにて、榻にうちかけたるこそめでたけれ。五位・六位などの 下襲の裾はさみて、笏のいとしろきに、扇うちおきなどいきちがひ、また、裝 束し、壷胡●負ひたる隨身の出で入りしたる、いとつきづきし。厨女のきよげ なるが、さし出でて、「なにがし殿の人やさぶらふ」などいふもをかし。 【六一】△瀧は△おとなしの瀧。布留の瀧は、法皇の御覽じにおはしましけんこ そめでたけれ。那智の瀧は、熊野にありと聞くがあはれなるなり。とどろきの 瀧は、いかにかしがましくおそろしからん。 【六二】△河は△飛鳥川。淵瀬もさだめなく、いかならんとあはれなり。大井河。 おとなし川。七瀬川。 △耳敏川川、またもなにごとをさくじり聞きけんとをかし。玉星川。細谷川。い つぬき川・澤田川などは、催馬樂などの思はするなるべし。名取川、いかなる 名を取りたるならんと聞かまほし。吉野河。 △天の川原、「たなばたつめに宿からん」と、業平がよみたるもをかし。 【六三】△あかつきに歸らん人は、裝束などいみじううるはしう、烏帽子の緒、 元結、かためずともありなんとこそおぼゆれ。いみじくしどけなく、かたくな しく、直衣・狩衣などゆがめたりとも、誰か見知りてわらひそしりもせん。 △人はなほあかつきのありさまこそ、をかしうもあるべけれ。わりなくしぶし ぶに起きがたげなるを、しひてそそのかし、「明けすぎぬ。あな、見ぐるし」 などいはれて、うちなげくけしきも、げにあかず物憂くもあらんかしと見ゆ。 指貫なども、ゐながら着もやらず、まづさしよりて、夜いひつることの名殘、 女の耳にいひ入れて、なにわざすともなきやうなれど、帶など結ふやうなり。 格子おしあげ、妻戸ある所は、やがてもろともに率ていきて、晝のほどのおぼ つかなからむことなども、いひ出でにすべり出でなんは、見おくられて名殘も をかしかりなん。 △思ひ出所ありて、いときはやかに起きて、ひろめきたちて、指貫の腰ごそご そとかはは結ひなほし、うへのきぬも、狩衣、袖かいまくりて、よろとさし入 れ、帶いとしたたかに結ひはてて、ついゐて、烏帽子の緒きとつよげに結ひ入 れて、かいすうる音して、扇・疊紙など、よべ枕上におきしかど、おのづから 引かれ散りにけるをもとむるに、くらければ、いかでかは見えん、いづらいづ らとたたきわたし、見出でて、扇ふたふたとつかひ、懷紙さし入れて、「まか りなん」とばかりこそいふらめ。 【六四】△橋は△あさむづの橋。長柄の橋。あまびこの橋。濱名の橋。一つ橋。 うたたねの橋。佐野の舟橋。堀江の橋。かささぎの橋。山すげの橋。をつの浮 橋。一すぢ渡したる棚橋、心せばけれど、名を聞くにをかしきなり。 【六五】△里は△逢坂の里。ながめの里。いざめの里。人づまの里。たのめの里。 夕日の里。つまとりの里、人に取られたるにやあらん、我がまうけたるにやあ らむとをかし。伏見の里。あさがほの里。 【六六】△草は△菖蒲。菰。葵、いとをかし。神代よりして、さるかざしとなり けん、いみじうめでたし。もののさまもいとをかし。おもだかは、名のをかし きなり。心あがりしたらんと思ふに。三稜草。蛇床子。苔。雪間の若草。こだ に。かたばみ、綾の紋にてあるも、ことよりはをかし。 △あやふ草は、岸の額に生ふらんも、げにたのしもしからず。いつまで草は、ま たはかなくあはれなり。岸の額よりも、これはくづれやすからんかし。まこと の石灰などには、え生ひずやあらんと思ふぞわろき。ことなし草は、思ふ事を なすにやと思ふもをかし。 △しのぶ草、いとあはれなり。道芝、いとをかし。茅花もをかし。蓬、いみじ うをかし。山菅。日かげ。山藍。濱木綿。葛。笹。青つづら。なづな。苗。淺 茅、いとをかし。 △蓮葉、よろづの草よりもすぐれてめでたし。妙法蓮華のたとひにも、花は佛 にたてまつり、實は數珠につらぬき、念佛して往生極樂の縁とすればよ。また、 花なき頃、みどりなる池の水に紅に咲きたるも、いとをかし。翠翁紅とも詩に 作りたるにこそ。 △唐葵、日の影にしたがひてかたぶくこそ、草木といふべくもあらぬ心なれ。 さしも草。八重むぐら。つき草、うつろひやすなるこそうたてあれ。 【六七】△草の花は△なでしこ。唐のはさらなり、大和のもいとめでたし。をみ なへし。桔梗。あさがほ。かるかや。菊。壷すみれ。龍膽は、枝ざしなどもむ つかしけれど、こと花どものみな霜枯れたるに、いとはなやかなる色あひにて さし出でたる、いとをかし。また、わざととりたてて人めかすべくもあらぬさ まなれど、かまつかの花らうたげなり。名もうたてあなる。雁の來る花とぞ文 字には書きたる。かにひの花、色は濃からねど、藤の花といとよく似て、春秋 と咲くがをかしきなり。 △萩、いと色ふかう、枝たをやかに咲きたるが、朝露にぬれてなよなよとひろ ごりふしたる、さ牡鹿のわきて立ち馴らすらんも、心ことなり。八重山吹。 △夕顏は、花のかたちも朝顏に似て、いひつづけたるに、いとをかしかりぬべ き花の姿に、實のありさまこそ、いとくちをしけれ。などさはた生ひ出でけん。 ぬかづきなどいふもののやうにだにあれかし。されど、なほ夕顏といふ名ばか りはをかし。しもつけの花。葦の花。 △これに薄を入れぬ、いみじうあやしと人いふめり。秋の野のおしなべたるを かしさは薄こそあれ。穗さきの蘇枋にいと濃きが、朝霧にぬれてうちなびきた るは、さばかりの物やはある。秋のはてぞ、いと見どころなき。色々にみだれ 咲きたりし花の、かたちもなく散りたるに、冬の末まで、かしらのいとしろく おほどれたるも知らず、むかし思ひ出顏に、風になびきてかひろぎ立てる、人 にこそいみじう似たれ。よそふる心ありて、それをしもこそ、あはれと思ふべ けれ。 【六八】△集は△古萬葉。古今。 【六九】△歌の題は△都。葛。三稜草。駒。霰。 【七〇】△おぼつかなきもの△十二年の山ごもりの法師の女親。知らぬ所に、闇 なるにいきたるに、あらはにもぞあるとて、火もともさで、さすがに並みゐた る。 △いま出で來たる者の心も知らぬに、やむごとなき物持たせて、人のもとにや りたるに、おそく歸る。物もまだいはぬちごの、そりくつがへり、人にもいだ かれず泣きたる。 【七一】△たとしへなきもの△夏と冬と。夜と晝と。雨降る日と照る日と。人の わらふと腹立つと。老いたるとわかきと。しろきとくろきと。思ふ人とにくむ 人と。おなじ人ながらも、心ざしあるをりと變りたるをりは、まことにこと人 とぞおぼゆる。 △火と水と。肥えたる人、痩せたる人。髮ながき人とみじかき人と。 【七二】△夜烏どものゐて、夜中ばかりにいねさわぐ。落ちまどひ、木づたひて、 寢起きたる聲に鳴きたるこそ、晝の目にたがひてをかしけれ。 【七三】△しのびたる所にありては、夏こそをかしけれ。いみじくみじかき夜の 明けぬるに、つゆ寢ずなりぬ。やがてよろづの所あけながらあれば、すずしく 見えわたされたる。なほいますこしいふべきことのあれば、かたみにいらへな どする程に、ただゐたる上より、烏のたかく鳴きていくこそ、顯證なる心地し てをかしけれ。 △また、冬の夜いみじうさむきに、うづもれ臥して聞くに、鐘の音の、ただ物 の底なるやうにきこゆる、いとをかし。鳥の聲も、はじめは羽のうちに鳴くが、 口を篭めながら鳴けば、いみじう物ふかくとほきが、明くるままにちかくきこ ゆるもをかし。 【七四】△懸想人にて來たるはいふべきにもあらず、ただうち語らふも、また、 さしもあらねど、おのづから來などもする人の、簾の内に人々あまたありて物 などいふに、ゐ入りてとみも歸りげもなきを、供なるをのこ・童など、とかく さしのぞき、けしき見るに、「斧の柄も朽ちぬべきなめり」と、いとむつかし かめれば、長やかにうちあくびて、みそかにと思ひていふらめど、「あなわびし。 煩惱苦惱かな。夜は夜中になりぬらむかし」といひたる、いみじう心づきなし。 かのいふ者は、ともかくもおぼえず、このゐたる人こそ、をかしと見え聞えつ ることも、失するやうにおぼゆれ。 △また、さいと色に出でてはえいはず、「あな」と高やかにうちいひ、うめきた るも、「下行く水の」といとほし。 △立蔀・透垣などのもとにて、「雨降りぬべし」など聞えごつもいとにくし。 いとよき人の御供人などは、さもなし。君たちなどのほどはよろし。それより 下れる際は、みなさやうにぞある。あまたあらん中にも、心ばへ見てぞ率てあ りかまほしき。 【七五】△ありがたきもの△舅にほめらるる婿。また、姑に思はるる嫁の君。毛 のよく拔くるしろがねの毛拔。主そしらぬ從者。 △つゆの癖なき。かたち・心・ありさますぐれ、世に經る程、いささかのきず なき。おなじ所に住む人の、かたみに恥ぢかはし、いささかのひまなく用意し たりと思ふが、つひに見えぬこそ難けれ。 △物語・集など書き寫すに、本に墨つけぬ。よき草子などは、いみじう心して 書けど、かならずこそきたなげになるめれ。 △をとこ、女をばいはじ、女どちも、契りふかくて語らふ人の、末までなかよ き人かたし。 【七六】△内裏の局、細殿いみじうをかし。上の蔀あげたれば、風いみじう吹き 入りて、夏もいみじうすずし。冬は、雪・霰などの、風にたぐひて降り入りた るもいとをかし。せばくて、わらはべなどののぼりぬるぞあしけれども、屏風 のうちにかくしすゑたれば、こと所の局のやうに、聲たかく笑わらひなどもせ で、いとよし。晝なども、たゆまず心づかひせらる。夜はまいてうちとくべき やうもなきが、いとをかしきなり。 △沓の音、夜一夜聞ゆるが、とどまりて、ただおよびひとつしてたたくが、そ の人なりと、ふと聞ゆるこそをかしけれ。いとひさしうたたくに、音もせねば、 寢入りたりとや思ふらんとねたくて、すこしうちみじろぐ、衣のけはひ、さな なりと思ふらんかし。冬は、火桶にやをら立つる箸の音も、しのびたりと聞ゆ るを、いとどたたきはらへば、聲にてもいふに、かげながらすべりよりて聞く 時もあり。 △また、あまたの聲して詩誦し、歌などうたふには、たたかねどまづあけたれ ば、ここへとしも思はざりける人も立ちとまりぬ。ゐるべきやうもなくて立ち あかすも、なほをかしげなるに、几帳の帷子いとあざやかに、裾のつまうちか さなりて見えたるに、直衣のうしろにほころびたえず着たる君たち、六位の藏 人の青色など着て、うけばりて、遣戸のもとなどに、そばよせてはえ立たで、塀 のかたにうしろおして、袖うちあはせて立ちたるこそをかしけれ。 △また、指貫いと濃う、直衣あざやかにて、色々の衣どもこぼし出でたる人の、 簾をおし入れて、なからいりたるやうなるも、外より見るはいとをかしからん を、きよげなる硯引きよせて文書き、もしは、鏡乞ひて見なほしなどしたるは、 すべてをかし。 △三尺の几帳を立てたるに、帽額の下ただすこしぞある、外に立てる人と内に ゐたる人と物いふが、顏のもとにいとよくあたりたるこそをかしけれ。たけの たかくみじかからん人などや、いかがあらん。なほ世のつねの人はさのみあら ん。 【七七】△まいて、臨時の祭の調樂などはいみじうをかし。主殿寮の官人、長き 松をたかくともして、頚は引き入れていけば、さきはさしつけつばかりなるに、 をかしう遊び、笛吹き立てて、心ことに思ひたるに、君たち日の裝束して立ち どまり、物いひなどするに、供の隨身どもの、前驅を忍びやかにみじかう、お のが君たちの料に追ひたるも、遊びにまじりてつねに似ずをかしう聞ゆ。 △なほあげながら歸るを待つに、君たちの聲にて、「荒田に生ふるとみ草の花」 とうたひたる、このたびはいますこしをかしきに、いかなるまめ人にかあらん、 すくずくしうさしあゆみて往ぬるもあれば、わらふを、「しばしや。「など、さ、 夜を捨てていそぎ給ふ」とあり」などいへば、心地などやあしからん、倒れぬ ばかり、もし人などや追ひて捕ふると見ゆるまで、まどひ出づるもあめり。 【七八】△職の御曹司におはします頃、木立などのはるかにものふり、屋のさま も高う、けどほけれど、すずろにをかしうおぼゆ。母屋は鬼ありとて、南へ隔 ていだして、南の廂に御帳立てて、又廂に女房はさぶらふ。 △近衞の御門より、左衞門の陣にまゐり給ふ上達部の前驅ども、殿上人のはみ じかければ、大前驅・小前驅とつけて聞きさわぐ。あまたたびになれば、その 聲どももみな聞き知りて、「それぞ」「かれぞ」などいふに、また、「あらず」な どいへば、人して見せなどするに、いひあてたるは、「さればこそ」などいふも をかし。 △有明のいみじう霧りわたりたる庭に、下りてありくをきこしめして、御前に も起きさせ給へり。うへなる人々のかぎりは出でゐ、下りなどして遊ぶに、や うやう明けもてゆく。 △「左衞門の陣にまかり見ん」とていけば、我も我もとおひつぎていくに、殿 上人あまた聲して、「なにがし一聲の秋」と誦してまゐる音すれば、逃げ入り、 物などいふ。「月を見給ひけり」など、めでて歌よむもあり。 △夜も晝も、殿上人の絶ゆるをりなし。上達部までまゐり給ふに、おぼろげに、 いそぐことなきは、かならずまゐり給ふ。 【七九】△あぢきなきもの△わざと思ひ立ちて宮仕に出で立ちたる人の、物憂が り、うるさげに思ひたる。養子の顏にくげなる。しぶしぶに思ひたる人を、し ひて婿取りて、思ふさまならずとなげく。 【八〇】△心地よげなるもの△卯杖のことぶき。御神樂の人長。神樂の振幡とか 持たる者。御靈會の馬の長。池の蓮、村雨にあひたる。傀儡のこととり。 【八一】△御佛名のまたの日、地獄繪の屏風とりわたして、宮に御覽ぜさせ奉ら せ給ふ。ゆゆしう、いみじきことかぎりなし。「これ見よ、見よ」とおほせらる れど、「さらに見侍らじ」とて、ゆゆしさにうへやにかくれふしぬ。 △雨いたう降りてつれづれなりとて、殿上人上の御局に召して御遊あり。道方 の少納言、琵琶いとめでたし。濟政箏の琴、行義笛、經房の少將、笙の笛など おもしろし。ひとわたり遊びて、琵琶ひきやみたる程に、大納言殿、「琵琶の 聲やんで物語せんとすること遲し」と誦し給へりしに、かくれふしたるしも起 き出でて、「なほ、罪おそろしけれど、もののめでたさはやむまじ」とてわらは る。 【八二】△頭の中將の、すずろなるそら言を聞きて、いみじういひおとし、「何し に人とほめけん」など、殿上にていみじうなんのたまふ、と聞くにもはづかし けれど、まことならばこそあらめ、おのづから聞きなほし給ひてんとわらひて あるに、黒戸の前などわたるにも、聲などするをりは、袖をふたぎてつゆ見お こせず、いみじうにくみ給へば、ともかうもいはず、見も入れですぐすに、二 月つごもりがた、いみじう雨降りてつれづれなるに、御物忌にこもりて、「「さ すがにさうざうしくこそあれ。物やいひやらまし」となんのたまふ」と、人々 語れど、「よにあらじ」などいらへてあるに、日一日下に居くらして、まゐりた れば、夜のおとどに入らせ給ひにけり。 △長押の下に火ちかくとりよせて、さしつどひて扁をぞつく。「あなうれし。 とくおはせ」など、見つけていへど、すさまじき心地して、なにしにのぼりつ らんと覺ゆ。炭櫃のもとにゐたれば、そこにまたあまたゐて、物などいふに、 「なにがしさぶらふ」と、いとはなやかにいふ。「あやし、いづれのまに、何事 のあるぞ」と問はすれば、主殿司なりけり。「ただここもとに、人傳ならで申す べき事」などいへば、さし出でて問ふに、「これ、頭の殿の奉らせ給ふ。御返り ごととく」といふ。 △いみじくにくみ給ふに、いかなる文ならんと思へど、ただ今いそぎ見るべき にもあらねば、「往ね。いまきこえん」とて、ふところにひき入れて入りぬ。な ほ人の物いふ聞きなどする、すなはちたち歸り來て、「さらば、そのありつる 御文を賜はりて來」となん仰せらるる。とくとく」といふが、あやしう、いせ の物語なりやとて見れば、青き薄樣に、いときよげに書き給へり。心ときめき しつるさまにもあらざりけり。 △△蘭省花時錦帳下 と書きて、「末はいかに、いかに」とあるを、いかにかはすべからん、御前おは しまさば、御覽ぜさすべきを、これが末を知り顏に、たどたどしき眞名に書き たらんも、いと見ぐるしと、思ひまはす程もなく、責めまどはせば、ただその 奧に、炭櫃に消えたる炭のあるして、 △△草のいほりをたれかたづねん と書きつけて、とらせつれど、また返りごともいはず。 △みな寢て、つとめて、いととく局に下りたれば、源中將の聲にて、「ここに、 草の庵やある」と、おどろおどろしくいへば、「あやし。などてか、人げなき ものはあらん。玉の臺ともとめ給はましかば、いらへてまし」といふ。「あなう れし。下にありけるよ。上にてたづねんとしつるを」とて、よべありしやう、 「頭の中將の宿直所に、すこし人々しきかぎり、六位まであつまりて、よろづ の人の上、昔今と語り出でていひしついでに、「なほこの者、むげに絶えはてて 後こそ、さすがにえあらね。もしいひ出づることもやと待てど、いささかなに とも思ひたらず、つれなきもいとねたきを、今宵あしともよしともさだめきり てやみなんかし」とて、みないひあはせたりしことを、「ただ今は見るまじとて 入りぬ」と、主殿司がいひしかば、また追ひ返して、「ただ、袖をとらへて、東 西せさせず乞ひとりて、持て來。さらずは、文を返しとれ」といましめて、さ ばかり降る雨のさかりにやりたるに、いととく歸りたりき。「これ」とて、さ し出でたるが、ありつる文なれば、返してけるかとて、うち見たるに、あはせ てをめけば、「あやし。いかなることぞ」と、みな寄りて見るに、「いみじき盜 人を。なほえこそ捨つまじけれ」とて見さわぎて、「これが本つけてやらん。源 中將つけよ」など、夜ふくるまでつけわづらひてやみにしことは、行く先も、 かならずかたり傳ふべきことなり、などなん、みなさだめし」など、いみじう かたはらいたきまでいひ聞かせて、「御名をば、今は草の庵となんつけたる」 とて、いそぎ立ち給ひぬれば、「いとわろき名の、末の世まであらんことこそ、く ちをしかなれ」といふほどに、修理の亮則光、「いみじきよろこび申しになむ、 上にやとてまゐりたりつる」といへば、「なんぞ。司召なども聞えぬを、何にな り給へるぞ」と問へば、「いな、まことにいみじう嬉しきことの、よべ侍りし を、心もとなく思ひ明かしてなん。かばかり面目なることなかりき」とて、は じめありけることども、中將の語り給ひつる、おなじことをいひて、「「ただ、 この返りごとにしたがひて、こかけをしふみし、すべて、さる者ありきとだに 思はじ」と、頭の中將ののたまへば、あるかぎりかうようしてやり給ひしに、 ただに來たりしは、なかなかよかりき。持て來たりしたびは、いかならんと胸 つぶれて、まことにわろからんは、せうとのためにもわるかるべしと思ひしに、 なのめにだにあらず、そこらの人のほめ感じて、「せうと、こち來。これ聞け」 とのたまひしかば、下心地はいとうれしけれど、さやうの方に、さらにえさ ぶらふまじき身になん」と申ししかば、「言くはへよ、聞き知れとにはあらず。 ただ、人に語れとて聞かするぞ」とのたまひしなん、すこしくちをしきせうと のおぼえに侍りしかども、本つけこころみるに、いふべきやうなし。「ことに、 また、これが返しをやすべき」などいひあはせ、「わるしといはれては、なか なかねたかるべし」とて、夜中までおはせし。これは、身のためも人の御ため も、よろこびには侍らずや。司召に少々の司得て侍らんは、何ともおぼゆまじ くなん」といへば、げにあまたして、さることあらんとも知らで、ねたうもあ るべかりけるかなと、これになん、胸つぶれて覺えし。このいもうと・せうと といふことは、上までみな知ろしめし、殿上にも、司の名をばいはで、せうと とぞつけられたる。 △物語などしてゐたる程に、「まづ」と召したれば、まゐりたるに、此のことお ほせられんとなりけり。上わたらせ給ひて、語り聞えさせ給ひて、をのこども みな、扇に書きつけてなむ持たる、など仰せらるるにこそ、あさましく、何の いはせけるにかとおぼえしか。 △さてのちぞ、袖の几帳などとり捨てて、思ひなほり給ふめりし。 【八三】△かへる年の二月廿日よ日、宮の職へ出でさせ給ひし、御供にまゐらで、 梅壷に殘りゐたりし、またの日、頭の中將の御消息とて、「昨日の夜、鞍馬にま うでたりしに、今宵、方のふたがりければ、方違になんいく。まだ明けざらん に歸りぬべし。かならずいふべきことあり。いたうたたかせで待て」とのたま へりしかど、「局にひとりはなどてあるぞ。ここに寢よ」と、御匣殿の召したれ ば、まゐりぬ。 △ひさしう寢起きて、下りたれば、「昨夜いみじう人のたたかせ給ひし、からう じて起きて侍りしかば、「上にか。さらば、かくなんと聞えよ」と侍りしかど も、よも起きさせ給はじとて臥し侍りにき」と語る。心もなの事や、と聞く程 に、主殿司來て、「頭の殿の聞えさせ給ふ、「ただいままかづるを、きこゆべき ことなんある」」といへば、「見るべきことありて、上になんのぼり侍る。そこ にて」といひてやりつ。 △局は、引きもやあけ給はんと、心ときめきわづらはしければ、梅壷の東面、 半蔀あげて、「ここに」といへば、めでたくてぞあゆみ出で給へる。 △櫻の直衣のいみじくはなばなと、裏のつやなど、えもいはずきよらなるに、 葡萄染のいと濃き指貫、藤の折枝おどろおどろしく織りみだりて、くれなゐの 色、打ち目など、かがやくばかりぞ見ゆる。しろき、薄色など、下にあまたか さなり、せばき縁に、かたつかたは下ながら、すこし簾のもとちかうよりゐ給 へるぞ、まことに繪にかき、物語のめでたきことにいひたる、これにこそはと ぞ見えたる。 △御前の梅は、西はしろく、東は紅梅にて、すこし落ちがたになりたれど、な ほをかしきに、うらうらと日のけしきのどかにて、人に見せまほし。御簾の内 に、まいてわかやかなる女房などの、髮うるはしう、こぼれかかりて、などい ひためるやうにて、もののいらへなどしたらんは、いますこしをかしう、見所 ありぬべきに、いとさだ過ぎ、ふるぶるしき人の、髮などもわがにはあらねば にや、所々わななきちりぼひて、おほかた色ことなる頃なれば、あるかなきか なる薄鈍、あはひも見えぬうは衣などばかり、あまたあれど、つゆのはえも見 えぬに、おはしまさねば裳も着ず、袿すがたにてゐたるこそ、物ぞこなひにて くちをしけれ。 △「職へなむ參る。ことづけやある。いつかまゐる」などのたまふ。「さても、 昨夜明かしもはてで、さりとも、かねてさいひしかば待つらんとて、月のいみ じうあかきに、西の京といふ所より來るままに、局をたたきし程、からうじて 寢おびれ起きたりしけしき、いらへのはしたなさ」など語りてわらひ給ふ。「む げにこそ思ひうんじにしか。などさる者をば置きたる」とのたまふ。げにさぞ ありけんと、をかしうもいとほしうもありし。 △しばしありて出で給ひぬ。外より見ん人は、をかしく、いかなる人あらんと 思ひぬべし。奧のかたより見いだされたらんうしろこそ、外にさる人やとおぼ ゆまじけれ。 △暮れぬればまゐりぬ。御前に人々いとおほく、上人などさぶらひて、物語の よきあしき、にくき所などをぞ定め、いひそしる。涼・仲忠などがこと、御前 にも、おとりまさりたるほどなど仰せられける。「まづ、これはいかに。とくこ とわれ。仲忠が童生ひのあやしさを、せちに仰せらるるぞ」などいへば、「なに かは。琴なども、天人の下るばかり彈き出で、いとわるき人なり。帝の御むす めやは得たる」といへば、仲忠が方人ども、所を得て、「さればよ」などいふに、 「このことどもよりは、晝、齊信がまゐりたりつるを見ましかば、いかにめで 惑はましとこそおぼえつれ」と仰せらるるに、さて、「まことに、つねよりもあ らまほしくこそ」などいふ。「まづそのことをこそは啓せんと思ひてまゐりつ るに、物語のことにまぎれて」とて、ありつる事のさま、語り聞えさすれば、 「誰も見つれど、いとかう、縫ひたる絲、針目までやは見とほしつる」とてわ らふ。 △西の京といふ所のあはれなりつる事、「もろともに見る人のあらましかばと なんおぼえつる。垣などもみな古りて、苔生ひてなん」など語りつれば、宰相 の君、「瓦に松はありつや」といらへたるに、いみじうめでて、「西の方、都門 を去れる事いくばくの地ぞ」と口ずさびつる事など、かしがましきまでいひし こそをかしかりか。 【八四】△里にまかでたるに、殿上人などの來るをも、やすからずぞ人々いひな すなる。いと有心に、引きいりたるおぼえはたなければ、さいはんもにくかる まじ。また、晝も夜も來る人を、なにしにかは、「なし」ともかがやきかへさむ。 まことにむつまじうなどあらぬも、さこそは來めれ。あまりうるさくもあれば、 このたび出でたる所をば、いづくとなべてには知らせず。左中將經房の君、濟 政の君などばかりぞ、知り給へる。 △左衞門の尉則光が來て、物語などするに、「昨日宰相の中將のまゐり給ひて、 「いもうとのあらん所、さりとも知らぬやうあらじ。いへ」と、いみじう問ひ 給ひしに、さらに知らぬよしを申ししに、あやにくにしひ給ひしこと」などい ひて、「あることあらがふ、いとわびしうこそありけれ。ほとほと笑みぬべかり しに、左の中將の、いとつれなく知らず顏にてゐ給へりしを、かの君に見だに あはせば、わらひぬべかりしに、わびて、臺盤の上に、布のありしをとりて、 ただ食ひに食ひまぎらはししかば、中間にあやしの食ひものやと、人々見けむ かし。されど、かしこう、それにてなん、そことは申さずなりにし。わらひな ましかば不用ぞかし。まことに知らぬなめりと思したりしも、をかしくこそ」 などかたれば、「さらにな聞え給ひそ」などいひて、日頃ひさしうなりぬ。 △夜いたうふけて、門をいたうおどろおどろしうたたけば、なにの用に、心も なう、遠からぬ門をたかくたたくらんと聞きて、問はすれば、瀧口なりけり。 「左衞門の尉の」とて文を持て來たり。みな寢たるに、火とりよせさせて見れ ば、「明日、御讀經の結願にて、宰相の中將、御物忌にこもり給へり。「いもう とのあり所申せ、」とせめらるるに、ずちなし。さらにえ隱し申すまじ。 さなんとや聞かせ奉るべき。いかに。仰せにしたがはん」といひたる、返りご とは書かで、布を一寸ばかり、紙につつみてやりつ。 △さてのち來て、「一夜は、せめたてられて、すずろなる所々になん率てあり き奉りし。まめやかにさいなむに、いとからし。さて、などともかくも御返り はなくて、すずろなる布の端をばつつみて、賜へりしぞ。あやしのつつみ物や。 人のもとに、さるものつつみておくるやうやはある。とりたがへたるか」とい ふ。いささか心も得ざりけると見るがにくければ、物もいはで、硯にある紙の 端に、 △△かづきするあまのすみかをそことだにゆめいふなとやめを食はせけん と書きてさし出でたれば、「歌よませ給へるか。さらに見侍らじ」とて、あふぎ 返して逃げて往ぬ。 △かう語らひ、かたみの後見などする中に、なにともなくて、すこしなかあし うなりたる、文おこせたり。「びんなきことなど侍りとも、なほ契り聞えしかた は忘れ給はで、よそめにては、さぞとは見給へとなん思ふ」といひたり。 △つねにいふ事は、「おのれを思さむ人は、歌をなんよみて得さすまじき。すべ て仇敵となん思ふ。いまは、限ありて絶えんと思はん時にを、さることはいへ」 などいひしかば、この返りごとに、 △△くづれよる妹背の山の中なればさらに吉野の河とだに見じ といひやりしも、まことに見ずやなりけん、返しもせずなりにき。 △さて、かうぶり得て、遠江の介といひしかば、にくくてこそやみにしか。 【八五】△物のあはれ知らせ顏なるもの△はな垂り、まもなうかみつつ物いふ聲。 眉拔く。 【八六】△さて、その左衞門の陣などにいきてのち、里に出でてしばしあるほど に、「とくまゐりね」など、仰せごとの端に、「左衞門の陣へいきしうしろなん、 つねに思しめし出でらるる。いかで、さつれなくうち古りてありしならん。い みじうめでたからんとこそ思ひたりしか」など仰せられたる、御返りに、かし こまりのよし申して、私には、「いかでかはめでたしと思ひ侍らざらん。御前 にも、「なかなるをとめ」とは御覽じおはしましけんとなむ思ひ給へし」ときこ えさせたれば、たちかへり、「いみじく思へるなる仲忠がおもてぶせなる事は、 いかで啓したるぞ。ただ今宵のうちに、よろづのことを捨ててまゐれ。さらず は、いみじうにくませ給はん」となん仰せごとあれば、「よろしからんにてだに ゆゆし。まいて「いみじ」とある文字に、命も身も、さながら捨ててなん」と て參りにき。 【八七】△職の御曹司におはします頃、西の廂にて、不斷の御讀經あるに、佛な どかけ奉り、僧どものゐたるこそ、さらなることなれ。 △二日ばかりありて、縁のもとに、あやしき者の聲にて、「なほかの御佛供のお ろし侍りなん」といへば、「いかでか、まだきには」といふなるを、何のいふに かあらんとて、立ち出でて見るに、なま老いたる女法師の、いみじうすすけた る衣を着て、さるさまにていふなりけり。「かれは、何ごといふぞ」といへば、 聲ひきつくろひて、「佛の御弟子にさぶらへば、御佛供のおろしたべんと申すを、 この御坊たちの惜しみ給ふ」といふ。はなやぎ、みやびかなり。かかる者は、 うちうんじたるこそあはれなれ、うたてもはなやぎたるかなとて、「こと物は食 はで、ただ佛の御おろしをのみ食ふか。いとたふときことかな」といふ。けし きを見て、「などか、こと物も食べざらん。それがさぶらはねばこそとり申しつ れ」といへば、くだ物、ひろき餅などを、物に入れてとらせたるに、むげにな かよくなりて、よろづのこと語る。 △わかき人々出で來て、「をとこやある」「いづくにか住む」など口々問ふに、 をかしき言、そへ言などをすれば、「歌はうたふや。舞などするか」と問ひも はてぬに、「夜は誰とか寢ん。常陸の介と寢ん。寢たる肌よし」これが末、いと おほかり。また、「男山の峰のもみぢ葉、さぞ名は立つや、さぞ名は立つや」 と頭をまろばし振る。いみじうにくければ、わらひにくみて、「往ね、往ね」と いふ。「いとほし。これに、何とらせん」といふを聞かせ給ひて、「いみじう、 かたはらいたきわざは、せさせつるぞ。聞かで、耳をふたぎてぞありつる。そ の衣ひとつとらせて、とく遣りてよ」と仰せらるれば、「これ、賜はするぞ。衣 すすけためり。しろくて着よ」とて、投げとらせたれば、ふし拜みて、かたに うち置きては舞ふものか。まことににくくて、みな入りにし。 △のち、ならひたるにやあらん、つねに見えしらがひありく。やがて常陸の介 とつけたり。衣もしろめず、おなじすすけにてあれば、いづち遣りてけんなど にくむ。 △右近の内侍のまゐりたるに、「かかる者をなん語らひつけておきためる。す かして、つねに來ること」とて、ありしやうなど、小兵衞といふ人にまねばせ て聞かせさせ給へば、「かれいかで見侍らん。かならず見せさせ給へ。御得意 ななり。さらに、よも語らひとらじ」などわらふ。 △その後、また尼なる乞食のいとあてやかなる、出で來たるを、また呼び出 でてものなどいふに、これはいとはづかしげに思ひて、あはれなれば、例の、 衣ひとつ賜はせたるを、ふし拜むは、されどよし、さてうち泣きよろこびて往 ぬるを、常陸の介は、來あひて見てけり。その後ひさしう見えねど、誰かは思 ひ出でん。 △さて、師走の十よ日の程に、雪いみじう降りたるを、女官どもなどして、 縁にいとおほく置くを、「おなじくは、庭にまことの山を作らせ侍らん」とて、 侍召して、「仰せごとにて」といへば、あつまりて作る。主殿寮の官人、御き よめにまゐりたるなども、みな寄りて、いとたかう作りなす。宮司などもまゐ りあつまりて、言くはへ興ず。三四人まゐりつる主殿寮の者ども、二十人ばか りになりけり。里なる侍召しに遣しなどす。「けふ、この山作る人には、日 三日賜ぶべし。また、まゐらざらん者は、またおなじ數とどめん」などいへば、 聞きつけたるはまどひまゐるもあり。里とほきは、え告げやらず。 △作りはてつれば、宮司召して、衣二ゆひとらせて、縁に投げいだしたるを、 ひとつとりにとりて、拜みつつ、腰にさしてみなまかでぬ。うへのきぬなど着 たるは、さて狩衣にてぞある。 △「これ、いつまでありなん」と人々にのたまはするに、「十日はありなん」 「十よ日はありなん」など、ただこの頃のほどを、あるかぎり申すに、「いか に」と問はせ給へば、「正月の十よ日までは侍りなん」と申すを、御前にも、 えさはあらじとおぼしめしたり。女房はすべて、年のうち、つごもりまでもえ あらじとのみ申すに、あまりとほくも申しけるかな、げにえしもやあらざらむ、 一日などぞいふべかりけると、下には思へど、さはれ、さまでなくとも、いひ そめてんことはとて、かたうあらがひつ。 △二十日の程に雨降れど、消ゆべきやうもなし。すこしたけぞ劣りもて行く。 「白山の觀音、これ消えさせ給ふな」といのるも、ものくるほし。 △さて、その山作りたる日、御使に式部丞忠隆まゐりたれば、褥さしいだして ものなどいふに、「けふ雪の山作らせ給はぬところなんなき。御前のつぼにも 作らせ給へり。春宮にも弘徽殿にも作られたりつ。京極殿にも作らせ給へりけ り」などいへば、 △△ここにのみめづらしとみる雪の山所々にふりにけるかな と、かたはらなる人していはすれば、度々かたぶきて、「返しはつかうまつりけ がさじ。あされたり。御簾の前にて、人にを語り侍らん」とて立ちにき。歌い みじうこのむと聞くものを、あやし。御前にきこしめして、「いみじうよくとぞ 思ひつらん」とぞのたまはする。 △つごもりがたに、すこしちひさくなるやうなれど、なほいとたかくてあるに、 晝つかた、縁に人々出でゐなどしたるに、常陸の介出で來たり。「など、いと ひさしう見えざりつる」と問へば、「なにかは。心憂きことの侍りしかば」と いふ。「何事ぞ」と問ふに、「なほかく思ひ侍りしなり」とて、ながやかによみ 出づ。 △△うらやまし足もひかれずわたつ海のいかなる人にもの賜ふらん といふを、にくみわらひて、人の目も見入れねば、雪の山にのぼり、かかづら ひありきて、往ぬるのちに、右近の内侍に、かくなどいひやりたれば、「などか、 人添へては賜はせざりし。かれがはしたなくて、雪の山までのぼりつたひけん こそ、いとかなしけれ」とあるを、またわらふ。 △さて、雪の山、つれなくて年もかへりぬ。一日の日の夜、雪のいとおほく降 りたるを、「うれしうもまた積みつるかな」と見るに、「これはあいなし。はじ めの際をおきて、いまのはかき棄てよ」と仰せらる。 △局へいととく下るれば、侍の長なる者、柚の葉のごとくなる宿直衣の袖の上 に、あをき紙の松につけたるを置きて、わななき出でたり。「それは、いづこの ぞ」と問へば、「齋院より」といふに、ふとめでたうおぼえて、とりてまゐり ぬ。 △まだおほとのごもりたれば、まづ御帳にあたりたる御格子を、碁盤などかき よせて、ひとり念じあぐる、いとおもし。片つかたなればきしめくに、おどろ かせ給ひて、「などさはすることぞ」とのたまはすれば、「齋院より」御文のさぶ らはんには、いかでかいそぎあげ侍らざらん」と申すに、「げに、いと疾かりけ り」とて、起きさせ給へり。御文あけさせ給へれば、五寸ばかりなる卯槌ふた つを、卯杖のさまに頭などをつつみて、山橘・日かげ・山菅など、うつくしげ にかざりて、御文はなし。ただなるやうあらんやは、とて御覽ずれば、卯杖の 頭つつみたるちひさき紙に、 △△山とよむ斧の響を尋ぬればいはひの杖の音にぞありける △御返し書かせ給ふほども、いとめでたし。齋院には、これよりきこえさせ給 ふも、御返しも、なほ心ことに、書きけがしおほう、用意見えたり。御使に、 しろき織物の單、蘇枋なるは梅なめり。雪の降りしきたるに、かづきてまゐる もをかしう見ゆ。そのたびの御返しを、知らずなりにしこそくちをしけれ。 △さて、雪の山、まことの越のにやあらんと見えて、消えげもなし。くろうな りて、見るかひなきさまはしたれども、げに勝ちぬる心地して、いかで十五日 待ちつけさせんと念ずる。されど、「七日をだにえすぐさじ」と、なほいへば、 いかでこれ見はてんと、みな人思ふほどに、にはかに内裏へ、三日に入らせ給 ふべし。いみじうくちをし、この山のはてを知らでやみなんことと、まめやか に思ふ。こと人も、「げにゆかしかりつるものを」などいふを、御前にも仰せら るるに、おなじくはいひあてて御覽ぜさせばやと思ひつるに、かひなければ、 御物の具どもはこび、いみじうさわがしきにあはせて、こもりといふ者の、築 土のほどに廂さしてゐたるを、縁のもとちかく呼びよせて、「この雪の山いみじ うまぼりて、わらはべなどに踏みちらさせず、こぼたせで、よくまもりて、十 五日までさぶらへ。その日まであらば、めでたき祿賜はせんとす。私にも、い みじきよろこびいはんとす」など語らひて、つねに臺盤所の人、下衆などにく るるを、くだ物やなにやと、いとおほくとらせたれば、うち笑みて、「いとやす きこと。たしかにまもり侍らん。わらはべぞのぼりさぶらはん」といへば、「そ れを制して、聞かざらん者をば申せ」などいひ聞かせて、入らせ給ひぬれば、 七日までさぶらひて出でぬ。 △その程も、これがうしろめたければ、おほやけ人、すまし・長女などして、 たえずいましめにやる。七日の節供のおろしなどをさへやれば、拜みつること など、わらひあへり。 △里にても、まづ明くるすなはち、これを大事にて見せにやる。十日の程に、 「五日待つばかりはあり」といへば、うれしくおぼゆ。また、晝も夜もやるに、 十四日夜さり、雨いみじう降れば、これにぞ消えぬらんといみじう、いま一日 二日も待ちつけでと、夜も起きゐていひなげけば、聞く人、ものくるほしとわ らふ。人の出でていくに、やがて起きゐて、下衆起さする、さらに起きねば、 いみじうにくみ腹立ちて、起き出でたるやりて見すれば、「わらふだの程なん侍 る。こもり、いとかしこうまもりて、わらはべも寄せ侍らず。「明日・明後日ま でもさぶらひぬべし。祿賜はらん」と申す」といへば、いみじううれしくて、 いつしか明日にならば、歌よみて、ものに入れてまゐらせんと思ふも、いと心 もとなくわびし。 △くらきに起きて、折櫃など具せさせて、「これに、そのしろからん所入れて持 て來。きたなげならん所、かき棄てて」などいひやりたれば、いととく持たせ つる物をひきさげて、「はやくうせ侍りにけり」といふに、いとあさましく、を かしうよみ出でて、人にも語り傳へさせんとうめき誦じつる歌も、あさましう かひなくなりぬ。「いかにしてさるならん。昨日までさばかりあらんものの、 夜の程に消えぬらんこと」といひくんずれば、「こもりが申しつるは、「昨日い とくらうなるまで侍りき。祿賜はらんと思ひつるものを」とて、手をうちてさ わぎ侍りつる」などいひさわぐ。 △内裏より仰せごとあり。さて、「雪は今日までありや」と仰せごとあれば、 いとねたうくちをしければ、「「年のうち、一日までだにあらじ」と、人々の啓 し給ひしに、昨日の夕ぐれまで侍りしは、いとかしこしとなん思う給ふる。今 日までは、あまりことになん。夜の程に、人のにくみてとり棄てて侍るにやと なんおしはかり侍る、と啓せさせ給へ」など聞えさせつ。 △さて、廿日まゐりたるにも、まづこのことを、御前にてもいふ。「身は投げ つ」とて、蓋のかぎり持て來たりけん法師のやうに、すなはち持て來たりしが あさましかりしこと、物の蓋に小山作りて、白き紙に歌いみじく書きて、まゐ らせんとせしことなど啓すれば、いみじくわらはせ給ふ。御前なる人々もわら ふに、「かう心に入れて思ひたることをたがへたれば、罪得らん。まことに、 四日の夜、侍どもをやりてとり棄てしぞ。返りごとにいひあてたりしこそ、い とをかしかりしか。その女出で來て、いみじう手をすりていひけれども、「仰 せごとにて。かの里より來たらん人に、かく聞かすな。さらば、屋うちこぼた ん」などいひて、左近の司の南の築土などに、みな棄ててけり。「いと堅くて、 おほくなんありつる」などぞいふなりしかば、げに廿日も待ちつけてまし。今 年の初雪も降り添ひなましなどいふ。上もきこしめして、「いと思ひやりふか くあらがひたる」など、殿上人どもなどに仰せられけり。さても、その歌語れ。 いまかくいひあらはしつれば、おなじごと勝ちたるななり」など、御前にも仰 せられ、人々ものたまへど、「なでふにか、さばかり憂きことを聞きながら、啓 し侍らん」など、まことにまめやかにうんじ、心憂がれば、上もわたらせ給ひ て、「まことに、年頃は、おぼす人なめりと見しを、これにぞあやしと見し」な ど仰せらるるに、いとど憂く、つらく、うちも泣きぬべき心地ぞする。「いで、 あはれ、いみじく憂き世ぞかし。のちに降り積みて侍りし雪を、うれしく思ひ 侍りしに、「それはあいなし、かき棄てよ」と仰せごと侍りしか」と申せば、「勝 たせじとおぼしけるななり」と、上もわらはせ給ふ。 【八八】△めでたきもの△唐錦。飾り太刀。つくり佛のもくゑ。色あひふかく、 花房ながく咲きたる藤の花の、松にかかりたる。 △六位の藏人。いみじき君達なれど、えしも着給はぬ綾織物を、心にまかせて 着たる、青色姿などめでたきなり。所の雜色、ただの人の子どもなどにて、殿 ばらの侍に、四位五位の司あるが下にうちゐて、なにとも見えぬに、藏人にな りぬれば、えもいはずぞあさましきや。宣旨など持てまゐり、大饗のをりの甘 栗の使などに參りたる、もてなし、やむごとながり給へるさまは、いづこなり し天降り人ならんとこそ見ゆれ。 △御むすめ后にておはします、また、まだしくて姫君などきこゆるに、御文の 使とてまゐりたれば、御文とり入るるよりはじめ、褥さし出づる袖口など、あ けくれ見しものともおぼえず。下襲の裾ひきちらして、衞府なるはいますこし をかしく見ゆ。御手づからさかづきなどさし給へば、わが心持にもいかに覺え ん。いみじうかしこまり、つちにゐし家の子・君たちをも、心ばかりこそ用意 し、かしこまりたれ、おなじやうにつれだちてありくよ。上の近う使はせ給ふ を見るには、ねたくさへこそ覺ゆれ。御文書かせ給へば御硯の墨すり、御うち はなどまゐり、馴れ仕うまつる三年四年ばかりを、なりあしく、物の色よろし くてまじらはんは、いふかひなきことなり。かうぶりの期になりて、下るべき 程の近うならんにだに、命よりも惜しかるべきことを、臨時の、所々の御給は り申しておるるこそ、いふかひなくおぼゆれ。むかしの藏人は、今年の春夏よ りこそ泣きたちけれ、いまの世には、走りくらべをなんする。 △博士の才あるは、いとめでたしといふもおろかなり。顏にくげに、いと下臈 なれど、やんごとなき御前に近づきまゐり、さべきことなど問はせ給ひて、御 書の師にてさぶらふは、うらやましくめでたくこそおぼゆれ。願文、表、もの の序など作りいだしてほめらるるも、いとめでたし。 △法師の才ある、すべていふべくもあらず。 △后の晝の行啓。一の人の御ありき。春日詣。葡萄染の織物。ひろき庭に雪の あつく降り敷きたる。花も絲も紙もすべて、なにもなにも、むらさきなるもの はめでたくこそあれ。むらさきの花の中には、かきつばたぞすこしにくき。六 位の宿直姿のをかしきも、むらさきのゆゑなり。 【八九】△なまめかしきもの△ほそやかにきよげなる君たちの直衣姿。をかしげ なる童女の、うへの袴など、わざとはあらでほころびがちなる、汗衫ばかり着 て、卯槌・藥玉などながくつけて、勾欄のもとなどに、扇さしかくしてゐた る。 △薄樣の草子。柳の萠え出でたるに、あをき薄樣に書きたる文つけたる。三重 がさねの扇。五重はあまりあつくなりて、もとなどにくげなり。いとあたらし からず、いたうものふりぬ桧皮葺の屋に、ながき菖蒲をうるはしうふきわたし たる。あをやかなる御簾の下より、几帳の朽木形いとつややかにて、紐の風に 吹きなびかされたる、いとおかし。 △しろき組のほそき。帽額あざやかなる。簾の外・勾欄に、いとをかしげなる 猫の、あかき首綱にしろき札つきて、村濃の綱ながう引きて、いかりの緒、組 のながきなどつけて引きありくも、をかしうなまめきたり。 △五月の節のあやめの藏人。菖蒲のかずら、赤紐の色にはあらぬを、領布・裙 帶などして、藥玉、親王たち・上達部の立ち並み給へるに奉れる、いみじうな まめかし。取りて腰に引きつけ、舞踏し、拜し給ふも、いとめでたし。 △むらさきの紙を包み文にて、房ながき藤につけたる。小忌の君たちもいとな まめかし。 【九〇】△宮の五節いださせ給ふに、かしづき十二人、こと所には、女御・御息 所の御方の人いだすをば、わるきことにすると聞くを、いかにおぼすにか、宮 の御方を、十人はいださせ給ふ。いまふたりは、女院・淑景舍の人、やがては らからどちなり。 △辰の日の夜、青摺の唐衣・汗衫をみな着せさせ給へり。女房にだに、かねて さも知らせず、殿人には、ましていみじう隱して、みな裝束したちて、くらう なりにたる程に、持て來て着す。赤紐をかしうむすび下げて、いみじうやうし たるしろき衣、かた木のかたは繪にかきたり。織物の唐衣どもの上に着たるは、 まことにめずらしきなかに、童は、まいていますこしなまめきたり。下仕まで 着て出でゐたるに、殿上人・上達部おどろき興じて、小忌の女房とつけて、小 忌の君たちは外にゐて物などいふ。 △「五節の局を、日も暮れぬほどに、みなこぼちすかして、ただあやしうてあ らする、いとことやうなる事なり。其の夜までは、なほうるはしながらこそあ らめ」とのたまはせて、さもまどはさず。几帳どものほころび結ひつつ、こぼ れ出でたり。 △小兵衞といふが、赤紐のとけたるを、「これ結ばばや」といへば、實方の中將 よりてつくろふに、ただならず。 △△あしひきの山井の水はこほれるをいかなるひものとくるなるらん といひかく。年わかき人の、さる顯證のほどはいひにくきにや、返しもせず。 そのかたはらなる人どもも、ただうちすごしつつ、ともかくもいはぬを、宮司 などは耳とどめて聞きけるに、ひさしうなりげなるかたはらいたさに、こと方 より入りて、女房のもとによりて、「などかうはおはするぞ」などぞささめくな る。四人ばかりをへだててゐたれば、よう思ひ得たらんにてもいひにくし、ま いて、歌よむと知りたる人のは、おぼろげならざらんは、いかでかと、つつま しきこそはわろけれ。よむ人はさやはある。いとめでたからねど、ふとこそう ちいへ。爪はじきをしありくがいとほしければ、 △△うはごほりあはにむすべるひもなればかざす日かげにゆるぶばかりを と辨のおもとといふに傳へさすれば、消え入りつつ、えもいひやらねば、「なに とか、なにとか」と、耳をかたぶけて問ふに、すこし言どもりする人の、いみ じうつくろひ、めでたしと聞かせんと思ひければ、え聞きつけずなりぬるこそ、 なかなか恥隱るる心地してよかりしか。 △のぼる送りなどに、なやましといひていかぬ人をも、のたまはせしかば、あ るかぎりつれだちて、ことにも似ず、あまりこそうるさげなめれ。 △舞姫は、相尹の馬の頭の女、染殿の式部卿の宮の上の御おとうとの四の君の 御腹、十二にて、いとをかしげなりき。 △はての夜も、おひかづきいくもさわがず。やがて仁壽殿より通りて、清涼殿 の御前の東の簀より、舞姫をさきにて、上の御局にまゐりし程も、をかしか りき。 【九一】△細太刀に平緒つけて、きよげなる男の持てわたるもなまめかし。 【九二】△内裏は、五節の頃こそ、すずろにただなべて、見ゆる人もをかしうお ぼゆれ。主殿司などの、色々のさいでを、物忌のやうにて釵子につけたるなど も、めづらしう見ゆ。宣耀殿の反橋に、元結のむら濃いとけざやかにて出でゐ たるも、さまざまにつけてをかしうのみぞある。上の雜仕、人のもとなるわら はべも、いみじき色ふしと思ひたる、ことわりなり。山藍・日かげなど、柳筥 に入れて、かうぶりしたる男など持てありくなど、いとをかしう見ゆ。殿上人 の、直衣ぬぎたれて、扇やなにやと拍子にして、「つかさまさりとしきなみぞ立 つ」といふ歌をうたひて、局どもの前わたる、いみじう、立ち馴れたらん心地 もさわぎぬべしかし。まいて、さとひとたびにうちわらひなどしたる程、おそ ろし。行事の藏人の掻練襲、ものよりことにきよらに見ゆ。褥など敷きたれど、 なかなかえものぼりゐず、女房の出でゐたるさまほめそしり、この頃はこと事 なかめり。 △張臺の夜、行事の藏人のいときびしうもてなして、かいつくろひふたり、童 よりほかには、すべて入るまじと戸をおさへて、おもにくきまでいへば、殿上 人なども、「なほこれ一人は」などのたまふを、「うらやみありて、いかでか」 など、かたくいふに、宮の女房の廿人ばかり、藏人をなにともせず、戸をおし あけてさめき入れば、あきれて、「いとこは、ずちなき世かな」とて、立てるも をかし。それにつきてぞ、かしづきどももみな入る、けしきいとねたげなり。 上もおはしまして、をかしと御覽じおはしますらんかし。 △童舞の夜はいとをかし。燈臺にむかひたる顏どももらうたげなり。 【九三】△無名といふ琵琶の御琴を、上の持てわたらせ給へる、みなどしてかき 鳴らしなどする、といへば、彈くにはあらで、緒などを手まさぐりにして、 「これが名よ、いかに」とかきこえさするに、「ただいとはかなく、名もなし」 とのたまはせたるは、なほいとめでたしとこそおぼえしか。 △淑景舍などわたり給ひて、御物語のついでに、「まろがもとに、いとをかしげ なる笙の笛こそあれ。故殿の得させ給へりし」とのたまふを、僧都の君、「そ れは、隆圓に賜へ。おのがもとにめでたき琴侍り。それに代へさせ給へ」と申し 給ふを、聞きも入れ給はで、こと事をのたまふに、いらへさせ奉らんと、あま たたびきこえ給ふに、なほものものたまはねば、宮の御前の、「いなかへじと思 いたるものを」とのたまはせたる、御けしきのいみじうをかしきことぞかぎり なき。 △この御笛の名を、僧都の君もえ知り給はざりければ、ただうらめしとぞ思い ためる。これは、職の御曹子におはしまいし程の事なめり。上の御前に、「いな かへじ」といふ御笛のさぶらうなり。 △御前にさぶらふものは、御琴も御笛も、みなめづらしき名つきてぞある。玄 象、牧馬、井手、渭橋、無名など。また、和琴なども、朽目、鹽竃、二貫など ぞきこゆる。水龍、小水龍、宇陀の法師、釘打、葉二つ、なにくれなど、おほ く聞きしかどわすれにけり。「宜陽殿の一の棚に」という言ぐさは、頭の中の中將こ そし給ひしか。 【九四】△上の御局の御簾の前にて、殿上人、日一日琴笛吹き、遊びくらして、 大殿油まゐるほどに、まだ御格子はまゐらぬに、大殿油さし出でたれば、戸の あきたるがあらはなれば、琵琶の御琴をたたざまに持たせ給へり。くれなゐの 御衣どもの、いふも世のつねなる袿、また、張りたるどもなどをあまた奉りて、 いとくろうつややかなる琵琶に、御袖を打ちかけて、とらへさせ給へるだにめ でたきに、そばより、御額の程の、いみじうしろうめでたくけざやかにて、は づれさせ給へるは、たとふべきかたぞなきや。ちかくゐ給へる人にさしよりて、 「なかば隱したりけんは、えかくはあらざりけんかし。あれはただ人にこそあ りけめ」といふを、道もなきにわけまゐりて申せば、わらはせ給ひて、「別れは 知りたりや」となんおほせらるる、とつたふるもをかし。 【九五】△ねたきもの△人のもとにこれより遣るも、人の返りごとも、書きてや りつるのち、文字つ二つ思ひなほしたる。とみの物縫ふに、かしこう縫ひつ と思ふに、針をひき拔きつれば、はやくしりを結ばざりけり。また、かへさま に縫ひたるもねたし。 △南の院におはします頃、「とみの御物なり。誰も誰も、あまたして、時かは さず縫ひてまゐらせよ」とて、賜はせたるに、南面にあつまりて、御衣の片身 づつ、誰かとく縫ふと、ちかくもむかはず、縫ふさまも、いと物ぐるほし。命 婦の乳母、いととく縫ひはててうち置きつる、ゆだけの片の身を縫ひつるが、 そむきざまなるを見つけで、とぢめもしあへず、まどひ置きて立ちぬるが、御 背あはすれば、はやくたがひたりけり。わらひののしりて、「はやく、これ縫ひ なほせ」といふを、「誰、あしう縫ひたりと知りてかなほさん。綾ならばこそ、 裏を見ざらん人も、げにとなほさめ、無紋の御衣なれば、何をしるしにてか、 なほす人誰もあらん。まだ縫ひ給はざらん人になほさせよ」とて、聞かねば、 「さいひてあらんや」とて、源少納言の君などいふ人たちの、もの憂げにとり よせて縫ひ給ひしを、見やりてゐたりしこそをかしかりしか。 △おもしろき萩・薄などを植ゑて見る程に、長櫃持たる者、鋤などひきさげて、 ただ掘りに掘りて往ぬるこそわびしうねたけれ。よろしき人などのある時はさ もせぬものを、いみじう制すれども、「ただすこし」などうちいひて往ぬる、い ふかひなくねたし。 △受領などの家に、さるべき所の下部などの來て、なめげにいひ、さりとて我 をばいかがせんなど思ひたる、いとねたげなり。 △見まほしき文などを、人の取りて、庭に下りて見たるが、いとわびしくねた く、追ひていけど、簾のもとにとまりて見たる心地こそ、飛びも出でぬべき心 地すれ。 【九六】△かたはらいたきもの△よくも音彈きとどめぬ琴を、よくも調べで、心 のかぎり彈きたてたる。客人などにあひてものいふに、奧の方にうちとけごと などいふを、えは制せで聞く心地。思ふ人のいたく醉ひて、おなじことしたる。 聞きゐたりけるを知らで、人の上いひたる。それは、なにばかりの人ならねど、 つかふ人などだにかたはらいたし。旅だちたる所にて、下衆どもざれゐたる。 にくげなるちごを、おのが心地のかなしきままに、うつくしみ、かなしがり、 これが聲のままに、いひたることなど語りたる。才ある人の前にて、才なき人 の、ものおぼえ聲に人の名などいひたる。よしとも覺えぬ我が歌を、人に語り て、人のほめなどしたる由いふも、かたはらいたし。 【九七】△あさましきもの△刺櫛すりて、磨く程に、ものにつきさへて折りたる心 地。車のうちかへりたる。さるおほのかなるものは、所せくやあらんと思ひし に、ただ夢の心地して、あさましうあへなし。 △人のためにはづかしうあしきことを、つつみもなくいひゐたる。かならず來 なんと思ふ人を、夜一夜起きあかし待ちて、曉がたにうち忘れて寢入りにける に、烏のいとちかく「かか」と鳴くに、うち見あげたれば、晝になりにける、 いみじうあさまし。 △見すまじき人に、外へ持ていく文見せたる。むげに知らず、見ぬことを、人 のさしむかひて、あらがはすべくもあらずいひたる。物うちこぼしたる心地、 いとあさまし。 【九八】△くちをしきもの△五節・御佛名に雪降らで、雨のかきくらし降りたる。 節會などに、さるべき御物忌のあたりたる。いとなみ、いつしかと待つことの、 さはりあり、にはかにとまりぬる。あそび、もしは見すべきことありて、呼び にやりたる人の來ぬ、いとくちをし。 △男も女も法師も、宮仕所などより、おなじやうなる人、もろともに寺へもま うで、ものへも行くに、このましうこぼれ出で、用意、よくいはば、けしから ず、あまり見ぐるしとも見つべくぞあるに、さるべき人の、馬にても車にても 行きあひ、見ずなりぬる、いとくちをし。わびては、すきずきしき下衆などの、 人などに語りつべからんをがなと思ふも、いとけしからず。 【九九】△五月の御精進のほど、職におはします頃、塗篭の前の二間なる所をこ とにしつらひたれば、例ざまならぬもをかし。 △一日より、雨がちに曇りすぐす。つれづれなるを、「ほととぎすの聲尋ねに いかばや」といふを、我も我もと出で立つ。賀茂の奧に、なにさきとかや、た なばたの渡る橋にはあらで、にくき名ぞきこえし、そのわたりになん、ほとと ぎす鳴く、と人のいへば、それは蜩なり、といふ人もあり。そこへとて、五日 のあしたに宮司に車の案内いひて、北の陣より、「五月雨は、とがめなきもの ぞ」とて、さしよせて、四人ばかり乘りていく。うちやましがりて、「なほい まひとつして、おなじくは」などいへど、「まな」とおほせらるれば、聞き入 れず、情なきさまにていくに、馬場といふ所にて、人おほくさわぐ。「なにす るぞ」と問へば、「手つがひにて、眞弓射るなり。しばし御覽じておはしませ」 とて、車とどめたり。「左近の中將、みな着き給ふ」といへど、さる人も見えず。 六位など、立ちさまよへば、「ゆかしからぬことぞ。はやく過ぎよ」といひて、 行きもて行く。道も、祭の頃思ひ出でられてをかし。 △かくいふ所は、明順の朝臣の家ありけり。そこも「いざ見ん」といひて、車 よせて下りぬ。田舍だち、ことそぎて、馬の繪かきたる障子、網代屏風、三稜 草の簾など、ことさらに昔のことをうつしたり。屋のさまもはかなだち、廊め きて、端ぢかにあさはかなれど、をかしきに、げに、かしがましと思ふばかり に鳴きあひたるほととぎすの聲を、くちをしう御前にきこしめさせず、さばか り慕ひつる人々を、と思ふ。「所につけては、かかることをなん見るべき」と て、稻といふものをとり出でて、わかき下衆どものきたなげならぬ、そのわた りの家のむすめなど、ひきゐて來て、五六人してこかせ、また、見も知らぬく るべくもの、二人して引かせて、歌うたはせなどするを、めづらしくてわらふ。 ほととぎすの歌よまむとしつる、まぎれぬ。唐繪にかきたる懸盤して、もの食 はせたるを、見入るる人もなければ、家のあるじ、「いとわかくひなびたり。 かかる所に來ぬる人は、ようせずは、あるじ逃げぬばかりなど、責めいだして こそまゐるべけれ。むげに、かくては、その人ならず」などいひて、とりはや し、「この下蕨は、手づから摘みつる」などいへど、「いかでか、さ女官などの やうに、着き並みてはあらん」などわらへば、「さらば、取りおろして。例の、 はひぶしにならはせ給へる御前たちなれば」とて、まかなひさわぐ程に、「雨降 りぬ」といへば、いそぎて車に乘るに、「さて、この歌は、ここにてこそよまめ」 などいへば、「さはれ、道にても」などいひて、みな乘りぬ。 △卯の花のいみじう咲きたるを折りて、車の簾、かたはらなどにさしあまりて、 おそひ・棟などに、ながき枝を葺きたるやうにさしたれば、ただ卯の花の垣根 を牛にかけたるとぞ見ゆる。供なるをのこどももいみじうわらひつつ、「ここ まだし、ここまだし」とさしあへり。 △人もあはなんと思ふに、さらに、あやしき法師、下衆のいふかひなきのみ、 たまさかに見ゆるに、いとくちをしくて、ちかく來ぬれど、「いとかくてやまん は、此の車のありさまを、人に語らせてこそやまめ」とて、一條殿の程にとど めて、「侍從殿やおはします。ほととぎすの聲聞きて、いまなん歸る」といは せたる、使、「「ただいままゐる。しばし。あが君」となんのたまへる。侍にま ひろげておはしつる、いそぎ立ちて、指貫奉りつ」といふ。待つべきにもあら ずとて、走らせて、土御門ざまへやるに、いつの間にか裝束きつらん、帶は道 のままにゆひて、「しばし、しばし」と追ひ來る、供に侍三四人ばかり、もの もはかで走るめり。「とく遣れ」と、いとどいそがして、土御門に行き着きぬる にぞ、あへぎまどひておはして、この車のさまをいみじうわらひ給ふ。「うつつ の人の乘りたるとなん、さらに見えぬ。なほ下りて見よ」などわらひ給へば、 供に走りつる人どもも興じわらふ。「歌はいかが。それ聞かむ」とのたまへば、 「いま、御前に御覽ぜさせて後こそ」などいふ程に、雨まことに降りぬ。「な どか、こと御門々々のやうにもあらず、この土御門しも、かう上もなくしそめ けんと、けふこそいとにくけれ」などいひて、「いかで歸らんとすらん。こなた ざまは、ただおくれじと思ひつるに、人目も知らず走られつるを、奧行かんこ とこそ、いとすさまじけれ」とのたまへば、「いざ給へかし。内裏へ」といふ。 「烏帽子にては、いかでか」「とりにやり給へかし」などいふに、まめやかに降 れば、かさもなきをのこども、ただ引きに引き入れつ。一條殿よりかさ持て來 たるをささせて、うち見かへりつつ、こたみはゆるゆるともの憂げにて、卯の 花ばかりをとりておはするもをかし。 △さて、まゐりたれば、ありさまなど問はせ給ふ。恨みつる人々、怨じ心憂が りながら、藤侍從の一條の大路走りつる語るにぞ、みなわらひぬる。さて、「い づら、歌は」と問はせ給へば、かうかうと啓すれば、「くちをしのことや。上人 などの聞かんに、いかでか、つゆをかしきことなくてはあらん。その聞きつら ん所にて、きとこそはよまましか。あまりぎしきさだめつらんこそあやしけれ。 ここにてもよめ。いといふかひなし」などのたまはすれば、げにと思ふに、い とわびしきを、いひあはせなどする程に、藤侍從、ありつる花につけて、卯の 花の薄樣に書きたり。この歌おぼえず。これが返し、まづせんなど、硯とりに 局にやれば、「ただ、これしてとくいへ」とて、御硯の蓋に紙などして、賜はせ たる。「宰相の君、書き給へ」といふを、なほ、「そこに」などいふ程に、かき くらし雨降りて、神いとおそろしう鳴りたれば、物も覺えずただおそろしきに、 御格子まゐりわたしまどひし程に、このこともわすれぬ。 △いとひさしうなりて、すこしやむほどに、暗うなりぬ。ただいま、なほこの 返りごとたてまつらんとて、とりむかふに、人々、上達部など、神のこと申し にまゐり給へれば、西面にゐて、物きこえなどするにまぎれぬ。こと人はた、 さして得たらん人こそせめとて、やみぬ。なほ、此の事に宿世なき日なめりと 屈して、「いまはいかで、さなん行きたりしとだに、人におほく聞かせじ」など わらふ。「いまもなどか、その行きたりしかぎりの人どもにていはざらむ。さ れど、させじと思ふにこそ」と、ものしげなる御けしきなるも、いとをかし。 されど、「いまは、すさまじうなりにて侍るなり」と申す。「すさまじかべきこ とかは」などのたまはせしかど、さてやみにき。 △二日ばかりありて、その日のことなどいひいづるに、宰相の君、「いかにぞ、 「手づから折りたり」といひし下蕨は」とのたまふを、聞かせ給ひて、「思ひ出 づる事のさまよ」と笑はせ給ひて、紙の散りたるに、 △下蕨こそこひしかりけれ と書せ給ひて、「本いへ」とおほせらるるも、いとをかし。 △△ほととぎすたづねて聞きし聲よりも と書きてまゐらせたれば、「いみじううけばりたり。かうだに、いかで、ほとと ぎすのことをかけつらん」とて、わらはせ給ふもはづかしながら、「なにか。 この歌よみ侍らじとなん思ひ侍るを。ものの折など、人のよみ侍らんにも、よ めなどおほせられば、えさぶらふまじき心地なんし侍る。いといかがは、文字 の數知らず、春は冬の歌、秋は梅の花の歌などをよむやうは侍らむ。されど、 歌よむといはれし末々は、すこし人よりまさりて、「その折の歌はこれこそあ りけれ。さはいへど、それが子なれば」などいはればこそ、かひある心地もし 侍らめ、つゆとりわきたるかたもなく、さすがに歌がましう、われはと思へる さまに、最初によみ侍らん、亡き人のためにもいとほしう侍る」と、まめやか に啓すれば、わらはせ給ひて、「さらば、ただ心にまかせよ。我はよめともいは じ」とのたまはすれば、「いと心やすくなり侍りぬ。いまは、歌のこと思ひかけ じ」などいひてある頃、庚申せさせ給ふとて、内の大殿、いみじう心まうけ せさせ給へり。 △夜うちふくる程に、題出して、女房にも歌よませ給ふ。みなけしきばみゆる がしいだすに、宮の御前近くさぶらひて、もの啓しなど、こと事をのみいふを、 大臣御覽じて、「など、歌はよまで、むげに離れゐたる。題とれ」とて賜ふを、 「さる事うけたまはりて、歌よみ侍るまじうなりて侍れば、思ひかけ侍らず」 と申す。「こととやうなる事。まことにさることやは侍る。などか、さはゆるさ せ給ふ。いとあるまじきことなり。よし、こと時は知らず、今宵はよめ」など 責め給へど、けぎよう聞き入れでさぶらふに、みな人々よみいだして、よしあ しなどさだめらるる程に、いささかなる御文を書きて、投げ賜はせたり。見れ ば、 △△元輔が後といはるる君しもや今宵の歌にはづれてはをる とあるを見るに、をかしきことぞたぐひなきや。いみじうわらへば、「なにごと ぞ、なにごとぞ」と大臣も問ひ給ふ。 △△「その人の後といはれぬ身なりせば今宵の歌をまづぞよままし つつむことさぶらはずは、千の歌なりと、これよりなんいでまうで來まし」と 啓しつ。 【一〇〇】△職におはします頃、八月十よ日の月あかき夜、右近の内侍に琵琶ひ かせて、端ちかくおはします。これかれものいひ、わらひなどするに、廂の柱 によりかかりて、物もいはでさぶらへば、「など、かう音もせぬ。ものいへ。さ うざうしきに」と仰せらるれば、「ただ秋の月の心を見侍るなり」と申せば、「さ もいひつべし」と仰せらる。 【一〇一】△御かたがた、君たち、上人など、御前に人のいとおほくさぶらへば、 廂の柱によりかかりて、女房と物語などしてゐたるに、物を投げ賜はせたる、 あけて見れば、「思ふべしや、いなや。人、第一ならずはいかに」と書かせ給へ り。 △御前にて物語などするついでにも、「すべて、人に一に思はれずは、なににか はせん。ただいみじう、なかなかにくまれ、あしうせられてあらん。二三にて は死ぬともあらじ。一にてをあらん」などいへば、「一乘の法ななり」など、人 々もわらふことのすぢなめり。 △筆・紙など賜はせたれば、「九品蓮臺の間には、下品といふとも」など、書き てまゐらせたれば、「むげに思ひ屈しにけり。いとわろし。いひとぢめつるこ とは、さてこそあらめ」とのたまはす。「それは、人にしたがひてこそ」と申せ ば、「そがわるきぞかし。第一の人に、また一に思はれんとこそ思はめ」と仰せ らるるもをかし。 【一〇二】△中納言まゐり給ひて、御扇たてまつらせ給ふに、「隆家こそいみじ き骨は得て侍れ。それを張らせて參らせむとするに、おぼろげの紙はえ張るま じければ、もとめ侍るなり」と申し給ふ。「いかやうにかある」と問ひ聞えさ せ給へば、「すべていみじう侍り。「さらにまだ見ぬ骨のさまなり」となん人々 申す。まことにかばかりのは見えざりつ」と、言たかくのたまへば、「さては、 扇のにはあらで、海月のななり」ときこゆれば、「これ隆家が言にしてん」とて、 わらひ給ふ。 △かやうの事こそは、かたはらいたきことのうちに入れつべけれど、「一つなお としそ」といへば、いかがはせん。 【一〇三】△雨のうちはへ降るころ、けふも降るに、御使にて、式部の丞信經ま ゐりたり。例のごと褥さし出でたるを、つねよりも遠くおしやりてゐたれば、 「誰が料ぞ」といへば、わらひて、「かかる雨にのぼり侍らば、足がたつきて、 いとふびんにきたなくなり侍りなん」といへば、「など。せんぞく料にこそはな らめ」といふを、「これは、御前にかしこう仰せらるるにあらず。信經が足がた のことを申さざらましかば、えのたまはざらまし」といひしこそをかしかりし か。 △「はやう中后の宮に、ゑぬたきといひて、名だかき下仕なんありける。美濃 の守にて亡せにける藤原時柄が藏人なりけるをりに、下仕どものある所にたち よりて、「これやこの高名のゑぬたき、などさも見えぬ」といひける、いらへ に、「それは、時がらにさも見ゆるならん」といひたりけるなん、かたきに選り ても、さることはいかでかあらんと、上達部・殿上人まで、興あることにのた まひける。また、さりけるなめり、けふまでかくいひ傳ふるは」と聞えたり。 「それまた時がらがいはせたるなめり。すべて、ただ題がらなん、文も歌もか しこき」といへば、「げにさもあることなり。さば、題いださん。歌よみ給へ」 といふ。「いとよきこと」といへば、「御前に、おなじくは、あまたを仕うまつ らん」などいふ程に、御返り出で來ぬれば、「あな、おそろし。まかり逃ぐ」と いひて出でぬるを、いみじう、「眞名も假名もあしう書くを、人のわらひなどす れば、隱してなんある」といふもをかし。 △作物所の別當するところ、誰がもとにやりたりけるにかあらん、ものの繪やう やるとて、「これがやうに仕うまつるべし」と書きたる眞名のやう、文字の、世 に知らずあやしきを見つけて、そのかたはらに、「これがままに仕うまつらば、 ことやうにこそあべけれ」とて、殿上にやりたければ、人々とりて見て、いみじ うわらひけるに、おほきに腹立ちてこそにくみしか。 【一〇四】△淑景舍、東宮にまゐり給ふほどのことなど、いかがめでたからぬこ となし。正月十日にまゐり給ひて、御文などはしげうかよへど、まだ御對面は なきを、二月十よ日、宮の御方にわたり給ふべき御消息あれば、つねよりも御 しつらひ心ことにみがきつくろひ、女房などみな用意したり。夜中ばかりにわ たらせ給ひしかば、いくばくもあらで明けぬ。 △登花殿のひんがしの廂の二間に、御しつらひはしたり。宵にわたらせ給ひて、 またの日おはしますべければ、女房は、御物やどりにむかひたる渡殿にさぶら ふべし。殿・上、曉に一つ御車にてまゐり給ひにけり。つとめて、いととく御 格子まゐりわたして、宮は、御曹司の南に、四尺の屏風、西東に御座しきて、 北むきに立てて、御疊の上に褥ばかり置きて、御火桶まゐれり。御屏風の南、 御帳の前に、女房いとおほくさぶらふ。 △まだこなたにて御ぐしなどまゐる程に、「淑景舍は見たてまつりたりや」と問 はせ給へば、「まだ、いかでか。積善寺供養の日、ただ御うしろばかりをなん、 はつかに」ときこゆれば、「その柱と屏風とのもとによりて、わがうしろよりみ そかに見よ。いとをかしげなる君ぞ」とのたまはするに、うれしくゆかしさま さりて、いつしかと思ふ。 △紅梅の固紋・浮紋の御衣ども、くれなゐのうちたる、御衣三重が上にただひ き重ねて奉りたる、「紅梅には濃き衣こそをかしけれ。え着ぬこそくちをしけ れ。いまは、紅梅は着でもありぬべしかし。されど、萠黄などのにくければ。 くれなゐにあはぬか」などのたまはすれど、ただいとぞめでたく見えさせ給ふ。 奉る御衣の色ことに、やがて御かたちのにほひあはせ給ふぞ、なほことよき人 も、かうやはおはしますらん、ゆかしき。 △さて、ゐざり入らせ給ひぬれば、やがて御屏風にそひつきてのぞくを、「あ しかめり。うしろめたきわざかな」ときこえごつ人々もをかし。障子のいとひ ろうあきたれば、いとよく見ゆ。上は、白き御衣ども、くれなゐのはりたる二 つばかり、女房の裳なめり、引きかけて、奧によりて東向きにおはすれば、た だ御衣などぞ見ゆる。淑景舍は、北にすこしよりて、南向きにおはす。紅梅い とあまた濃く薄くて、上に濃き綾の御衣、すこしあかき小袿、蘇枋の織物、萠 黄のわかやかなる固紋の御衣奉りて、扇をつとさしかくし給へる、いみじう、 げにめでたくうつくしくと見え給ふ。殿は、薄色の御直衣、萠黄の織物の指貫、 紅の御衣ども、御紐さして、廂の柱にうしろをあてて、こなた向きにおはしま す。めでたき御有樣を、うちゑみつつ、例のたはぶれごとせさせ給ふ。淑景舍 のいとうつくしげに、繪にかいたるやうにてゐさせ給へるに、宮はいとやすら かに、いますこしおとなびさせ給へる、御けしきのくれなゐの御衣にひかりあ はせ給へる、たぐひはいかでかと見えさせ給ふ。 △御手水まゐる。。かの御方は、宣耀殿・貞觀殿を通りて、童女二人下仕四人し て持てまゐるめり。唐廂のこなたの廊にて、女房六人ばかりさぶらふ。せばし とて、かたへはおくりして、みな歸りにけり。櫻の汗衫、萠黄・紅梅などいみ じう、汗衫長くひきて、とりつぎまゐらする、いとなまめきをかし。織物の唐 衣どもこぼし出でて、相尹の馬の頭の女少將、北野の宰相の女宰相の君などぞ、 近うはある。をかしと見るほどに、こなたの御手水は、番の采女の青裾濃の裳、 唐衣、裙帶・領布などして、おもていとしろくて、下などとりつぎまゐる程、 これはたおほやけしう、唐めきてをかし。 △御膳のをりになりて、みぐしあげまゐりて、藏人ども、御まかなひの髮あげ てまゐらするほどは、へだてたりつる御屏風もおしあけつれば、かいまみの 人、隱れ蓑とられたる心地して、あかずわびしければ、御簾と几帳とのなかに て、柱の外よりぞ見たてまつる。衣のすそ、裳などは、御簾の外にみなおしい だされたれば、殿、端の方より御覽じいだして、「あれ、誰そや。かの御簾の 間より見ゆるは」ととがめさせ給ふに、「少納言がものゆかしがりて侍るなら ん」と申させ給へば、「あなはづかし。かれはふるき得意を。いとにくさげな るむすめども持たりともこそ見侍れ。」などのたまふ、御けしきいとしたり顏な り。 △あなたにも御膳まゐる。「うらやましう、方々のみなまゐりぬめり。とくき こしめして、翁嫗に御おろしをだに賜へ」など、日一日、たださるがうことを のみし給ふほどに、大納言・三位の中將、松君ゐてまゐり給へり。殿、いつし かいだき取り給ひて、膝にすゑ奉り給へる、いとうつくし。せばき縁に、所せ き御裝束の下襲ひきちらされたり。大納言殿はものものしうきよげに、中將殿 はいとらうらうじう、いづれもめでたきを見たてまつるに、殿をばさるものに て、上の御宿世こそいとめでたけれ。「御圓座」などきこえ給へど、「陣に着き 侍るなり」とて、いそぎ立ち給ひぬ。 △しばしありて、式部の丞なにがし、御使にまゐりたれば、御膳やどりの北に よりたる間に、褥さしいだしてすゑたり。御返し、けふはとくいださせ給ひつ。 まだ褥もとり入れぬほどに、春宮の御使に、周頼の少將まゐりたり。御文とり 入れて、渡殿はほそき縁なれば、こなたの縁に褥さし出だしたり。御文とり入 れて、殿・上・宮など御覽じわたす。「御返し、はや」とあれど、とみにも聞え 給はぬを、「なにがしが見侍れば、書き給はぬなめり。さらぬをりは、これより ぞ、間もなく聞え給ふなる」など申し給へば、御おもてはすこしあかみて、う ちほほゑみ給へる、いとめでたし。「まことに、とく」など、上も聞え給へば、 奧に向きて書い給ふ。上ちかうより給ひて、もろともに書かせたてまつり給へ ば、いとどつつましげなり。 △宮のかたより、萠黄の織物の小袿、袴おし出でたれば、三位の中將かづけ給 ふ。頚くるしげに持ちて立ちぬ。 △松君のをかしうもののたまふを、誰も誰も、うつくしがりきこえ給ふ。「宮の 御みこたちとてひき出でたらんに、わるく侍らじかし」などのたまはするを、 げになどか、さる御事のいままでとぞ、心もとなき。 △未の時ばかりに、「筵道まゐる」などいふほどもなく、うちそよめきて入ら せ給へば、宮もこなたへ入らせ給ひぬ。やがて御帳に入らせ給へば、女房も南 面にみなそよめき往ぬめり。廊に殿上人いとおほかり。殿の御前に宮司召し て、「くだ物・さかななど召させよ。人々醉はせ」などおほらせらるる、まことに みな醉ひて、女房とものいひかはすほど、かたみにをかしと思ひためり。 △日の入る程に起きさせ給ひて、山の井の大納言召し入れて、御袿まゐらせ給 ひて、かへらせ給ふ。櫻の御直衣に、くれなゐの御衣の夕ばえなども、かしこ ければとどめつ。山の井の大納言は、入りたたぬ御せうとにても、いとよくお はすかし。にほひやかなるかたは、此の大納言にもまさり給へるものを、世の 人はせちにいひおとしきこゆるこそいとほしけれ。殿・大納言・山の井・三位 の中將・内藏の頭など、みなさぶらひ給ふ。 △宮のぼらせ給ふべき御使にて、馬の内侍のすけまゐりたり。「今宵はえなん」 などしぶらせ給ふに、殿聞かせ給ひて、「いとあしきこと。はやのぼらせ給へ」 と申させ給ふに、東宮の御使しきりてあるほど、いとさわがし。御むかへに、 女房、春宮の侍從などいふ人もまゐりて、「とく」とそそのかし聞ゆ。「まづ、 さば、かの君わたし聞え給ひて」とのたまはすれば、「さりとも、いかでか」 とあるを、「見おくり聞えん」などのたまはするほども、いとめでたくをかし。 「さらば、とほき先にすべきか」とて、淑景舍わたり給ひて、殿など歸らせ 給ひてぞ、のぼらせ給ふ。道の程も、殿の御さるがうごとにいみじうわらひて、 ほとほと、打橋よりも落ちぬべし。 【一〇五】△殿上より、梅のみな散りたる枝を、「これはいかが」といひたるに、 ただ、「はやく落ちにけり」といらへたれば、その詩を誦して、殿上人、黒戸に いとおほくゐたるを、上の御前にきこしめして、「よろしき歌など詠みていだし たらんよりは、かかることはまさりたり。かしこくいらへたり」とおほせられ き。 【一〇六】△二月つごもり頃に、風いたう吹きて空いみじうくろきに、雪すこし うち散りたる程、黒戸に主殿司來て、「かうてさぶらふ」といへば、よりたるに、 「これ、公任の宰相殿の」とてあるを、見れば、懷紙に、 △△すこし春あるここちこそすれ とあるは、げにけふのけしきにいとようあひたるも、これが本はいかでかつく べからん、と思ひわづらひぬ。「誰々か」と問へば、「それそれ」といふ。みな いとはづかしき中に、宰相の御いらへを、いかでかことなしびにいひ出でん、 と心ひとつにくるしきを、御前に御覽ぜさせんとすれど、上のおはしましてお ほとのごもりたり。主殿司は、「とくとく」といふ。げにおそうさへあらんは、 いととりどころなければ、さはれとて、 △△空さむみ花にまがへてちる雪に と、わななくわななく書きてとらせて、いかに思ふらんとわびし。これがこと を聞かばやと思ふに、そしられたらば聞かじと覺ゆるを、「俊賢の宰相など、 「なほ内侍に奏してなさん」となんさだめ給ひし」とばかりぞ、左兵衞督の中 將におはせし、語り給ひし。 【一〇七】△ゆくすゑはるかなるもの△半臂の緒ひねりはじむる。陸奧國へ行く 人の、逢坂越ゆる程。産れたるちごの大人になる程。大般若の讀經、ひとりし てはじめたる。 【一〇八】△方弘は、いみじう人にわらはるるものかな。親などいかに聞くらん。 供にありくものどもの、人々しきを呼びよせて、「なにしにかかる者には使はる るぞ。いかがおぼゆる」などわらふ。ものいとよくするあたりにて、下襲・う へのきぬなども、人よりよくて着たるを、紙燭さしつけ燒き、あるは、「これを こと人に着せばや」などいふに、げにまた言葉遣などあやしき。里に宿直物 とりにやるに、「男二人まかれ」といふを、「一人してとりにまかりなん」とい ふ。「あやしの男や。一人して二人が物をば、いかで持たるべきぞ。一升瓶に 二升は入るや」といふを、なでふことと知る人はなけれど、いみじうわらふ。 人の使の來て、「御返しとく」といふを、「あな、にくの男や。などかうまどふ。 かまどに豆やくべたる。この殿上の墨・筆も、何者の盜み隱したるぞ。飯・酒 ならばこそ、人もほしがらめ」といふを、またわらふ。 △女院なやませ給ふとて、御使にまゐりて、歸りたるに、「院の殿上には誰々か ありつる」と人の問へば、それかれなど、四五人ばかりいふに、「また誰か」と 問へば、さて、往ぬる人どもぞありつる」といふもわらふも、またあやしきこ とにこそはあらめ。 △人間により來て、「わが君こそ、ものきこえん。まづと、人ののたまひつる ことぞ」いへば、「なにごとぞ」とて、几帳のもとにさしよりたれば、「むく ろごめにより給へ」といひたるを、五體ごめとなんいひつるとて、人にわらは る。 △除目の中の夜、さし油するに、燈臺の打敷をふみて立てるに、あたらしき油 單に、襪はいとよくとらへられにけり。さしあゆみてかへれば、やがて燈臺は 倒れぬ、襪に打敷つきていくに、まことに大地震動したりしか。 △頭着き給はぬかぎりは、殿上の臺盤には人もつかず。それに、豆一盛り、や をらとりて、小障子のうしろにて食ひければ、ひきあらはしてわらふこと限り なし。 【一〇九】△見ぐるしきもの△衣の背縫、肩によせて着たる。また、のけ頚した る。例ならぬ人の前に、子負ひて出で來たる。法師・陰陽師の、紙冠して祓し たる。色くろうにくげなる女の鬘したると、鬚がちに、かじけやせやせなる男 と、夏晝寢したるこそ、いと見ぐるしけれ。なにの見るかひにて、さて臥いた るならん。夜などはかたちも見えず、また、みなおしなべてさることとなりけ れば、我はにくげなるとて、起きゐるべきにもあらずかし。さて、つとめては とく起きぬる、いとめやすしかし。夏晝寢して起きたるは、よき人こそ、いま すこしをかしかなれ、えせかたちは、つやめき、寢腫れて、ようせずは、頬ゆ がみもしぬべし。かたみにうち見かはしたらんほどの、生けるかひなさや。 △やせ、色くろき人の、生絹の單着たる、いと見ぐるしかし。 【一一〇】△いひにくきもの△人の消息のなかに、よき人の仰せごとなどのおほ かるを、はじめより奧までいといひにくし。はづかしき人のものなどおこせた る返りごと。大人になりたる子の、思はずなることなどを聞くに、前にてはい ひにくし。 【一一一】△關は△逢坂。須磨の關。鈴鹿の關。岫田の關。白河の關。衣の關。 ただごえの關は、はばかりの關と、たとしへなくこそおぼゆれ。横はしりの關。 清見が關。みるめの關。よしよしの關こそ、いかに思ひ返したるならんと、い と知らほましけれ。それを勿來の關といふにやあらん。逢坂などを、さて思ひ かへしたらんは、わびしかりなんかし。 【一一二】△森は△浮田の森。うへ木の森。岩瀬の森。たちぎきの森。 【一一三】△原は△あしたの原。粟津の原。篠原。萩原。園原。 【一一四】△卯月のつごもりがたに、初瀬にまうでて、淀のわたりといふものを せしかば、舟に車をかきすゑて、菖蒲・菰などの末のみじかく見えしをとらせ たれば、いとながかりけり。菰積みたる舟のありくこそ、いみじうをかしかり しか。「高瀬の淀に」とは、これをよみけるなめりと見えて。 △三日かへりしに、雨のすこし降りし程、菖蒲刈るとて、笠のいとちひさき着 つつ、脛いとたかき男の童などのあるも、屏風の繪に似ていとをかし。 【一一五】△つねよりことにきこゆるもの△正月の車の音、また、鳥の聲。あか つきのしはぶき。物の音はさらなり。 【一一六】△繪にかきおとりするもの△なでしこ。菖蒲。櫻。物語にめでたしと いひたる男・女のかたち。 【一一七】△かきまさりするもの△松の木。秋の野。山里。山路。 【一一八】△冬は、いみじうさむき。夏は、世に知らずあつき。 【一一九】△あはれなるもの△孝ある人の子。よき男のわかきが御嶽精進したる。 たてへだてゐて、うちおこなひたるあかつきの額など、いみじうあはれなり。 むつまじき人などの、目さまして聞くらん思ひやる。まうづる程のありさまい かならんなど、つつしみおぢたるに、たひらかにまうで着きたるこそ、いとめ でたけれ。烏帽子のさまなどぞ、すこし人わろき。なほ、いみじき人と聞ゆれ ど、こよなくやつれてのみこそまうづと知りたれ。 右衞門の佐宣孝といひける人は、「あぢきなきことなり。ただきよき衣を着 てまうでんに、なでふことかあらん。かならず、よも、あやしうてまうでよと、 御嶽さらにのたまはじ」とて、三月、むらさきのいと濃き指貫、しろき襖、山 吹のいみじうおどろおどろしきなど着て、隆光が主殿の助には、青色の襖、く れなゐの衣、すりもどろかしたる水干といふ袴を着せて、うちつづきまうでた りけるを、歸る人も今まうづるも、めずらしうあやしきことに、すべて昔より、 この山にかかる姿の人見えざりつと、あさましがりしを、四月ついたちに歸り て、六月十日の程に、筑前の守の死せしになりたりしこそ、げにいひけるにた がはずもときこえしか。これは、あはれなることにはあらねど、御嶽のついで なり。 △男も、女も、わかくきよげなるが、いとくろき衣を着たるこそあはれなれ。 △九月つごもり、十月ついたちのほどに、ただあるかなきかに聞きつけたるき りぎりすの聲。にはとりの子いだきて伏したる。秋ふかき庭の淺茅に、露のい ろいろ、玉のやうにて置きたる。夕ぐれ・あかつきに、川竹の風に吹かれたる、 目さまして聞きたる。また、夜などもすべて。山里の雪。思ひかはしたるわか き人の中の、せくかたありて心にもまかせぬ。 【一二〇】△正月に寺にこもりたるは、いみじうさむく、雪がちに氷りたるこそ をかしけれ。雨うち降りぬるけしきなるは、いとわろし。清水などにまうでて、 局する程、くれ階のもとに、車ひきよせて立てたるに、帶ばかりうちしたるわ かき法師ばらの、足駄といふものをはきて、いささかつつみもなく、下りのぼ るとて、なにともなき經の端うち誦み、倶舍の頌など誦しつつありくこそ、所 につけてはをかしけれ。わがのぼるは、いとあやふくおぼえて、かたはらによ りて、勾欄おさへなどしていくものを、ただ板敷などのやうにありきたるもを かし。 △「御局して侍り。はや」といへば、沓ども持て來ておろす。衣うへざまにひ きかへしなどしたるもあり。裳・唐衣など、ことごとしく裝束きたるもあり。 深履・半靴などはきて、廊の程、沓すり入るは、内裏わたりめきて、またをか し。 △内外許されたるわかき男ども、家の子など、あまた立ちつづきて、「そこも とは、落ちたる所侍り。あがりたり」など教へゆく。なに者にかあらん、いと 近くさしあゆみ、さいだつ者などを、「しばし。人おはしますに、かくはせぬ わざなり」などいふを、げにと、すこし心あるもあり。また、聞きも入れず、 まづわれ佛の御前にと思ひていくもあり。局に入る程も、人のゐ並みたる前を とほり入らば、いとうたてあるを、犬防のうち見入れたる心地ぞ、いみじうた ふとく、などて、この月頃まうでで過しつらんと、まづ心もおこる。 △御あかしの、常燈にはあらで、うちに、また人のたてまつれるが、おそろし きまで燃えたるに、佛のきらきらと見え給へるは、いみじうたふときに、手ご とに文どもをささげて、禮盤にかひろき誓ふも、さばかりゆすり滿ちたれば、 とりはなちて聞きわくべきにもあらぬに、せめてしぼり出でたる聲々の、さす がにまたまぎれずなむ。「千燈の御心ざしはなにがしの御ため」などは、はつか にきこゆ。帶うちして拜み奉るに、「ここに、つかうさぶらふ」とて、樒の枝を 折りてもて來たるに、香などのいとたふときもをかし。 △犬防のかたより、法師より來て、「いとよく申し侍りぬ。幾日ばかりこもら せ給ふべきにか。しかじかの人こもり給へり」などいひ聞かせて往ぬる、すな はち、火桶・くだ物などもてつづかせて、半插に手水入れて、手もなき盥など あり。「御供の人は、かの坊に」などいふ。誦經の鐘の音など、我がななりと 聞くも、たのもしうおぼゆ。かたはらに、よろしき男の、いとしのびやかに、 額など、立ち居の程も、心あらんときこえたるが、いたう思ひ入りたるけしき にて、いも寢ずおこなふこそ、いとあはれなれ。うちやすむほどは、經をたか うは聞えぬ程に讀みたるも、たふとげなり。うち出でさせまほしきに、まいて はななどを、けざやかに聞きにくくはあらで、しのびやかにかみたるは、なに ごとを思ふ人ならんと、かれをなさばやとこそおぼゆれ。 △日ごろこもりたるに、晝はすこしのどやかに、はやくはありし。師の坊に、 男ども・女・わらはべなどみないきて、つれづれなるに、かたはらに貝をには かに吹き出でたるこそ、いみじうおどろかるれ。きよげなる立文もたせたる男 などの、誦經の物うち置きて、堂童子など呼ぶ聲、山彦ひびきあひてきらきら しう聞ゆ。鐘の聲ひびきまさりて、いづこのならんと思ふほどに、やんごとな きところの名うちいひて、「御産たひらかに」など、げんげんしげに申したるな ど、すずろに、いかならんなど、おぼつかなく念ぜらるかし。これは、ただな るをりのことなめり。正月などはただいとさわがしき、物望みなる人など、ひ まなくまうづるを見る程に、おこなひもしやらず。 △日うち暮るるほどまうづるは、こもるなめり。小法師ばらの、持ちあるくべ うもあらぬに、屏風のたかきを、いとよく進退して、疊などをうち置くと見れ ば、局に立てて、犬防に簾さらさらとうちかくる、いみじうしつきたり、やす げなり。そよそよとあまたおり來て大人だちたる人の、いやしからぬ聲のし のびやかなるけはひして、歸る人にやあらん、「そのことあやし。火のこと制せ よ」などいふもあなり。 △七つ八つばかりなる男兒の、聲愛敬づき、おごりたる聲にて、侍の男ども呼 びつき、ものなどいひたる、いとをかし。また、三つばかりなるちごの寢おび れてうちしはぶきたるも、いとうつくし。乳母の名、母など、うちいひ出でた るも、誰ならんと知らまほし。 △夜一夜ののしりおこなひ明かすに、寢も入らざりつるを、後夜などはてて、 すこしうちやすみたる寢耳に、その寺の佛の御經を、いとあらあらしう、たふ とくうち出で誦みたるにぞ、いとわざとたふとくしもあらず、行者だちたる法 師の、蓑うちしきたるなどが誦むななりと、ふとうちおどろかれて、あはれに きこゆ。 △また、夜などはこもらで、人々しき人の、青鈍の指貫に綿入りたる、しろき 衣どもあまた着て、子どもなめりと見ゆるわかき男のをかしげなる、裝束きた る童べなどして、侍などやうの者、あまたかしこまりゐ念じたるもをかし。か りそめに屏風ばかりを立てて、額などすこしつくめり。顏知らぬは、誰ならん とゆかし、知りたるは、さなめりと見るもをかし。わかき者どもは、とかく局 どものあたりに立ちさまよひて、佛の御かたに目も見入れたてまつらず。別當 など呼び出でて、うちささめき物語して出でぬる、えせ者とは見えず。 △二月つごもり、三月ついたち、花ざかりにこもりたるもをかし。きよげなる わかき男どもの、主と見ゆる二三人、櫻の襖、柳などいとをかしうて、くくり あげたる指貫の裾も、あてやかにぞ見なさるる。つきづきしき男に裝束をかし うしたる餌袋いだかせて、小舍人童ども、紅梅・萠黄の狩衣、いろいろの衣、 おしすりもどろかしたる袴など着せたり。花など折らせて、侍めきてほそやか なる者など具して、金鼓うつこそをかしけれ。さぞかしと見ゆる人もあれど、 いかでか知らん。うち過ぎて往ぬるもさうざうしければ、「けしきを見せまし」 などいふもをかし。 △かやうにて、寺にもこもり、すべて例ならぬ所に、ただ使ふ人のかぎりして あるこそ、かひなうおぼゆれ。なほおなじ程にて、ひとつ心に、をかしき事も にくきことも、さまざまにいひあはせつべき人、かならず一人二人、あまたも 誘はまほし。そのある人のなかにも、くちをしからぬもあれど、目馴れたるな るべし。男などもさ思ふにこそあらめ、わざとたづね呼びありくは。 【一二一】△いみじう心づきなきもの△祭・禊など、すべて、男の物見るに、た だ一人乘りて見るこそあれ。いかなる心にかあらん。やむごとなからずとも、 わかき男などのゆかしがるをも、ひき乘せよかし。すき影にただ一人ただよひ て、心ひとつにまもりゐたらんよ。いかばかり心せばく、けにくきならんとぞ おぼゆる。 △ものへもいき、寺へもまうづる日の雨。使ふ人などの、「我をばおぼさず、な にがしこそ、ただいまの時の人」などいふを、ほの聞きたる。人よりはすこし にくしと思ふ人の、おしはかりごとうちし、すずろなるものうらみし、われさ かしがる。 【一二二】△わびしげに見ゆるもの△六七月の午・未の時ばかりに、きたなげな る車に、えせ牛かけてゆるがしいく者。雨降らぬ日、張り筵したる車。いと寒 きをり、暑き程などに、下衆女のなりあしきが子負ひたる。ちひさき板屋のく ろうきたなげなるが、雨にぬれたる。また、雨いたう降る日、ちひさき馬に乘 りて、御前したる。人の冠もひしげ、うへのきぬも下襲もひとつになりたる、 いかにわびしかるらんと見えたり。夏は、されどよし。 【一二三】△暑げなるもの△隨身の長の狩衣。衲の袈裟。出居の少將。色くろき 人の、いたく肥えて、髮おほかる。琴の袋。七月の修法の阿闍梨。日中の時など おこなふ、いかに暑からんと思ひやる。また、おなじ頃のあかがねの鍛冶。 【一二四】△はづかしきもの△色このむ男の心の内。いざとき夜居の僧。みそか 盜人の、さるべきものの隈々にゐて見るらんをば、誰かは知る。くらきまぎれ に、ふところに物などひき入るる人もあらむかし。そはしもおなじ心に、をか しとや思ふらん。 △夜居の僧は、いとはづかしきものなり。わかき人々集まりゐて、人の上をい ひわらひ、そしりにくみもするを、つくづくと聞き集むらん、心のうちはづか し。「あなうたて、かしがまし」など、大人びたる人のけしきばみいふをも聞 き入れず、いひいひのはては、みなうち解けて寢入りぬる、後もはづかし。 △男は、うたて思ふさまならず、もどかしう、心づきなきことなどありと見れ ど、さしむかひたる程は、うちすかして思はぬことをもいひ頼むるこそ、はづ かしきわざなれ。まして、情あり、好ましう、人に知られなどしたる人は、お ろかなりと思はすべうももてなさずかし。心のうちにのみならず、またみな、 これがことをばかれにいひ、かれが事をばこれにいひ、かたみに聞かすべかめ るを、我がことをば知らで、かう語るは、なほ人よりはこよなきなめりとや思 ふらん、と思ふこそはづかしけれ。いで、されば、すこしも思ふ人にあへば、 心はかなきなめりと見ゆることもあるぞ、はづかしうもあらぬかし。いみじう あはれに、心ぐるしう、見すてがたき事などを、いささかなにとも思はぬも、 いかなる心ぞとこそあさましけれ。さすがに人の上をばもどき、ものをいとよ ふいふよ。ことにたのもしき人もなき宮仕人などをかたらひて、ただならず なりぬるありさまなどをも知らでやみぬるよ。 【一二五】△むとくなるもの△潮干の潟にをる大船。おほきなる木の風に吹き倒 されて、根をささげ横たはれ臥せる。えせ者の從者かうがへたる。聖の足もと。 髮みじかき人の、物とりおろして、髮けづりたるうしろで。翁のもとどり放ち たる。相撲の負けてゐるうしろで。人の妻のすずろなる物怨じしてかくれたる を、かならずたづねさわがんものぞと思ひたるに、さしもあらず、のどかにも てなしたれば、さてもえ旅だちゐたらねば、心と出で來たる。 △なま心おとりしたる人の知りたる人と、心なることいひむつかりて、ひとへ にも臥さじと身じろぐを、ひき寄すれど、強ひてこはがれば、あまりになりて は、人もさはれとて、かいくくみて臥しぬる、後に、冬などは、單衣ばかりを ひとつ着たるも、あやにくがりつる程こそ、寒さも、知られざりつれ、やうやう 夜の更くるままに、寒くもあれど、おほかたの人もみな寢たれば、さすがに起 きてもえいかで、ありつる折にぞ寄りぬべかりけると、目も合はず思ひ臥した るに、いとど奧のかたより、もののひしめき鳴るもいとおそろしくて、やをら よろぼひ寄りて、衣をひき着るほどこそむとくなれ。人はたけくおもふらんか し、そら寢して知らぬ顏なるさまよ。 【一二六】△修法は△奈良方。佛の御しんどもなど、誦みたてまつりたる、なま めかしうたふとし。 【一二七】△はしたなきもの△こと人を呼ぶに、我ぞとてさし出でたる。物など とらするをりはいとど。おのづから人の上などうちいひそしりたるに、をさな き子どもの聞きとりて、その人のあるにいひ出でたる。 △あはれなる事など、人のいひ出で、うち泣きなどするに、げにいとあはれな りなど聞きながら、なみだのつと出で來ぬ、いとはしたなし。泣き顏つくり、 けしき異になせど、いとかひなし。めでたきことを見聞くには、まづただ出で 來にぞ出でくる。 【一二八】△八幡の行幸のかへらせ給ふに、女院の御棧敷のあなたに御輿とどめ て、御消息申させ給ふ、世に知らずいみじきに、まことにこぼるばかり、化粧 じたる顏みなあらはれて、いかに見ぐるしからん。宣旨の使にて、齊信の宰相 の中將の、御棧敷へまゐり給ひしこそ、いとをかしう見えしか。ただ隨身四人、 いみじう裝束きたる、馬副ほそく白うしたてたるばかりして、二條の大路の 廣くきよげなるに、めでたき馬をうちはやめて、いそぎまゐりて、すこし遠く より下りて、そばの御簾の前にさぶらひ給ひしなど、をかし。御返しうけたま はりて、御輿のもとにて奏し給ふほど、いふもおろかなり。 △さて、うちのわたらせ給ふを、見たてまつらせ給ふらん御心地、思ひやりま ゐらするは、飛び立ちぬべくこそ覺えしか。それには長泣きをしてわらはるる ぞかし。よろしき際の人だに、なほ子のよきはいとめでたきものを、かくだに 思ひまゐらするもかしこしや。 【一二九】△關白殿、黒戸より出でさせ給ふとて、女房のひまなくさぶらふを、 「あないみじのおもとたちや。翁をいかにわらひ給ふらん」とて、分け出でさ せ給へば、戸にちかき人々、色々の袖口して、御簾ひき上げたるに、權大納言 の御沓とりてはかせ奉り給ふ。いとものものしく、きよげに、よそほしげに、 下襲の裾ながく引き、所せくてさぶらひ給ふ。あなめでた、大納言ばかりに沓 とらせたてまつり給ふよ、と見ゆ。山の井の大納言、その御次々のさならぬ人 々、くろきものをひき散らしたるやうに、藤壷の塀のもとより、登花殿の前ま でゐ並みたるに、ほそやかにいみじうなまめかしう、御佩刀などひきつくろは せ給ひて、やすらはせ給ふに、宮の大夫殿は、戸の前に立たせ給へれば、ゐさ せ給ふまじきなめりと思ふほどに、すこしあゆみ出でさせ給へば、ふとゐさせ 給へりしこそ、なほいかばかりの昔の御おこなひのほどにかと見たてまつりし に、いみじかりしか。 △中納言の君の、忌日とてくすしがりおこなひ給ひしを、「賜へ、その數珠し ばし。おこなひして、めでたき身にならん」とかるとて、あつまりてわらへど、 なほいとこそめでたけれ。御前にきこしめして、「佛になりたらんこそは、こ れよりはまさらめ」とて、うち笑ませ給へるを、まためでたくなりてぞ見たて まつる。大夫殿のゐさせ給へるを、かへすがへすきこゆれば、例のおもひ人と わらはせ給ひし、まいて、この後の御ありさまを見たてまつらせ給はましかば、 ことわりとおぼしめされなまし。 【一三〇】△九月ばかり、夜一夜降りあかしつる雨の、今朝はやみて、朝日いと けざやかにさし出でたるに、前栽の露こぼるばかりぬれかかりたるも、いとを かし。透垣の羅文、軒の上に、かいたる蜘蛛の巣のこぼれ殘りたるに、雨のかか りたるが、白き玉をつらぬきたるやうなるこそ、いみじうあはれにをかしけれ。 △すこし日たけぬれば、萩などのいとおもげなるに、露の落つるに枝のうち動 きて、人も手ふれぬに、ふとかみざまへあがりたるも、いみじうをかし、といひ たることどもの、人の心にはつゆをかしからじとおもふこそ、またをかしけれ。 【一三一】△七日の日の若菜を、六日、人の持て來、さわぎとり散らしなどする に、見も知らぬ草を、子どものとり持て來たるを、「なにとかこれをばいふ」 と問へば、とみにもいはず、「いさ」など、これかれ見あはせて、「耳無草とな んいふ」といふ者のあれば、「むべなりけり、聞かぬ顏なるは」とわらふに、 またいとをかしげなる菊の生ひ出でたるを持て來たれば、 △△つめどなほ耳無草こそあはれなれあまたしあればきくもありけり といはまほしけれど、またこれも聞き入るべうもあらず。 【一三二】△二月、官の司に定考といふことすなる、なにごとにかあらむ。孔 子などかけたてまつりてすることなるべし。聰明とて、上にも宮にも、あやし きもののかたなど、かはらけに盛りてまゐらす。 【一三三】△頭の辨の御もとより、主殿司、ゑなどやうなるものを、白き色紙に つつみて、梅の花のいみじう咲きたるにつけて持て來たり。ゑにやあらんと、 いそぎとり入れて見れば、餅餤といふ物を二つ並べてつつみたるなりけり。 添へたる立文には、解文のやうにて、 △△進上△餅餤一包 △△例に依て進上如件 △△別當△少納言殿 とて、月日書きて、「みまなのなりゆき」とて、奧に、「このをのこはみづから まゐらむとするを、晝はかたちわろしとてまゐらぬなめり」と、いみじうをか しげに書い給へり。御前にまゐりて御覽ぜさすれば、「めでたくも書きたるか な。をかしくしたり」などほめさせ給ひて、解文はとらせ給ひつ。 △「返りごといかがすべからむ。この餅餤持て來るには、物などやとらすらん。 知りたらむ人もがな」といふを、きこしめして、「惟仲が聲のしつるを。呼び て問へ」とのたまはすれば、端に出でて、「左大辨にもの聞えん」と侍して呼 ばせたれば、いとよくうるはしくて來たり。「あらず、わたくし事なり。もし、 この辨・少納言などのもとに、かかる物持てくるしもべなどは、することやあ る」といへば、「さることも侍らず。ただとめてなん食ひ侍る。なにしに問は せ給ふぞ。もし上官のうちにて得させ給へるか」と問へば、「いかがは」とい らへて、返りごとを、いみじうあかき薄樣に、「みづから持てまうで來ぬしも べは、いと冷淡なりとなむ見ゆ。如何」とて、めでたき紅梅につけてたてまつ りたる、すなはちおはして、「しもべさぶらふ。しもべさぶらふ」とのたまへ ば、出でたるに、「さやうのもの、そらよみしておこせ給へると思ひつるに、 びびしくもいひたりつるかな。女のすこし我はと思ひたるは、歌よみがましく ぞある。さらぬこそ語らひよけれ。まろなどに、さることいはむ人、かへりて 無心ならんかし」などのたまふ。 △則光・なりやすなど、わらひてやみにしことを、上の御前に人々いとおほか りけるに、かたり申し給ひければ、「「よくいひたり」となんのたまはせし」と、 また人の語りしこそ、見ぐるしき我ぼめどもをかし。 【一三四】△「などて、官得はじめたる六位の笏に、職の御曹司の辰巳の隅の築 土の板はせしぞ。さらば、西東のをもせよかし」などいふことをいひ出でて、 「あぢきなきことどもを。衣などにすずろなる名どもをつけけん、いとあやし。 衣のなかに、細長はさもいひつべし。なぞ、汗衫は尻長といへかし」「男の童 の着たるやうに、なぞ、唐衣は短衣といへかし」「されど、それは唐土の人の 着るものなれば」「うへの衣、うへの袴は、さもいふべし。下襲よし。大口、 またながさよりは口ひろければ、さもありなん」「袴、いとあぢきなし。指貫は、 なぞ、足の衣とこそいふべけれ。もしは、さやうのものをば袋といへかし」な ど、よろづのことをいひののしるを、「いで、あな、かしがまし。いまはいは じ。寢給ひね」といふ、いらへに、夜居の僧の、「いとわろからむ。夜一夜こ そ、なほのたまはめ」と、にくしと思ひたりし聲ざまにていひたりしこそ、を かしかりしにそへておどろかれにしか。 【一三五】△故殿の御ために、月ごとの十日、經・佛など供養ぜさせ給ひしを、 九月十日、職の御曹司にてせさせ給ふ。上達部・殿上人いとおほかり。清範、 講師にて、説くこと、はたいとかなしければ、ことにもののあはれ深かるまじ きわかき人々、みな泣くめり。 △果てて、酒飮み、詩誦しなどするに、頭の中將齊信の君の、「月秋と期して 身いづくか」といふことをうちいだし給へりし、はたいみじうめでたし。いか で、さは思ひ出で給ひけん。 △おはします所に、わけまゐるほどに、立ち出でさせ給ひて、「めでたしな。 いみじう、今日の料にいひたりけることにこそあれ」とのたまはすれば、「そ れ啓しにとて、もの見さしてまゐり侍りつるなり。なほいとめでたくこそおぼ え侍りつれ」と啓すれば、「まいて、さおぼゆらんかし」と仰せらる。 △わざと呼びも出で、逢ふ所ごとにては、「などか、まろを、まことにちかく 語らひ給はぬ。さすがにくしと思ひたるにはあらずと知りたるを、いとあやし くなんおぼゆる。かばかり年ごろになりぬる得意の、うとくてやむはなし。殿 上などに、あけくれなきをりもあらば、なに事をか思ひ出でにせむ」とのたま へば、「さらなり。かたかるべきことにもあらぬを、さもあらんのちには、え ほめたてまつらざらむが、くちをしきなり。上の御前などにても、やくとあづ かりてほめきこゆるに、いかでか。ただおぼせかし。かたはらいたく、心の鬼 出で來て、いひにくくなり侍りなん」といへば、「などて。さる人をしもこそ、 めよりほかに、ほむるたぐひあれ」とのたまへば、「それがにくからずおぼえ ばこそあらめ。男も女も、けぢかき人おもひかたひき、ほめ、人のいささかあ しきことなどいへば、腹立ちなどするが、わびしうおぼゆるなり」といへば、 「たのもしげなのことや」とのたまふも、いとをかし。 【一三六】△頭の辨の、職にまゐり給ひて、物語などし給ひしに、夜いたうふけ ぬ。「あす御物忌なるにこもるべければ、丑になりなばあしかりなん」とて、 まゐり給ひぬ。 △つとめて、藏人所の紙屋紙ひき重ねて、「けふは殘りおほかる心地なんする。 夜を通して、昔物語もきこえあかさんとせしを、にはとりの聲に催されてな ん」と、いみじうことおほく書き給へる、いとめでたし。御返しに、「いと夜 ふかく侍りける鳥の聲は、孟嘗君のにや」ときこえたれば、たちかへり、「「孟 嘗君のにはとりは、函谷關を開きて、三千の客わづかに去れり」とあれども、 これは逢坂の關なり」とあれば、 △△「夜をこめて鳥のそら音ははかるとも世に逢坂の關はゆるさじ 心かしこき關守侍り」ときこゆ。また、たちかへり、 △△逢坂は人越えやすき關なれば鳥鳴かぬにもあけて待つとか とありし文どもを、はじめのは、僧都の君、いみじう額をさへつきて、とり給 ひてき。後々のは御前に。 △さて、逢坂の歌はへされて、返しもえせずなりにき。いとわろし。さて、 「その文は、殿上人みな見てしは」とのたまへば、「まことにおぼしけりと、 これにこそ知られぬれ。めでたき事など、人のいひ傳へぬは、かひなきわざぞ かし。また、見ぐるしきこと散るがわびしければ、御文はいみじう隱して、人 につゆ見せ侍らず。御心ざしのほどをくらぶるに、ひとしくこそは」といへば、 「かくものを思ひ知りていふが、なほ人には似ずおぼゆる。「思ひぐまなく、 あしうしたり」など、例の女のやうにやいはむとこそ思ひつれ」などいひて、 わらひ給ふ。「こはなどて。よろこびをこそきこえめ」などいふ。「まろが文を 隱し給ひける、また、なほあはれにうれしきことなりかし。いかに心憂くつら からまし。いまよりも、さを頼みきこえん」などのたまひて、のちに、經房の 中將おはして、「頭の辨はいみじうほめ給ふとは知りたりや。一日の文に、あ りし事など語り給ふ。おもふ人の人にほめらるるは、いみじううれしき」など、 まめまめしうのたまふもをかし。「うれしきこと二つにて、かのほめ給ふなる に、また、おもふ人のうちに侍りけるをなむ」といへば、「それめづらしう、 いまのことのやうにもよろこび給ふかな」などのたまふ。 【一三七】△五月ばかり、月もなういとくらきに、「女房やさぶらひ給ふ」と、 聲々していへば、「出でて見よ。例ならずいふは誰ぞとよ」と仰せらるれば、 「こは、誰そ。いとおどろおどろしう、きはやかなるは」といふ。ものはいは で、御簾をもたげてそよろとさし入るる、呉竹なりけり。「おい、この君にこ そ」といひわたるを聞きて、「いざいざ、これまづ殿上にいきて語らむ」とて、 式部卿の宮の源中將、六位どもなど、ありけるは往ぬ。 △頭の辨はとまり給へり。「あやしくても往ぬる者どもかな。御前の竹を折り て、歌よまむとてしつるを、おなじくは職にまゐりて、女房など呼び出できこ えてと、もて來つるに、呉竹の名をいととくいはれて、往ぬるこそいとほしけ れ。誰が教へを聞きて、人のなべて知るべうもあらぬことをばいふぞ」などの たまへば、「竹の名とも知らぬものを。なめしとやおぼしつらん」といへば、 「まことに、そは知らじを」などのたまふ。 △まめごとなどもいひあはせてゐ給へるに、「種ゑてこの君と稱す」と誦して、 またあつまり來たれば、「殿上にていひ期しつる本意もなくては、など歸り給ひ ぬるぞと、あやしうこそありつれ」とのたまへば、「さることには、なにのいら へをかせむ。なかなかならん。殿上にていひののしりつるは。上もきこしめし て、興ぜさせおはしましつ」と語る。頭の辨もろともに、おなじことをかへす がへす誦し給ひて、いとをかしければ、人々みなとりどりに、ものなどいひあ かして、歸るとても、なほおなじことをもろ聲に誦して、左衞門の陣入るまで きこゆ。 △つとめて、いととく、少納言の命婦といふが、御文まゐらせたるに、この事 を啓したりければ、下なるを召して、「さることやありし」と問はせ給へば、 「知らず。なにとも知らで侍りしを、行成の朝臣のとりなしたるにや侍らん」 と申せば、「とりなすとも」とて、うち笑ませ給へり。 △誰がことをも、殿上人ほめけりなどきこしめすを、さいはるる人をも、よろ こばせ給ふもをかし。 【一三八】△圓融院の御はての年、みな人御服ぬぎなどして、あはれなることを、 おほやけよりはじめて、院の人も、「花の衣に」などいひけん世の御ことなど 思ひ出づるに、雨のいたう降る日、藤三位の局に、蓑蟲のやうなる童のおほき なる、白き木に立文をつけて、「これたてまつらせん」といひければ、「いづこ よりぞ。今日明日は物忌なれば、蔀もまゐらぬぞ」とて、下は立てたる蔀より とり入れて、さなんとは聞かせ給へれど、「物忌なれば見ず」とて、上につい さして置きたるを、つとめて、手洗ひて、「いで、その昨日の卷數」とて請ひ 出でて、伏し拜みてあけたれば、胡桃色といふ色紙の厚肥えたるを、あやしと 思ひてあけもていけば、法師のいみじげなる手にて、 △△これをだにかたみと思ふに都には葉がへやしつる椎柴の袖 と書いたり。いとあさましうねたかりけるわざかな、誰がしたるにかあらん、 仁和寺の僧正のにや、と思へど、よにかかることのたまはじ、藤大納言ぞ彼の 院の別當におはせしかば、そのし給へることなめり、これを、上の御前、宮な どにとくきこしめさせばや、と思ふに、いと心もとなくおぼゆれど、なほいと おそろしういひたる物忌し果てむとて、念じくらして、またつとめて、藤大納 言の御もとに、この返しをして、さし置かせたれば、すなはちまた返ししてお こせ給へり。 △それを二つながら持て、いそぎまゐりて、「かかることなん侍りし」と、上も おはします御前にてかたり申し給ふ。宮ぞいとつれなく御覽じて、「藤大納言 の手のさまにはあらざめり。法師のにこそあめれ。昔の鬼のしわざとこそおぼ ゆれ」など、いとまめやかにのたまはすれば、「さば、こは誰がしわざかにか。す きずきしき心ある上達部・僧綱などは誰かはある。それにや、かれにや」など、 おぼめき、ゆかしがり、申し給ふに、上の、「このわたりに見えし色紙にこそい とよく似たれ」とうちほほ笑ませ給ひて、いま一つ御厨子のもとなりけるをと りて、さし賜はせたれば、「いで、あな、心憂。これ仰せられよ。あな頭痛や。い かで、とく聞き侍らん」と、ただ責めに責め申し、うらみきこえて、わらひ給ふ に、やうやう仰せられ出でて、「使にいきける鬼童は、臺盤所の刀自といふ者の もとなりけるを、小兵衞がかたらひいだしてしたるにやありけん」など仰せら るれば、宮もわらはせ給ふを、ひきゆるがしたてまつりて、「など、かくは謀ら せおはしまししぞ。なほ疑ひもなく手をうち洗ひて、伏し拜みたてまつりしこ とよ」と、わらひねたがりゐ給へるさまも、いとほこりかに愛敬づきてをかし。 △さて、上の臺盤所にても、わらひののしりて、局に下りて、この童たづね出 でて、文とり入れし人に見すれば、「それにこそ侍るめれ」といふ。「誰が文を、 誰かとらせし」といへど、ともかくもいはで、しれじれしう笑みて走りにけり。 大納言、後に聞きて、わらひ興じ給ひけり。 【一三九】△つれづれなるもの△所避りたる物忌。馬下りぬ雙六。除目に司得ぬ 人の家。雨うち降りたるは、まいていみじうつれづれなり。 【一四〇】△つれづれなぐさむもの△碁。雙六。物語。三つ四つのちごの、もの をかしういふ。また、いとちひさきちごの、ものがたりし、たがへなどいふわ ざしたる。くだもの。男などのうちさるがひ、ものよくいふが來たるを、物忌 なれど入れつかし。 【一四一】△とり所なきもの△かたちにくさげに、心あしき人。みそひめのぬり たる。これいみじう、よろづの人のにくむなる物とて、いまとどむべきにあら ず。また、あと火の火箸といふこと、などてか、世になきことならねど、この 草子を、人の見るべきものと思はざりしかば、あやしきことも、にくき事も、 ただおもふことを書かむと思ひしなり。 【一四二】△なほめでたきこと、臨時の祭ばかりのことにかあらむ。試樂もいと をかし。 △春は、空のけしきのどかにうらうらとあるに、清涼殿の御前に、掃部司の、 疊を敷きて、使は北向きに、舞人は御前のかたに向きて、これらはひがおぼえ にもあらん、所の衆どもの、衝重とりて、前どもに据ゑわたしたる。陪從も、 その庭ばかりは御前にて出で入るぞかし。公卿・殿上人、かはりがはり盃とり て、はてには屋久貝といふ物して飮みて立つ、すなはち、とりばみといふもの、 男などのせんだにいとうたてあるを、御前には、女ぞ出でてとりける。おもひ かけず、人あらむとも知らぬ火燒屋より、にはかに出でて、おほくとらむとさ わぐものは、なかなかうちこぼしあつかふほどに、輕らかにふととりて往ぬる 者にはおとりて、かしこき納殿には火燒屋をして、とり入るるこそいとをかし けれ。掃部司の者ども、疊とるやおそしと、主殿寮の官人、手ごとに箒とりて すなご馴らす。 △承香殿の前のほどに、笛吹き立て拍子うちて遊ぶを、とく出で來なんと待 つに、有度濱うたひて、竹の笆のもとにあゆみ出でて、御琴うちたるほど、た だいかにせんとぞおぼゆるや。一の舞の、いとうるはしう袖をあはせて、二人 ばかり出で來て、西によりて向ひて立ちぬ。つぎつぎ出づるに、足踏みを拍子 にあはせて、半臂の緒つくろひ、冠、衣の領など、手もやまずつくろひて、 「あやもなきこま山」などうたひて舞ひたるは、すべて、まことにいみじうめ でたし。 △大輪など舞ふは、日一日見るともあくまじきを、果てぬる、いとくちをしけ れど、またあべしと思へば頼もしきを、御琴かきかへして、このたびは、やが て竹のうしろより舞ひ出でたる、さまどもはいみじうこそあれ。掻練のつや、 下襲などのみだれあひて、こなたかなたにわたりなどしたる、いでさらに、い へば世のつねなり。 △このたびは、またもあるまじければにや、いみじうこそ果てなんことはくち をしけれ。上達部なども、みなつづきて出で給ひぬれば、さうざうしくくちを しきに、賀茂の臨時の祭は、還立の御神樂などにこそなぐさめらるれ。庭燎の 煙のほそくのぼりたるに、神樂の笛のおもしろくわななき吹きすまされてのぼ るに、歌の聲もいとあはれに、いみじうおもしろく、さむく冴えこほりて、う ちたる衣もつめたう、扇もちたる手も冷ゆともおぼえず。才の男召して、聲ひ きたる人長の心地よげさこそいみじけれ。 △里なる時は、ただわたるを見るが飽かねば、御社までいきて見るをりもあり。 おほいなる木どものもとに車を立てたれば、松の煙のたなびきて、火のかげに 半臂の緒、衣のつやも、晝よりはこよなうまさりてぞ見ゆる。橋の板を踏み鳴 らして、聲あはせて舞ふほどもいとをかしきに、水の流るる音、笛の聲などあ ひたるは、まことに神もめでたしとおぼすらんかし。頭の中將といひける人の、 年ごとに舞人にて、めでたきものに思ひしみけるに、亡くなりて上の社の橋の 下にあなるを聞けば、ゆゆしう、ものをさしも思ひ入れじとおもへど、なほこ のめでたき事をこそ、さらにえおもひ棄つまじけれ。 △「八幡の臨時の祭の日、名殘こそいとつれづれなれ。など、歸りてまた舞ふ わざをせざりけん。さらば、をかしからまし。祿を得て、うしろよりまかづる こそくちをしけれ」などいふを、上の御前にきこしめして、「舞はせん」と仰 せらる。「まことにやさぶらふらむ。さらば、いかにめでたからん」など申す。 うれしがりて、宮の御前にも、「なほそれ舞はせさせ給へと申させ給へ」など、 あつまりて啓しまどひしかば、そのたび、歸りて舞ひしは、いみじううれしか りしものかな。さしもやあらざらんとうちたゆみたる舞人、御前に召す、とき こえたるに、ものにあたるばかりさわぐも、いといと物ぐるほし。 △下にある人々のまどひのぼるさまこそ。人の從者、殿上人など見るも知らず、 裳を頭にうちかづきてのぼるをわらふもをかし。 【一四三】△殿などのおはしまさで後、世の中に事出で來、さわがしうなりて、 宮もまゐらせ給はず、小二條殿といふ所におはしますに、なにともなくうたて ありしかば、ひさしう里にゐたり。御前わたりのおぼつかなきにこそ、なほえ 絶えてあるまじかりける。 △右中將おはして、物語し給ふ。「今日宮にまゐりたりつれば、いみじうもの こそあはれなりつれ。女房の裝束、裳・唐衣をりにあひ、たゆまでさぶらふか な。御簾のそばのあきたりつるより見入れつれば、八九人ばかり、朽葉の唐衣、 薄色の裳に、紫苑・萩など、をかしうて居並みたりつるかな。御前の草のいと しげきを、「などか、かきはらはせでこそ」といひつれば、「ことさら露置かせ て御覽ずとて」と、宰相の君の聲にていらへつるが、をかしうもおぼえつるか な。「御里居いと心憂し。かかる所に住ませ給はんほどは、いみじきことあり とも、かならずさぶらふべきものにおぼしめされたるに、かひなく」と、あま たいひつる、語り聞かせたてまつれとなめりかし。まゐりて見給へ。あはれな りつる所のさまかな。臺の前に植ゑられたりける牡丹などのをかしきこと」な どのたまふ。「いさ、人のにくしとおもひたりしが、またにくくおぼえ侍りし かば」といらへきこゆ。「おいらかにも」とてわらひ給ふ。 △げにいかならんと思ひまゐらする。御けしきにはあらで、さぶらふ人たちな どの、「左の大殿がたの人、知るすぢにてあり」とて、さしつどひものなどい ふも、下よりまゐる見ては、ふといひやみ、放ち出でたるけしきなるが、見な らはずにくければ、「まゐれ」など、たびたびある仰せ言をも過して、げにひ さしくなりにけるを、また宮の邊には、ただあなたがたにいひなして、そら言 なども出で來べし。 △例ならず仰せ言などもなくて日頃になれば、心ぼそくてうちながむるほどに、 長女文を持て來たり。「御前より、宰相の君して、忍びて賜はせたりつる」と いひて、ここにてさへひき忍ぶるもあまりなり。人づての仰せ書きにはあらぬ なめりと、胸つぶれて、とく開けたれば、紙にはものも書かせ給はず、山吹の 花びらただ一重をつつませ給へり。それに、「いはで思ふぞ」と書かせ給へる、 いみじう、日頃の絶え間なげかれつる、みな慰めてうれしきに、長女もうちま もりて、「御前には、いかが、もののをりごとに、おぼし出できこえさせ給ふ なるものを。誰もあやしき御長居とこそ侍るめれ。などかはまゐらせ給はぬ」 といひて、「ここなる所に、あからさまにまかりて、まゐらむ」といひて往ぬ るのち、御返りごと書きてまゐらせんとするに、この歌の本さらにわすれたり。 「いとあやし。おなじふるごとといひながら、知らぬ人やはある。ただここも とにおぼえながら、いひ出でられぬはいかにぞや」などいふを聞きて、前にゐ たるが、「「下ゆく水」とこそ申せ」といひたる、などかくわすれつるならむ。 これに教へらるるもをかし。 △御返しまゐらせて、すこしほど經てまゐりたる、いかがと例よりはつつまし くて、御几帳にはたかくれてさぶらふを、「あれは今參りか」などわらはせ給 ひて、「にくき歌なれど、このをりはいひつべかりけりとなん思ふを。おほか た見つけでは、しばしもえこそ慰むまじけれ」などのたまはせて、かはりたる 御けしきもなし。 △童に教へられしことなどを啓すれば、いみじうわらはせ給ひて、「さること ぞある。あまりあなづるふるごとなどは、さもありぬべし」など仰せらるる、 ついでに、「なぞなぞ合しける、方人にはあらで、さやうのことにりやうりや うじかりけるが、「左の一はおのれいはむ。さ思ひ給へ」など頼むるに、さり ともわろきことはいひ出でじかしと、たのもしくうれしうて、みな人々作りい だし、選りさだむるに、「その詞を、ただまかせて殘し給へ。さ申しては、よ もくちをしくはあらじ」といふ。げにとおしはかるに、日いと近くなりぬ。「な ほこのことのたまへ。非常に、おなじこともこそあれ」といふを、「さば、い さ知らず。な頼まれそ」などむつかりければ、おぼつかなながら、その日にな りて、みな、方の人、男女居わかれて、見證の人など、いとおほく居並みてあ はするに、左の一、いみじく用意してもてなしたるさま、いかなることをいひ 出でんと見えたれば、こなたの人、あなたの人、みな心もとなくうちまもりて、 「なぞ、なぞ」といふほど、心にくし。「天に張り弓」といひたり。右方の人 は、いと興ありてとおもふに、こなたの人はものもおぼえず、みなにくく愛敬 なくて、あなたによりてことさらに負けさせんとしけるを、など、かた時のほ どにおもふに、右の人、「いとくちをしく、をこなり」とうちわらひて、「やや、 さらにえ知らず」とて、口をひき垂れて、「知らぬことよ」とて、さるがうし かくるに、籌ささせつ。「いとあやしきこと。これ知らぬ人は誰かあらん。さ らに籌ささるまじ」と論ずれど、「知らずといひてんには、などてか負くるに ならざらむ」とて、次々のも、この人なんみな論じ勝たせける。いみじく人の 知りたることなれども、おぼえぬ時はしかこそはあれ。なにしにかは、知らず とはいひし。後にうらみられけること」など、かたり出でさせ給へば、御前な る限り、さ思ひつべし。「くちをしういらへけん」「こなたの人の心地、うち聞 きはじめけむ、いかがにくかりけむ」なんどわらふ。これはわすれたることか は、ただみな知りたることとかや。 【一四四】△正月十よ日のほど、空いと黒う、雲もあつく見えながら、さすが に日はけざやかにさし出でたるに、えせ者の家の荒畠といふものの、土うるは しうも直からぬ、桃の木のわかだちて、いとしもとがちにさし出でたる、片つ かたはいと青く、いま片つかたは濃くつややかにて蘇枋の色なるが、日かげに 見えたるを、いとほそやかなる童の、狩衣はかけやりなどして、髮うるはしき が上りたれば、ひきはこえたる男兒、また、こはぎにて半靴はきたるなど、木 の下に立ちて、「我に毬打切りて」など乞ふに、また、髮をかしげなる童の、袙 どもほころびがちにて、袴萎えたれど、よき袿着たる三四人來て、「卯槌の木の よからん、切りておろせ。御前にも召す」などいひて、おろしたれば、はひし らがひとりて、さし仰ぎて、「我におほく」などいひたるこそをかしけれ。 △黒袴着たる男の走り來て乞ふに、「待て」などいへば、木の本を引きゆるが すに、あやふがりて、猿のやうにかいつきてをめくもをかし。梅などのなりた るをりも、さやうにぞするかし。 【一四五】△きよげなる男の、雙六を日一日うちて、なほあかぬにや、みじかき 燈臺に火をともして、いとあかうかかげて、かたきの、賽を責め請ひてとみに も入れねば、筒を盤の上に立てて待つに、狩衣の領の顏にかかれば、片手して おし入れて、こはからぬ烏帽子ふりやりつつ、「賽いみじく呪ふとも、うちは づしてんや」と、心もとなげにうちまもりたるこそ、ほこりかに見ゆれ。 【一四六】△碁を、やむごとなき人のうつとて、紐うち解き、ないがしろなるけ しきに拾ひ置くに、おとりたる人の、ゐずまひもかしこまりたるけしきにて、 碁盤よりはすこし遠くておよびて、袖の下はいま片手してひかへなどして、う ちゐたるもをかし。 【一四七】△おそろしげなるもの△つるばみのかさ。燒けたる所。水ふぶき。菱。 髮おほかる男の洗ひてほすほど。 【一四八】△きよしと見ゆるもの△土器。あたらしきかなまり。疊にさす薦。水 を物に入るるすき影。 【一四九】△いやしげなるもの△式部の丞の笏。黒き髮の筋わろき。布屏風のあ たらしき。舊り黒みたるは、さるいふかひなき物にて、なかなかなにとも見え ず。あたらしうしたてて、櫻の花おほく咲かせて、胡粉・朱砂など色どりたる 繪どもかきたる。遣戸厨子。法師のふとりたる。まことの出雲筵の疊。 【一五〇】△胸つぶるるもの△競馬見る。元結よる。親などの心地あしとて、例 ならぬけしきなる。まして、世の中などさわがしと聞ゆるころは、よろづのこ とおぼえず。また、ものいはぬちごの泣き入りて、乳も飮まず、乳母のいだく にもやまでひさしき。 △例の所ならぬ所にて、ことにまたいちじるからぬ人の聲聞きつけたるはこと わり、こと人などのそのうへなどいふにも、まづこそつぶるれ。いみじうにく き人の來たるにも、またつぶる。あやしくつぶれがちなるものは、胸こそあれ。 △よべ來はじめたる人の、今朝の文のおそきは、人のためにさへつぶる。 【一五一】△うつくしきもの△瓜にかきたるちごの顏。雀の子の、ねず鳴きする にをどり來る。二つ三つばかりなるちごの、いそぎてはひ來る道に、いとちひ さき塵のありけるを目ざとに見つけて、いとをかしげなるおよびにとらへて、 大人などに見せたる、いとうつくし。頭はあまそぎなるちごの、目に髮のおほ へるをかきはやらで、うちかたぶきて物など見たるも、うつくし。 △おほきにはあらぬ殿上童の、さうぞきたてられてありくもうつくし。をか しげなるちごの、あからさまにいだきて遊ばしうつくしむほどに、かいつきて 寢たる、いとらうたし。 △雛の調度。蓮の浮葉のいとちひさきを、池よりとりあげたる。葵のいとちひ さき。なにもなにも、ちひさきものはみなうつくし。 △いみじうしろく肥えたるちごの二つばかりなるが、二藍のうすものなど、衣 ながにてたすき結ひたるがはひ出でたるも、また、みじかきが袖がちなる着て ありくも、みなうつくし。八つ、九つ、十ばかりなどの男兒の、聲はをさなげ にてふみ讀みたる、いとうつくし。 △にはとりのひなの、足高に、しろうをかしげに、衣みじかなるさまして、ひ よひよとかしがましう鳴きて、人のしりさきに立ちてありくもをかし。また親 の、ともにつれてたちて走るも、みなうつくし。かりのこ。瑠璃の壷。 【一五二】△人ばへするもの△ことなることなき人の子の、さすがにかなしうし ならはしたる。しはぶき。はづかしき人にものいはんとするに、先に立つ。 △あなたこなたに住む人の子の四つ五つなるは、あやにくだちて、ものとり散 らしそこなふを、ひきはられ制せられて、心のままにもえあらぬが、親の來た るに所得て、「あれ見せよ、やや、はは」などひきゆるがすに、大人どものい ふとて、ふとも聞き入れねば、手づからひきさがし出でて見さわぐこそ、いと にくけれ。それを、「まな」ともとり隱さで、「さなせそ」「そこなふな」など ばかり、うち笑みていふこそ、親もにくけれ。我はた、えはしたなうもいはで 見るこそ心もとなけれ。 【一五三】△名おそろしきもの△あをふち。たにのほら。はたいた。くろがね。 つちくれ。いかづちは名のみにもあらず、いみじうおそろし。はやち。ふさう 雲。ほこぼし。ひぢかさ雨。あらのら。 △がうだう、またよろづにおそろし。らんそう、おほかたおそろし。かなもち、 またよろづにおそろし。いきすだま。くちなはいちご。おにわらび。鬼ところ。 むばら。からたち。いりずみ。うしおに。いかり、名よりも見るはおそろし。 【一五四】△見るにことなることなきものの文字に書きてことごとしきもの△い ちご。つゆくさ。水ふぶき。くも。くるみ。文章博士。得業の生。皇太后宮 權大夫。山もも。 △いたどりは、まいて虎の杖と書きたるとか。杖なくともありぬべきかほつき を。 【一五五】△むつかしげなるもの△ぬひ物の裏。ねずみの子の毛もまだ生ひぬを、 巣の中よりまろばし出でたる。裏まだつけぬ裘の縫ひ目。猫の耳の中。ことに きよげならぬ所の暗き。 △ことなることなき人の、子などあまた持てあつかひたる。いとふかうしも心 ざしなき妻の、心地あしうしてひさしうなやみたるも、男の心地はむつかしか るべし。 【一五六】△えせものの所得るをり△正月のおほね。行幸のをりのひめまうち君。 御即位の御門つかさ。六月・十二月のつごもりの節折の藏人。季の御讀經の威 儀師。赤袈裟着て僧の名どもよみあげたる、いときらきらし。 △季の御讀經。御佛名などの御裝束の所の衆。春日祭の近衞の舍人ども。元三 の藥子。卯杖の法師。御前の試の夜の御髮上。節會の御まかなひの采女。 【一五七】△くるしげなるもの△夜泣きといふわざするちごの乳母。思ふ人二人 もちて、こなたかなたふすべらるる男。こはき物の怪にあづかりたる驗者。驗 だにいちはやからばよかるべきを、さしもあらず、さすがに人わらはれならじ と念ずる、いとくるしげなり。 △わりなくものうたがひする男にいみじう思はれたる女。一の所などに時めく 人も、えやすくはあらねど、そはよかめり。心いられしたる人。 【一五八】△うらやましげなるもの△經など習ふとて、いみじうたどたどしくわ すれがちに、返す返すおなじ所をよむに、法師はことわり、男も女も、くるく るとやすらかに讀みたるこそ、あれがやうにいつの世にあらんとおぼゆれ。心 地などわづらひて、臥したるに、笑うちわらひ、ものなどいひ、思ふ事なげにて あゆみありく人みるこそ、いみじううらやましけれ。 △稻荷に思ひおこしてまうでたるに、中の御社のほど、わりなうくるしきを、 念じのぼるに、いささかくるしげもなく、おくれて來とみる者どもの、ただ行 きに先に立ちてまうづる、いとめでたし。二月午の日の曉にいそぎしかど、坂 のなからばかりあゆみしかば、巳の時ばかりになりにけり。やうやう暑くさへ なりて、まことにわびしくて、など、かからでよき日もあらんものを、なにし に詣でつらんとまで、涙もおちてやすみ困ずるに、四十餘ばかりなる女の、壷 裝束などにはあらで、ただひきはこえたるが、「まろは七度詣し侍るぞ。三度 は詣でぬ。いま四度はことにもあらず。まだ未に下向しぬべし」と、道にあひ たる人にうちいひて下りいきしこそ、ただなる所には目にもとまるまじきに、 これが身にただ今ならばやとおぼえしか。 △女兒も、男兒も、法師も、よき子ども持たる人、いみじううらやまし。髮い とながくうるはしく、さがりばなどめでたき人。また、やむごとなき人の、よ ろづの人にかしこまられ、かしづかれ給ふ、見るもいとうらやまし。手よく書 き、歌よく詠みて、もののをりごとにもまづとりいでらるる、うらやまし。 △よき人の御前に女房いとあまたさぶらふに、心にくき所へつかはす仰せ書な どを、誰もいと鳥の跡にしもなどかはあらむ、されど、下などにあるをわざと 召して、御硯とりおろして書かせさせ給ふもうらやまし。さやうの事は、所の 大人などになりぬれば、まことに難波わたり遠からぬも、ことにしたがひて書 くを、これはさにはあらで、上達部などの、また、はじめてまゐらむと申さす る人のむすめなどには、心ことに紙よりはじめてつくろはせ給へるを、あつま りて、たはぶれにもねたがりいふめり。 △琴・笛など習ふ△またさこそは、まだしきほどは、これがやうにいつしかと おぼゆらめ。 △内裏・春宮の御乳母。上の女房の、御方々いづこもおぼつかなからずまゐり 通ふ。 【一五九】△とくゆかしきもの△卷染・むら濃・くくり物など染めたる。人の兒 産みたるに、男女、とく聞かまほし。よき人さらなり、えせ者、下衆の際だに なほゆかし。 △除目のつとめて。かならず知る人のさるべきなきをりも、なほ聞かまほし。 【一六〇】△心もとなきもの△人のもとにとみの物縫ひにやりて、いまいまとく るしうゐ入りて、あなたをまもらへたる心地。子産むべき人の、そのほど過ぐ るまでさるけしきもなき。遠き所より思ふ人の文を得て、かたく封じたる續飯 などあくるほど、いと心もとなし。 △物見におそくいでて、ことなりにけり、しろきしもとなどみつけたるに、ち かくやり寄するほど、わびしう、下りてもいぬべき心地こそすれ。 △知られじと思ふ人のあるに、前なる人に教へて物いはせたる。いつしかと待 ちいでたるちごの、五十日・百日などのほどになりたる、行くすゑいと心もと なし。 △とみのもの縫ふに、なま暗うて針に絲すぐる。されど、それはさるものにて ありぬべき所をとらへて、人にすげさするに、それも急げばにやあらん、とみ にもさし入れぬを、「いで、ただなすげそ」といふを、さすがになどてかと思 ひ顏にえ去らぬ、にくささへそひたり。 △なに事にもあれ、急ぎてものへいくべきをりに、まづ我さるべき所へいくと て、ただいまおこせんとて出でぬる車待つほどこそ、いと心もとなけれ。大路 いきけるを、さななりとよろこびたれば、外ざまにいぬる、いとくちをし。ま いて、物見にいでんとてあるに、「ことはなりぬらん」と、人のいひたるを聞 くこそわびしけれ。 △子産みたる後の事のひさしき。物見・寺詣などに、もろともにあるべき人を 乘せにいきたるに、車をさし寄せて、とみにも乘らで待たするも、いと心もと なく、うち捨てても往ぬべき心地ぞする。 △また、とみにていり炭おこすも、いとひさし。人の歌の返しとくすべきを、 え詠み得ぬほども心もとなし。懸想人などはさしも急ぐまじけれど、おのづか らまたさるべきをりもあり。まして、女も、ただにいひかはすことは、ときこ そはと思ふほどに、あいなくひがごともあるぞかし。 △心地のあしく、もののおそろしきをり、夜のあくるほど、いと心もとなし。 【一六一】△故殿の御服のころ、六月のつごもりの日、大祓といふことにて、宮 の出でさせ給ふべきを、職の御曹子を方あしとて、官の司の朝所にわたらせ給 へり。その夜さり、暑くわりなき闇にて、なにともおぼえず、せばくおぼつか なくてあかしつ。 △つとめて、見れば、屋のさまいとひらにみじかく、瓦ぶきにて、唐めき、さ まことなり。例のやうに格子などもなく、めぐりて御簾ばかりをぞかけたる、 なかなかめづらしくてをかしければ、女房、庭に下りなどしてあそぶ。前栽に 萱草といふ草を、ませ結ひていとおほく植ゑたりける。花のきはやかにふさな りて咲きたる、むべむべしき所の前栽にはいとよし。時司などは、ただかたは らにて、皷の音も例のには似ずぞ聞ゆるを、ゆかしがりて、わかき人々廿人ば かり、そなたにいきて、階よりたかき屋にのぼりたるを、これより見あぐれば、 あるかぎり薄鈍の裳・唐衣、おなじ色の單襲、くれなゐの袴どもを着てのぼり たるは、いと天人などこそえいふまじけれど、空より降りたるにやとぞ見ゆる。 おなじわかきなれど、おしあげたる人は、えまじらで、うらやましげに見あげ たるも、いとをかし。 △左衞門の陣までいきて、倒れさわぎたるもあめりしを、「かくはせぬことな り。上達部のつき給ふ倚子などに女房どものぼり、上官などのゐる床子どもを、 みなうち倒し、そこなひたり」などくすしがる者どもあれど、聞きも入れず。 △屋のいとふるくて、瓦ぶきなればにやあらん、暑さの世に知らねば、御簾の 外にぞ夜も出で來、臥したる。ふるき所なれば、むかでといふもの、日ひと日 おちかかり、蜂の巣のおほきにて、つき集まりたるなどぞ、いとおそろしき。 △殿上人日ごとにまゐり、夜も居あかしてものいふをききて、「豈はかりきや、 太政官の地の今やかうの庭とならんことを」と誦しいでたりしこそをかしかり しか。 △秋になりたれど、かたへだにすずしからぬ風の、所がらなめり、さすがに蟲 の聲など聞えたり。八日ぞ歸らせ給ひければ、七夕祭、ここにては例よりも近 う見ゆるは、ほどのせばければなめり。 △宰相の中將齊信・宣方の中將・道方の少納言などまゐり給へるに、人々出で てものなどいふに、ついでもなく、「明日はいかなることをか」といふに、い ささか思ひまはしとどこほりもなく、「「人間の四月」をこそは」といらへ給へ るがいみじうをかしきこそ。過ぎにたることなれども、心得ていふは誰もをか しき中に、女などこそさやうの物忘れはせね、男はさしもあらず、よみたる歌 などをだになまおぼえなるものを、まことにをかし。内なる人も外なるも、心 得ずと思ひたるぞことわりなる。 △この四月のついたちごろ、細殿の四の口に殿上人あまた立てり。やうやうす べり失せなどして、ただ頭の中將・源中將・六位一人のこりて、よろづのこと いひ、經讀み、歌うたひなどするに、「明けはてぬなり。歸りなむ」とて、「露 は別れの涙なるべし」といふことを頭の中將のうちいだし給へれば、源中將も もろともにいとをかしく誦じたるに、「いそぎける七夕かな」といふを、いみ じうねたがりて、「ただあかつきの別れ一すぢを、ふとおぼえつるままにいひ て、わびしうもあるかな。すべて、このわたりにて、かかること思ひまはさず いふは、くちをしきぞかし」など、返す返すわらひて、「人にな語り給ひそ。 かならずわらはれなん」といひて、あまりあかうなりしかば、「葛城の神、い まぞずちなき」とて、逃げおはしにしを、七夕のをりにこの事をいひいでばや と思ひしかど、宰相になり給ひにしかば、かならずしもいかでかは、そのほど に見つけなどもせん、文かきて、主殿司してもやらんなど思ひしを、七日にま ゐり給へりしかば、いとうれしくて、その夜の事などいひ出でば、心もぞ得給 ふ、ただすずろにふといひたらば、あやしなどやうちかたぶき給ふ、さらば、 それにをありしことをばいはん、とてあるに、つゆおぼめかでいらへ給へりし は、まことにいみじうをかしかりき。 △月ごろいつしかとおもほえたりしだに、わが心ながらすきずきしとおぼえし に、いかでさ思ひまうけたるやうにのたまひけん。もろともにねたがりいひし 中將は、おもひもよらでゐたるに、「ありしあかつきのこといましめらるるは。 知らぬか」とのたまふにぞ、「げに、げに」とわらふめる、わろしかし。 △人と物いふことを碁になして、近う語らひなどしつるをば、「手ゆるしてけ り」「結さしつ」などいひ、「男は手受けむ」などいふことを人はえ知らず、こ の君と心得ていふを、「なにぞ、なにぞ」と源中將は添ひつきていへど、いは ねば、かの君に、「いみじう、なほこれのたまへ」とうらみられて、よきなか なれば聞かせてけり。あへなく近くなりぬるをば、「おしこぼちのほどぞ」な どいふ。我も知りにけりといつしか知られむとて、「碁盤侍りや。まろと碁う たんとなん思ふ。手はいかが。ゆるし給はんとする。頭の中將とひとし碁なり。 なおぼしわきそ」といふに、「さのみあらば、さだめなくや」といひしを、ま たかの君に語りきこえければ、「うれしういひたり」とよろこび給ひし。なほ 過ぎにたる事忘れぬ人は、いとをかし。 △宰相になり給ひしころ、上の御前にて、「詩をいとをかしう誦じ侍るものを。 「蕭會稽之過古廟」なども誰かいひ侍らむとする。しばしならでもさぶら へかし。くちをしきに」と申ししかば、いみじうわらはせ給ひて、「さなんい ふとて、なさじかし」などおほせられしもをかし。されど、なり給ひにしかば、 まことにさうざうしかりしに、源中將おとらず思ひて、ゆゑだち遊びありくに、 宰相の中將の御うへをいひいでて、「「未だ三十の期に及ばず」といふ詩を、さ らにこと人に似ず誦じ給ひし」などいへば、「などてかそれにおとらん。まさ りてこそせめ」とてよむに、「さらに似るべくだにあらず」といへば、「わびし のことや。いかであれがやうに誦ぜん」とのたまふを、「「三十の期」といふ所 なん、すべていみじう愛敬づきたりし」などいへば、ねたがりてわらひありく に、陣につき給へりけるを、わきによび出でて、「かうなむいふ。なほそこも と教へ給へ」とのたまひければ、わらひて教へけるも知らぬに、局のもとにき ていみじうよく似せてよむに、あやしくて、「こは誰そ」と問へば、笑みたる 聲になりて、「いみじきことを聞えん。かうかう、昨日陣につきたりしに、問 ひ聞きたるに、まづ似たるななり。「誰ぞ」とにくからぬけしきにて問ひ給ふ は」といふも、わざとならひ給ひけむがをかしければ、これだに誦ずれば出で てものなどいふを、「宰相の中將の徳を見ること。その方に向ひて拜むべし」 などいふ。下にありながら、「上に」などいはするに、これをうち出づれば、 「まことはあり」などいふ。御前にも、かくなど申せば、わらはせ給ふ。 △内裏の御物忌なる日、右近の將監みつなにとかやいふ者して、疊紙にかきて おこせたるを見れば、「參ぜむとするを、今日明日の御物忌にてなん。「三十の 期に及ばず」はいかが」といひたれば、返りごとに、「その期は過ぎ給ひにた らん。朱買臣が妻を教へけん年にはしも」とかきてやりたりしを、またねたが りて、上の御前にも奏しければ、宮の御方にわたらせ給ひて、「いかでさる事 は知りしぞ。「三十九なりける年こそ、さはいましめけれ」とて、宣方は「い みじういはれにたり」といふめるは」と仰せられしこそ、ものぐるほしかりけ る君とこそおぼえしか。 【一六二】△弘徽殿とは閑院の左大將の女御をぞきこゆる。その御方にうちふし といふ者のむすめ、左京といひてさぶらひけるを、「源中將語らひてなん」と 人々わらふ。 △宮の職におはしまいしにまゐりて、「時々は宿直なども仕うまつるべけれど、 さべきさまに女房などももてなし給はねば、いと宮仕おろかにさぶらふこと。 宿直所をだに賜りたらば、いみじうまめにさぶらひなん」といひゐ給へれば、 人々、「げに」などいらふるに、「まことに人は、うちふしやすむ所のあるこそ よけれ。さるあたりには、しげうまゐり給ふなるものを」とさしいらへたりと て、「すべて、もの聞えじ。方人とたのみきこゆれば、人のいひふるしたるさ まにとりなし給ふなめり」など、いみじうまめだちて怨じ給ふを、「あな、あ やし。いかなることをか聞えつる。さらに聞きとがめ給ふべきことなし」など いふ。かたはらなる人をひきゆるがせば、「さるべきこともなきを、ほとほり いで給ふ、やうこそはあらめ」とて、はなやかにわらふに、「これもかのいは せ給ふならん」とて、いとものしと思ひ給へり。「さらにさやうのことをなん いひ侍らぬ。人のいふだににくきものを」といらへて、引き入りにしかば、後 にもなほ、「人に恥ぢがましきこといひつけたり」とうらみて、「殿上人わらふ とて、いひたるなめり」とのたまへば、「さては、一人をうらみ給ふべきこと にもあらざなるに、あやし」といへば、その後はたえてやみ給ひにけり。 【一六三】△むかしおぼえて不用なるもの△繧繝縁の疊のふし出で來たる。唐繪 の屏風の黒み、おもてそこなはれたる。繪師の目暗き。七八尺の鬘のあかくな りたる。葡萄染の織物、灰かへりたる。色好みの老いくづほれたる。 △おもしろき家の木立燒け失せたる。池などはさながらあれど、浮き草・水草 など茂りて。 【一六四】△たのもしげなきもの△心みじかく、人忘れがちなる婿の、つねに夜 離れする。そらごとする人の、さすがに人のことなし顏にて大事請けたる。 △風はやきに帆かけたる舟。七八十ばかりなる人の、心地あしうて、日頃にな りたる。 【一六五】△讀經は不斷經。 【一六六】△近うて遠きもの△宮のまへの祭思はぬ。はらから・親族の中。鞍馬 のつづらをりといふ道。十二月のつごもりの日、正月のついたちの日のほど。 【一六七】△遠くて近きもの△極樂。舟の道。人の中。 【一六八】△井は△ほりかねの井。玉の井。走り井は逢坂なるがをかしきなり。 山の井、などさしもあさきためしになりはじめけん。飛鳥井は「みもひもさむ し」とほめたるこそをかしけれ。千貫の井。少將の井。櫻井。后町の井。 【一六九】△野は△嵯峨野さらなり。印南野。交野。駒野。飛火野。しめし野。 春日野。そうけ野こそすずろにをかしけれ。などてさつけけむ。宮城野。粟津 野。小野。紫野。 【一七〇】△上達部は△左大將。右大將。春宮の大夫。權大納言。權中納言。宰 相の中將。三位の中將。 【一七一】△君達は△頭の中將。頭の辨。權中將。四位の少將。藏人の辨。四位 の侍從。藏人の少納言。藏人の兵衞佐。 【一七二】△受領は△伊豫の守。紀伊の守。和泉の守。大和の守。 【一七三】△權の守は△甲斐。越後。筑後。阿波。 【一七四】△大夫は△式部の大夫。左衞門の大夫。右衞門の大夫。 【一七五】△法師は△律師。内供。 【一七六】△女は△内侍のすけ。内侍。 【一七七】△六位の藏人などは、思ひかくべきことにもあらず。かうぶり得て、 何の權の守、大夫などいふ人の、板屋などの狹き家持たりて、また、小桧垣な どいふもの新しくして、車宿に車ひき立て、前近く一尺ばかりなる木生して、 牛つなぎて草など飼はするこそいとにくけれ。 △庭いときよげに掃き、紫革して伊豫簾かけわたし、布障子はらせて住まひ たる。夜は「門強くさせ」など、ことおこなひたる、いみじう生ひ先なう、心 づきなし。 △親の家、舅はさらなり、をぢ・兄などの住まぬ家、そのさべき人なからんは おのづから、むつまじくうち知りたらん受領の國へいきていたづらならむ、さ らずは、院・宮ばらの屋あまたあるに、住みなどして、司侍ち出でてのち、い つしかよき所たづねとりて住みたるこそよけれ。 【一七八】△女のひとりすむ所は、いたくあばれて築土などもまたからず、池な どある所も水草ゐ、庭なども蓬にしげりなどこそせねども、ところどころすな ごの中より青き草うち見え、さびしげなるこそあはれなれ。ものかしこげに、 なだらかに修理して、門いたく固め、きはぎはしきは、いとうたてこそおぼゆ れ。 【一七九】△宮仕人の里なども、親ども二人あるはいとよし。人しげく出で入 り、奧のかたにあまた聲々さまざま聞え、馬の音などして、いとさわがしきま であれど、とがもなし。されど、忍びてもあらはれても、おのづから、「出で給 ひにけるをえしらで」とも、また、「いつかまゐり給ふ」などいひに、さしの ぞき來るもあり。 △心かけたる人、はたいかがは。門あけなどするを、うたてさわがしうおほや うげに、夜中までなど思ひたるけしき、いとにくし。「大御門はさしつや」な ど問ふなれば、「いま。まだ人のおはすれば」などいふものの、なまふせがし げに思ひていらふるにも、「人出で給ひなば、とくさせ。このごろ盜人いとお ほかなり。火あやふし」などいひたるが、いとむつかしう、うち、聞く人だにあ り。 △この人の供なる者どもはわびぬにやあらん、この客いまや出づると絶えずさ しのぞきてけしき見る者どもをわらふべかめり。まねうちするを聞かば、まし ていかにきびしくいひとがめむ。いと色にいでていはぬも、思ふ心なき人は、 かならず來などやはする。されど、すくよかなるは、「夜ふけぬ。御門あやふ かなり」などわらひて出でぬるもあり。まことに心ざしことなる人は、「はや」 などあまたたび遣らはるれど、なほゐ明かせば、たびたび見ありくに、明けぬ べきけしきを、いとめづらかに思ひて、「いみじう、御門を今宵らいさうとあ けひろげて」と聞えごちて、あぢきなく曉にぞさすなるは、いかがはにくきを。 親添ひぬる、なほさぞある。まいて、まことのならぬは、いかに思ふらむとさ へつつまし。せうとの家なども、けにくきはさぞあらむ。 △夜中曉ともなく、門もいと心かしこうももてなさず、なにの宮、内裏わた り、殿ばらなる人々も出であひなどして、格子などもあげながら冬の夜をゐ明 かして、人の出でぬるのちも見いだしたるこそをかしけれ。有明などは、まし ていとめでたし。笛など吹きて出でぬる名殘は、いそぎてもねられず、人のう へどもいひあはせて歌など語り聞くままに、寢入りぬるこそをかしけれ。 【一八〇】△「ある所になにの君とかやいひける人のもとに、君達にはあらねど、 そのころいたうすいたるものにいはれ、心ばせなどある人の、九月ばかりにい きて、有明のいみじう霧りみちておもしろきに、名殘思ひいでられんとことば をつくして出づるに、いまは往ぬらむと遠く見送るほど、えもいはずえんなり。 出づるかたを見せてたちかへり、立蔀の間に陰にそひて立ちて、なほいきやら ぬさまに、いまひとたびいひ知らせんと思ふに、「有明の月のありつつも」と、 しのびやかにうちいひてさしのぞきたる、髮の頭にもより來ず、五寸ばかり下 りて、火をさしともしたるやうなりけるに、月の光もよほされて、おどろかる る心地しければ、やをら出でにけり」とこそ語りしか。 【一八一】△雪のいと高うはあらで、うすらかに降りたるなどは、いとこそをか しけれ。 △また、雪のいと高う降りつもりたる夕暮より、端近う、おなじ心なる人二三 人ばかり、火桶を中にすゑて物語などするほどに、暗うなりぬれど、こなたに は火もともさぬに、おほかたの雪の光いとしろう見えたるに、火箸して灰など 掻きすさみて、あはれなるもをかしきもいひあはせたるこそをかしけれ。 △宵もや過ぎぬらむと思ふほどに、沓の音近う聞ゆれば、あやしと見いだした るに、時々かやうのをりに、おぼえなく見ゆる人なりけり。「今日の雪を、い かにと思ひやりきこえながら、なでふ事にさはりて、その所にくらしつる」な どいふ。「今日來ん」などやうのすぢをぞいふらむかし。晝ありつることども などうちはじめて、よろづのことをいふ。圓座ばかりさし出でたれど、片つか たの足は下ながらあるに、鐘の音なども聞ゆるまで、内にも外にも、このいふ ことはあかずぞおぼゆる。 △あけぐれのほどに歸るとて、「雪なにの山に滿てり」と誦したるは、いとを かしきものなり。女の限りしては、さもえゐ明かさざらましを、ただなるより はをかしう、すきたるありさまなどいひあはせたり。 【一八二】△村上の前帝の御時に、雪のいみじう降りたりけるを、樣器に盛らせ 給ひて、梅の花をさして、月のいと明かきに、「これに歌よめ。いかがいふべ き」と、兵衞の藏人に賜はせたりければ、「雪月花の時」と奏したりけるをこ そ、いみじうめでさせ給ひけれ。「歌などよむは世の常なり。かくをりにあひ たることなんいひがたき」とぞ仰せられける。 △おなじ人を御供にて、殿上に人さぶらはざりけるほど、たたずませ給ひける に、炭櫃にけぶりの立ちければ、「かれはなにぞと見よ」と仰せられければ、 見て歸りまゐりて、 △△わたつ海の沖にこがるる物みればあまの釣してかへるなりけり と奏しけるこそをかしけれ。蛙の飛び入りて燒くるなりけり。 【一八三】△御形の宣旨の、上に、五寸ばかりなる殿上童のいとをかしげなるを 作りて、みづら結ひ、裝束などうるはしくして、なかに名かきて、たてまつら せ給ひけるを、「ともあきらの大君」とかいたりけるを、いみじうこそ興ぜさ せ給ひけれ。 【一八四】△宮にはじめてまゐりたるころ、もののはづかしきことの數知らず、 涙も落ちぬべければ、夜々まゐりて、三尺の御几帳のうしろにさぶらふに、繪 などとり出でて見せさせ給ふを、手にてもえさし出づまじうわりなし。「これ は、とあり、かかり。それが、かれが」などのたまはす。高坏にまゐらせたる 御殿油なれば、髮の筋なども、なかなか晝よりも顯證にみえてまばゆけれど、 念じて見などす。いとつめたきころなれば、さし出でさせ給へる御手のはつか に見ゆるが、いみじうにほひたる薄紅梅なるは、かぎりなくめでたしと、見知 らぬ里人心地には、かかる人こそは世におはしましけれと、おどろかるるまで ぞまもりまゐらする。 △曉にはとく下りなんといそがるる。「葛城の神もしばし」など仰せらるるを、 いかでかはすぢかひ御覽ぜられんとて、なほ伏したれば、御格子もまゐらず。 女官どもまゐりて、「これ、はなたせ給へ」などいふを聞きて、女房のはな つを、「まな」と仰せらるれば、わらひて歸りぬ。 △ものなど問はせ給ひ、のたまはするに、ひさしうなりぬれば、「下りまほし うなりにたらむ。さらば、はや。夜さりはとく」と仰せらる。 △ゐざりかへるにやおそきとあげちらしたるに、雪降りにけり。登花殿の御前 は立蔀ちかくてせばし。雪いとをかし。 △晝つかた、「今日はなほまゐれ。雪にくもりてあらはにもあるまじ」など、 度々召せば、この局の主も、「見ぐるし。さのみやはこもりたらんとする。あ へなきまで御前ゆるされたるは、さ思しめすやうこそあらめ。思ふにたがふは にくきものぞ」と、ただいそがしにいだしたつれば、あれにもあらぬ心地すれ ど、まゐるぞいと苦しき。火燒屋のうへに降りつみたるもめづらしうをかし。 △御前ちかくは、例の炭櫃に火こちたくおこして、それにはわざと人もゐず。 上臈御まかなひにさぶらひ給ひけるままに、ちかうゐ給へり。沈の御火桶の梨 繪したるにおはします。次の間に長炭櫃にひまなくゐたる人々、唐衣こき垂れ たるほどなど、馴れやすらかなるを見るも、いとうらやまし。御文とりつぎ、 たちゐ、いきちがふさまなどのつつましげならず、ものいひ、笑わらふ。いつ の世にか、さやうにまじらひならむと思ふさへぞつつましき。奧寄りて三四人 さしつどひて繪など見るもあめり。 △しばしありて、前驅たかう追ふ聲すれば、「殿まゐらせ給ふなり」とて、散 りたるものとりやりなどするに、いかでおりなんと思へど、さらにえふとも身 じろかねば、いますこし奧にひき入りて、さすがにゆかしきなめり、御几帳の ほころびよりはつかに見入れたり。 △大納言殿のまゐり給へるなりけり。御直衣、指貫の紫の色、雪にはえていみ じうをかし。柱もとにゐ給ひて、「昨日今日、物忌に侍りつれど、雪のいたく ふり侍りつれば、おぼつかなさになん」と申し給ふ。「道もなしと思ひつるに、 いかで」とぞ御いらへある。うちわらひ給ひて、「あはれともや御覽ずるとて」 などのたまふ、御ありさまども、これよりなにごとかはまさらん。物語にいみ じう口にまかせていひたるにたがはざめりとおぼゆ。 △宮は、しろき御衣どもにくれなゐの唐綾をぞ上にたてまつりたる。御髮のか からせ給へるなど、繪にかきたるをこそかかることは見しに、うつつにはまだ 知らぬを、夢の心地ぞする。女房と物いひ、たはぶれごとなどし給ふ。御いら へを、いささかはづかしとも思ひたらず聞え返し、そら言などのたまふは、あ らがひ論じなどきこゆるは、目もあやに、あさましきまであいなう、おもてぞ あかむや。御くだ物まゐりなどとりはやして、御前にもまゐらせ給ふ。 △「御帳のうしろなるは誰ぞ」と問ひ給ふなるべし。さかすにこそはあらめ、 立ちておはするを、なほほかへにやと思ふに、いと近うゐ給ひて、ものなどの たまふ。まだまゐらざりしより聞きおき給ひけることなど、「まことにや、さ ありし」などのたまふに、御几帳へだてて、よそに見やりたてまつりつるだに はづかしかりつるに、いとあさましう、さしむかひきこえたる心地、うつつと もおぼえず。行幸など見るをり、車のかたにいささかも見おこせ給へば、下簾 ひきふたぎて、透影もやと扇をさしかくすに、なほいとわが心ながらもおほけ なく、いかで立ちいでしにかと汗あえていみじきには、なにごとをかはいらへ もきこえむ。 △かしこき陰とささげたる扇をさへとり給へるに、ふりかくべき髮のおぼえさ へあやしからんと思ふに、すべて、さるけしきもこそは見ゆらめ。とく立ち給 はなんと思へど、扇を手まさぐりにして、繪のこと、「誰がかかせたるぞ」な どのたまひて、とみにも賜はねば、袖をおしあててうつぶしゐたり、裳・唐衣 にしろいものうつりて、まだらならんかし。 △ひさしくゐ給へるを、心なう、苦しと思ひたらんと心得させ給へるにや、「こ れ見給へ。これは誰が手ぞ」と聞えさせ給ふを、「賜はりて見侍らむ」と申し 給ふを、なほ、「ここへ」とのたまはす。「人をとらへて立て侍らぬなり」との たまふも、いといまめかしく、身のほどにあはず、かたはらいたし。人の草假 名書きたる草子など、とりいでて御覽ず。「誰がにかあらん。かれに見せさせ 給へ。それぞ世にある人の手はみな見知りて侍らん」など、ただいらへさせん と、あやしきことどもをのたまふ。 △ひと所だにあるに、また前驅うち追はせて、おなじ直衣の人まゐり給ひて、 これはいますこしはなやぎ、さるがう言などし給ふを、わらひ興じ、我も「な にがしが、とあること」など、殿上人のうへなど申し給ふを聞くは、なほ變化 の者、天人などの下りきたるにやとおぼえしを、さぶらひ馴れ、日ごろ過ぐれ ば、いとさしもあらぬわざにこそはありけれ。かく見る人々もみな家のうち出 でそめけむほどは、さこそはおぼえけめなど、觀じもてゆくに、おのづから面 馴れぬべし。 △ものなど仰せられて、「我をば思ふや」と問はせ給ふ、御いらへに、「いかが は」と啓するにあはせて、臺盤所のかたに、はなをいと高うひたれば、「あな、 心憂。そら言をいふなりけり。よし、よし」とて、奧へ入らせ給ひぬ。いかで かそら言にはあらん。よろしうだに思ひきこえさすべきことかは。あさましう、 はなこそそら言はしけれ、と思ふ。さても誰か、かくにくきわざはしつらむ、 おほかた心づきなしとおぼゆれば、さるをりもおしひしぎつつあるものを、ま いていみじ、にくしと思へど、まだうひうひしければ、ともかくもえ啓しかへ さで、明けぬればおりたる、すなはち、淺緑なる薄樣にえんなる文を、「これ」 とて來たる、あけて見れば、 △△「「いかにしていかに知らましいつはりを空にただすの神なかりせば」 となん御けしきは」とあるに、めでたくもくちをしうも思ひみだるるにも、な ほ昨夜の人ぞねたくにくままほしき。 △△「うすさ濃さそれにもよらぬはなゆゑに憂き身のほどを見るぞわびしき なほこればかり啓し直させ給へ。式の神もおのづから。いとかしこし」とて、 まゐらせてのちにも、うたてをりしも、などてさはたありけんと、いとなげか し。 【一八五】△したり顏なるもの△正月一日に最初にはなひたる人。よろしき人は さしもなし。下臈よ。きしろふたびの藏人に子なしたる人のけしき。また、除 目にその年の一の國得たる人。よろこびなどいひて、「いとかしこうなり給へ り」などいふいらへに、「なにかは。いとこと樣にほろびて侍るなれば」など いふも、いとしたり顏なり。 △また、いふ人おほく、いどみたる中に、選りて婿になりたるも、我はと思ひ ぬべし。受領したる人の宰相になりたるこそ、もとの君たちのなりあがりたる よりもしたり顏にけだかう、いみじうは思ひためれ。 【一八六】△位こそ猶めでたき物はあれ。おなじ人ながら、大夫の君、侍從の 君など聞ゆるをりは、いとあなづりやすきものを、中納言・大納言・大臣な どになり給ひては、むげにせくかたもなく、やむごとなうおぼえ給ふことの こよなさよ。程々につけては、受領などもみなさこそはあめれ。あまた國にい き、大貳や四位・三位などになりぬれば、上達部などもやむごとながり給ふめ り。 △女こそなほわろけれ。内裏わたりに、御乳母は内侍のすけ、三位などになり ぬればおもおもしけれど、さりとて程より過ぎ、なにばかりのことかはある。 また、おほくやはある。受領の北の方にて國へくだるをこそは、よろしき人の さいはひの際と思ひてめでうらやむめれ。ただ人の上達部の北の方になり、上 達部の御むすめ后にゐ給ふこそは、めでたきことなめれ。 △されど、男はなほわかき身のなりいづるぞいとめでたきかし。法師などのな にがしなどいひてありくは、なにとかは見ゆる。經たふとくよみ、みめきよげ なるにつけても、女房にあなづられてなりかかりこそすめれ。僧都・僧正にな りぬれば、佛のあらはれ給へるやうに、おぢまどひかしこまるさまは、なにに か似たる。 【一八七】△かしこきものは、乳母のをとここそあれ。帝・親王たちなどは、さ るものにておきたてまつりつ。そのつぎつぎ、受領の家などにも、所につけた るおぼえわづらはしきものにしたれば、したり顏に、わが心地もいとよせあり て、このやしなひたる子をも、むげにわがものになして、女はされどあり、男 兒はつとたちそひてうしろ見、いささかもかの御ことにたがふ者をばつめたて、 讒言し、あしけれど、これが世をば心にまかせていふ人もなければ、ところ得、 いみじき面持ちして、こと行ひなどす。 △むげにをさなきほどぞすこし人わろき。親の前に臥すれば、ひとり局に臥し たり。さりとてほかへいけば、こと心ありとてさわがれぬべし。強ひて呼びお ろして臥したるに、「まづまづ」と呼ばるれば、冬の夜など、ひきさがしひき さがしのぼりぬるがいとわびしきなり。それはよき所もおなじこと、いますこ しわづらはしきことのみこそあれ。 【一八八】△病は△胸。もののけ。あしのけ。はては、ただそこはかとなくて物 食はれぬ心地。 【一八九】△十八九ばかりの人の、髮いとうるはしくてたけばかりに、裾いとふ さやかなる、いとよう肥えて、いみじう色しろう、顏愛敬づき、よしと見ゆる が、齒をいみじう病みて、額髮もしとどに泣きぬらし、みだれかかるも知らず、 おもてもいとあかくて、おさへてゐたるこそいとをかしけれ。 【一九〇】△八月ばかりに、白き單なよらかなるに、袴よきほどにて、紫苑の衣 のいとあてやかなるをひきかけて、胸をいみじう病めば、友だちの女房など、 數々來つつとぶらひ、外のかたにも、わかやかなる君達あまた來て、「いとい とほしきわざかな。例もかうや惱み給ふ」など、ことなしびにいふもあり。心 かけたる人は、まことにいとほしと思ひなげき、人知れぬなかなどは、まして 人目思ひて、寄るにも近くもえ寄らず、思ひなげきたるこそをかしけれ。いと うるはしう長き髮をひき結ひて、ものつくとて起きあがりたるけしきもらうた げなり。 △上にもきこしめして、御讀經の僧の聲よき賜はせたれば、几帳ひきよせてす ゑたり。ほどもなきせばさなれば、とぶらひ人あまたきて、經聞きなどするも かくれなきに、目をくばりて讀みゐたるこそ、罪や得らむとおぼゆれ。 【一九一】△すきずきしくてひとり住みする人の、夜はいづくにかありつらん、 曉に歸りて、やがて起きたる、ねぶたげなるけしきなれど、硯とりよせて墨 こまやかにおしすりて、ことなしびに筆にまかせてなどはあらず、心とどめて 書く、まひろげ姿もをかしう見ゆ。 △しろき衣どものうへに、山吹・紅などぞ着たる。しろき單のいたうしぼみた るを、うちまもりつつ書きはてて、前なる人にもとらせず、わざと立ちて、小 舍人童、つきづきしき隨身など近う呼びよせて、ささめきとらせて、往ぬるの ちもひさしうながめて、經などのさるべきところどころ、しのびやかに口ずさ びに讀みゐたるに、奧のかたに御粥・手水などしてそそのかせば、あゆみ入り ても、文机におしかかりて書などをぞ見る。おもしろかりける所は高ううち誦 したるも、いとをかし。 △手洗ひて、直衣ばかりうち着て、六の卷そらに讀む、まことにたふときほど に、近き所なるべし、ありつる使うちけしきばめば、ふと讀みさして、返りご とに心移すこそ、罪得らんとをかしけれ。 【一九二】△いみじう暑き晝中に、いかなるわざをせんと、扇の風もぬるし、氷 水に手をひたし、もてさわぐほどに、こちたう赤き薄樣を、唐撫子のいみじう 咲きたるに結びつけて、とり入れたるこそ、書きつらんほどの暑さ、心ざしの ほど淺からずおしはかられて、かつ使ひつるだにあかずおぼゆる扇もうち置か れぬれ。 【一九三】△南ならずは東の廂の板の、かげ見ゆばかりなるに、あざやかなる疊 をうち置きて、三尺の几帳の帷子いと涼しげに見えたるをおしやれば、ながれ て思ふほどよりも過ぎて立てるに、しろき生絹の單、紅の袴、宿直物には、濃 き衣のいたうは萎えぬを、すこしひきかけて臥したり。 △燈篭に火ともしたる、二間ばかりさりて、簾高うあげて、女房二人ばかり、 童など、長押によりかかり、また、おろいたる簾にそひて臥したるもあり。火 取に火深う埋みて、心ぼそげににほはしたるも、いとのどやかに、心にくし。 △宵うち過ぐるほどに、しのびやかに門たたく音のすれば、例の心知りの人來 て、けしきばみ立ちかくし、人まもりて入れたるこそ、さるかたにをかしけれ。 △かたはらにいとよく鳴る琵琶のをかしげなるがあるを、物語のひまひまに、 音もたてず。爪彈きにかき鳴らしたるこそをかしけれ。 【一九四】△大路近なる所にて聞けば、車に乘りたる人の、有明のをかしきに簾 あげて、「遊子なほ殘りの月に行く」といふ詩を、聲よくて誦したるもをかし。 △馬にても、さやうの人の行くはをかし。さやうの所にて聞くに、泥障の音の 聞ゆるを、いかなる者ならんと、するわざもうち置きて見るに、あやしの者を 見つけたる、いとねたし。 【一九五】△ふと心おとりとかするものは、男も女もことばの文字いやしう遣ひ たるこそ、よろづのことよりまさりてわろけれ。ただ文字一つにあやしう、あ てにもいやしうもなるは、いかなるにかあらん。さるは、かう思ふ人、ことに すぐれてもあらじかし。いづれをよしあしと知るにかは。されど、人をば知ら じ、ただ心地にさおぼゆるなり。 △いやしきこともわろきことも、さと知りながらことさらにいひたるは、あし うもあらず。我がもてつけたるをつつみなくいひたるは、あさましきわざなり。 また、さもあるまじき老いたる人、男などの、わざとつくろひひなびたるはに くし。まさなきこともあやしきことも、大人なるはまのもなくいひたるを、わ かき人はいみじうかたはらいたきことに聞き入りたるこそ、さるべきことなれ。 △なに事をいひても、「そのことさせんとす」「いはんとす」「なにとせんとす」 といふと文字をうしなひて、ただ「いはむずる」「里へいでんずる」などいへ ば、やがていとわろし。まいて文にかいてはいふべきにもあらず。物語などこ そ、あしう書きなしつれば、いふかひなく、作り人さへいとほしけれ。「ひて つ車に」といひし人もありき。「もとむ」といふことを「みとむ」なんどは、 みないふめり。 【一九六】△宮仕人のもとに來などする男の、そこにて物食ふこそいとわろけ れ。食はする人も、いとにくし。思はん人の、「なほ」など心ざしありていはん を、忌みたらんやうに口をふたぎ、顏をもてのくべきことにもあらねば、食ひ をるにこそはあらめ。いみじう醉ひて、わりなく夜ふけてとまりたりとも、さ らに湯漬をだに食はせじ。心もなかりけりとて來ずは、さてありなん。 △里などにて、北面よりいだしては、いかがはせん。それだになほぞある。 【一九七】△風は△嵐。三月ばかりの夕暮にゆるく吹きたる雨風。 【一九八】△八九月ばかりに雨にまじりて吹きたる風、いとあはれなり。雨の脚 横さまにさわがしう吹きたるに、夏とほしたる綿衣のかかりたるを、生絹の單 衣かさねて着たるも、いとをかし。この生絹だにいと所せく暑かはしく、とり 捨てまほしかりしに、いつのほどにかくなりぬるにか、と思ふもをかし。曉に 格子・妻戸をおしあけたれば、嵐のさと顏にしみたるこそ、いみじくをかしけ れ。 【一九九】△九月つごもり、十月のころ、空うち曇りて風のいとさわがしく吹き て、黄なる葉どものほろほろとこぼれ落つる、いとあはれなり。櫻の葉、椋の 葉こそ、いととくは落つれ。 △十月ばかりに、木立おほかる所の庭は、いとめでたし。 【二〇〇】△野分のまたの日こそ、いみじうあはれにをかしけれ。立蔀・透垣な どのみだれたるに、前栽どもいと心くるしげなり。おほきなる木どもも倒れ、 枝など吹き折られたるが、萩・女郎花などのうへによころばひふせる、いと思 はずなり。格子の壷などに、木の葉をことさらにしたらんやうに、こまごまと 吹き入れたるこそ、荒かりつる風のしわざとはおぼえね。 △いと濃き衣のうはぐもりたるに、黄朽葉の織物、薄物などの小袿着て、まこ としうきよげなる人の、夜は風のさわぎに寢られざりければ、ひさしう寢起き たるままに、母屋よりすこしゐざり出でたる、髮は風に吹きまよはされてすこ しうちふくだみたるが、肩にかかれるほど、まことにめでたし。 △ものあはれなるけしきに見いだして、「むべ山風を」などいひたるも、心あ らんと見ゆるに、十七八ばかりやあらん、ちひさうはあらねど、わざと大人と は見えぬが、生絹の單のいみじうほころびたえ、はなもかへりぬれなどしたる、 薄色の宿直物を着て、髮、いろに、こまごまとうるはしう、末も尾花のやうに て丈ばかりなりければ、衣の裾にかくれて、袴のそばそばより見ゆるに、わら はべ、わかき人々の、根ごめに吹き折られたる、ここかしこにとり集め、起し 立てなどするを、うらやましげにおしはりて、簾に添ひたるうしろでもをかし。 【二〇一】△心にくきもの△ものへだてて聞くに、女房とはおぼえぬ手の、しの びやかにをかしげに聞えたるに、こたへわかやかにして、うちそよめきてまゐ るけはひ。もののうしろ、障子などへだてて聞くに、御膳まゐるほどにや、 箸・匙など、とりまぜて鳴りたる、をかし。ひさげの柄の倒れ伏すも、耳こそ とまれ。 △よう打ちたる衣のうへに、さわがしうはあらで、髮の振りやられたる、長さ おしはからる。いみじうしつらひたる所の、大殿油はまゐらで、炭櫃などにい とおほくおこしたる火の光ばかり照りみちたるに、御帳の紐などのつややかに うち見えたる、いとめでたし。御簾の帽額、總角などにあげたる鈎のきはやか なるも、けざやかに見ゆ。よく調じたる火桶の、灰の際きよげにて、おこした る火に、内にかきたる繪などの見えたる、いとをかし。箸のいときはやかにつ やめきて、すぢかひたてるもいとをかし。 △夜いたくふけて、御前にもおほとのごもり、人々みな寢ぬるのち、外のかた に殿上人などのものなどいふ、奧に碁石の笥に入るる音あまたたび聞ゆる、い と心にくし。火箸をしのびやかについ立つるも、まだ起きたりけりと聞くも、 いとをかし。なほい寢ぬ人は心にくし。人の臥したるに、物へだてて聞くに、 夜中ばかりなど、うちおどろきて聞けば、起きたるななりと聞えて、いふこと は聞えず、男もしのびやかにうちわらひたるこそ、なにごとならんとゆかしけ れ。 △また、おはしまし、女房などさぶらふに、上人・内侍のすけなど、はづかし げなる、まゐりたる時、御前ちかく御物語などあるほどは、大殿油も消ちたる に、長炭櫃の火に、もののあやめもよく見ゆ。 △殿ばらなどには、心にくき今參りの、いと御覽ずる際にはあらぬほど、やや 更かしてまうのぼりたるに、うちそよめく衣のおとなひなつかしう、ゐざり出 でて御前にさぶらへば、ものなどほのかに仰せられ、子めかしうつつましげに、 聲のありさま、聞ゆべうだにあらぬほどにいと靜かなり。女房ここかしこにむ れゐつつ、物語うちし、おりのぼる衣のおとなひなど、おどろおどろしからね ど、さななりと聞えたる、いと心にくし。 △内裏の局などに、うちとくまじき人のあれば、こなたの火は消ちたるに、か たはらの光の、ものの上などよりとほりたれば、さすがにもののあやめはほの かに見ゆるに、みじかき几帳ひき寄せて、いと晝はさしも向はぬ人なれば、几 帳のかたに添ひ臥して、うちかたぶきたる頭つきのよさあしさはかくれざめり。 △直衣・指貫など几帳にうちかけたり。六位の藏人の青色もあへなん。緑衫は しも、あとのかたにかいわぐみて、曉にもえ探りつけで、まどはせこそせめ。 △夏も、冬も、几帳の片つかたにうちかけて人の臥したるを、奧のかたよりや をらのぞいたるもいとをかし。 △薫物の香、いと心にくし。 【二〇二】△五月の長雨のころ、上の御局の小戸の簾に、齊信の中將の寄りゐ給 へりし香は、まことにをかしうもありしかな。その物の香ともおぼえず、おほ かた雨にもしめりて、えんなるけしきの、めづらしげなきことなれど、いかで かいはではあらん。またの日まで、御簾にしみかへりたりしを、わかき人など の世にしらず思へる、ことわりなりや。 【二〇三】△ことにきらきらしからぬ男の、たかきみじかきあまたつれだちたる よりも、すこし乘り馴らしたる車のいとつややかなるに、牛飼童、なりいとつ きづきしうて、牛のいたうはやりたるを、童はおくるるやうに綱引かれて遣る。 △ほそやかなる男の、末濃だちたる袴、二藍かなにぞ、髮はいかにもいかにも、 掻練・山吹など着たるが、沓のいとつややかなる、とうのもと近う走りたるは、 なかなか心にくく見ゆ。 【二〇四】△島は△八十島。浮島。たはれ島。繪島。松が浦島。豐浦の島。まが きの島。 【二〇五】△濱は△有度濱。長濱。吹上の濱。打出の濱。もろよせの濱。千里の 濱、廣う思ひやらる。 【二〇六】△浦は△おほの浦。鹽竃の浦。こりずまの浦。名高の浦。 【二〇七】△森は△うへ木の森。岩田の森。木枯の森。うたた寢の森。岩瀬の森。 大荒木の森。たれその森。くるべきの森。立聞の森。 △よこたての森といふが耳とまるこそあやしけれ。森などいふべくもあらず、 ただ一木あるを、なにごとにつけけむ。 【二〇八】△寺は△壷坂。笠置。法輪。靈山は、釋迦佛の御住みかなるがあはれ なるなり。石山。粉河。志賀。 【二〇九】△經は△法華經さらなり。普賢十願。千手經。隨求經。金剛般若。藥 師經。仁王經の下卷。 【二一〇】△佛は△如意輪。千手。すべて六觀音。藥師佛。釋迦佛。彌勒。地藏。 文殊。不動尊。普賢。 【二一一】△書は△文集。文選。新賦。史記。五帝本紀。 願文。表。博士の申文。 【二一二】△物語は△住吉。うつぼ。殿うつり、國ゆづりはにくし。埋れ木。月 待つ女。梅壷の大將。道心すすむる。松が枝。こま野物語は、古蝙蝠さがし 出でて持ていきしがをかしきなり。ものうらやみの中將、宰相に子生ませ、か たみの衣など乞ひたるぞにくき。交野の少將。 【二一三】△陀羅尼はあかつき。經はゆふぐれ。 【二一四】△あそびは夜。人の顏見えぬほど。 【二一五】△あそびわざは△小弓。碁。さまあしけれど、鞠もをかし。 【二一六】△舞は△駿河舞。求子、いとをかし。太平樂、太刀などぞうたてあれ ど、いとおもしろし。唐土に敵どちなどして舞ひけんなど聞くに。 △鳥の舞。拔頭は髮ふりあげたる。まみなどはうとましけれど、樂もなほいと おもしろし。 △落蹲は二人して膝踏みて舞ひたる。こまがた。 【二一七】△彈くものは△琵琶。調べは風香調。黄鐘調。蘇合の急。鴬の囀りと いふ調べ。 箏の琴いとめでたし。調べはさうふれん。 【二一八】△笛は△横笛いみじうをかし。遠うより聞ゆるが、やうやう近うなり ゆくもをかし。近かりつるがはるかになりて、いとほのかに聞ゆるもいとをか し。車にても、徒歩よりも、馬にても、すべて、ふところにさし入れて持たる も、なにとも見えず、さばかりをかしき物はなし。まして聞き知りたる調子な どは、いみじうめでたし。曉などに忘れて、をかしげなる、枕のもとにありけ る見つけたるもなほをかし。人のとりにおこせたるをおし包みてやるも、立文 のやうに見えたり。 笙の笛は月のあかきに、車などにて聞きえたる、いとをかし。所せく持てあ つかひにくくぞ見ゆる。さて、吹く顏やいかにぞ。それは横笛も吹きなしなめ りかし。 △篳篥はいとかしがましく、秋の蟲をいはば、轡蟲などの心地して、うたてけ ぢかく聞かまほしからず。ましてわろく吹きたるはいとにくきに、臨時の祭の 日、まだ御前には出でで、もののうしろに横笛をいみじう吹きたてたる、あな、 おもしろ、と聞くほどに、なからばかりよりうち添へて吹きのぼりたるこそ、 ただいみじう、うるはし髮持たらん人も、みな立ちあがりぬべき心地すれ。や うやう琴・笛にあはせてあゆみいでたる、いみじうをかし。 【二一九】△見ものは△臨時の祭。行幸。祭のかへさ。御賀茂詣。 【二二〇】△賀茂の臨時の祭、空の曇り、さむげなるに、雪すこしうち散りて、 插頭の花、青摺などにかかりたる、えもいはずをかし。太刀の鞘のきはやかに、 黒うまだらにて、ひろう見えたるに、半臂の緒のやうしたるやうにかかりたる、 地摺の袴のなかより、氷かとおどろくばかりなる打目など、すべていとめでた し。いますこしおほくわたらせまほしきに、使はかならずよき人ならず、受領 などなるは目もとまらずにくげなるも、藤の花にかくれたるほどはをかし。な ほ過ぎぬるかたを見送るに、陪從のしなおくれたる、柳に插頭の山吹わりなく 見ゆれど、泥障いとたかううち鳴らして、「賀茂の社のゆふだすき」とうたひた るは、いとをかし。 【二二一】△行幸にならぶものはなにかはあらん。御輿にたてまつるを見たてま つるには、あけくれ御前にさぶらひつかうまつるともおぼえず、神々しく、い つくしう、いみじう、つねはなにともみえぬなにつかさ・姫まうちぎみさへぞ、 やむごとなくめづらしくおぼゆるや。御綱の助の中・少將、いとをかし。 △近衞の大將、ものよりことにめでたし。近衞づかさこそなほいとをかしけれ。 △五月こそ世に知らずなまめかしきものなりけれ。されど、この世に絶えにた る事なめれば、いとくちをし。昔語に人のいふを聞き、思ひあはするに、いか なりけん。ただその日は菖蒲うち葺き、世のつねのありさまだにめでたきをも、 殿のありさま、ところどころの御棧敷どもに、菖蒲葺きわたし、よろづの人ど も菖蒲鬘して、菖蒲の藏人、かたちよきかぎり選りていだされて、藥玉賜はす れば、拜して腰につけなどしけんほど、いかなりけむ。ゑいのすいゑうつりよ きもなどうちけんこそ、をこにもをかしうもおぼゆれ。かへらせ給ふ御輿のさ きに、獅子・狛犬など舞ひ、あはれさる事のあらん、ほととぎすうち鳴き、こ ろのほどさへ似るものなかりけんかし。 △行幸はめでたきものの、君達、車などのこのましう乘りこぼれて、上下走ら せなどするがなきぞくちをしき。さやうなる車のおしわけて立ちなどするこそ、 心ときめきはすれ。 【二二二】△祭のかへさ、いとをかし。昨日はよろづのうるはしくて、一條の大 路の廣うきよげなるに、日のかげも暑く、車にさし入りたるもまばゆければ、 扇してかくし、ゐなほり、ひさしく待つもくるしく、汗などもあえしを、今日 はいととくいそぎいでて、雲林院・知足院などのもとに立てる車ども、葵かづ らどももうちなびきて見ゆる。日は出でたれども、空はなほうち曇りたるに、 いみじう、いかで聞かむと、目をさまし起きゐて待たるるほととぎすの、あま たさへあるにやと鳴きひびかすは、いみじうめでたしと思ふに、鴬の老いたる 聲してかれに似せんとををしううち添へたるこそ、にくけれどまたをかしけれ。 △いつしかと待つに、御社のかたより赤衣うち着たる者どもなどのつれだちて 來るを、「いかにぞ。ことなりぬや」といへば、「まだ、無期」などいらへ、御 輿など持てかへる。かれにたてまつりておはしますらむもめでたく、けだかく、 いかでさる下衆などの近くさぶらふにか、とぞおそろしき。 △はるかげにいひつれど、ほどなく還らせ給ふ。扇よりはじめ、青朽葉どもの いとをかしう見ゆるに、所の衆の、青色に白襲をけしきばかりひきかけたるは、 卯の花の垣根ちかうおぼえて、ほととぎすもかげにかくれぬべくぞ見ゆるかし。 △昨日は車一つにあまた乘りて、二藍のおなじ指貫、あるは狩衣などみだれて、 簾解きおろし、もの狂ほしきまで見えし君達の、齋院の垣下にとて、日の裝束 うるはしうして、今日は一人づつさうざうしく乘りたる後に、をかしげなる殿 上童乘せたるもをかし。 △わたり果てぬる、すなはちは心地もまどふらん、我も我もとあやふくおそろ しきまでさきに立たんといそぐを、「かくないそぎそ」と扇をさし出でて制す るに、聞きも入れねば、わりなきに、すこしひろき所にてしひてとどめさせて 立てる、心もとなくにくしとぞ思ひたるべきに、ひかへたる車どもを見やりた るこそをかしけれ。男車の誰とも知らぬが後にひきつづきて來るも、ただなる よりはをかしきに、ひき別るる所にて、「峯にわかるる」といひたるもをかし。 なほあかずをかしければ、齋院の鳥居のもとまで行きて見るをりもあり。 △内侍の車などのいとさわがしければ、異かたの道より歸れば、まことの山里 めきてあはれなるに、うつぎ垣根といふものの、いとあらあらしくおどろおど ろしげに、さし出でたる枝どもなどおほかるに、花はまだよくもひらけはてず、 つぼみたるがちに見ゆるを折らせて、車のこなたかなたにさしたるも、かづら などのしぼみたるがくちをしきに、をかしうおぼゆ。いとせばう、えも通るま じう見ゆる行く先を、近う行きもて行けば、さしもあらざりけるこそをかしけ れ。 【二二三】△五月ばかりなどに山里にありく、いとをかし。草葉も水もいとあを く見えわたりたるに、上はつれなくて草生ひ茂りたるを、ながながとただざま に行けば、下はえならざりける水の、ふかくはあらねど、人などのあゆむには しりあがりたる、いとをかし。 △左右にある垣にある、ものの枝などの、車の屋形などにさし入るを、いそぎ てとらへて折らんとするほどに、ふと過ぎてはづれたるこそ、いとくちをしけ れ。 △蓬の車に押しひしがれたりけるが、輪の廻りたるに、近ううちかかりたるも をかし。 【二二四】△いみじう暑きころ、夕すずみといふほど、物のさまなどもおぼめか しきに、男車の前驅追ふはいふべきにもあらず、ただの人も、後の簾あげて、 二人も、一人も、乘りて走らせ行くこそすずしげなれ。まして、琵琶かい調べ、 笛の音など聞えたるは、過ぎて往ぬるもくちをし。さやうなるに、牛の鞦の香 の、なほあやしう、嗅ぎ知らぬものなれど、をかしきこそもの狂ほしけれ。 △いと暗う闇なるに、前にともしたる松の煙の香の、車のうちにかかへたるも をかし。 【二二五】△五月四日の夕つかた、青き草おほくいとうるはしく切りて、左右に なひて、赤衣着たる男の行くこそをかしけれ。 【二二六】△加茂へまゐる道に、田植うとて、女のあたらしき折敷のやうなるも のを笠に着て、いとおほう立ちて歌をうたふ、折れ伏すやうに、また、なにご とするとも見えでうしろざまにゆく、いかなるにかあらむ。をかしと見ゆるほ どに、ほととぎすをいとなめううたふ、聞くにぞ心憂き。「ほととぎす、おれ、 かやつよ。おれ鳴きてこそ、我は田植うれ」とうたふを聞くも、いかなる人か、 「いたくな鳴きそ」とはいひけん。仲忠が童生ひいひおとす人と、ほととぎす 鴬におとるといふ人こそ、いとつらうにくけれ。 【二二七】△八月つごもり、太秦に詣づとて見れば、穗に出でたる田を人いとお ほく見さわぐは、稻刈るなりけり。早苗とりしかいつのまに、まことにさいつ ころ賀茂へ詣づとて見しが、あはれにもなりにけるかな。これは男どもの、い とあかき稻の本ぞ青きを持たりて刈る。なににかあらんして本を切るさまぞ、 やすげに、せまほしげに見ゆるや。いかでさすらむ。穗をうち敷きて並みをる もをかし。庵のさまなど。 【二二八】△九月廿日あまりのほど、長谷に詣でて、いとはかなき家にとまりた りしに、いとくるしくて、ただ寢に寢入りぬ。 △夜ふけて、月の窓より洩りたりしに、人の臥したりしどもが衣の上に、しろ うてうつりなどしたりしこそ、いみじうあはれとおぼえしか。さやうなるをり ぞ、人歌よむかし。 【二二九】△清水などにまゐりて、坂もとのぼるほどに、柴たく香のいみじうあ はれなるこそをかしけれ。 【二三〇】△五月の菖蒲の秋冬過ぐるまであるが、いみじうしらみ枯れてあやし きを、ひき折りあげたるに、そのをりの香の殘りてかかへたる、いみじうをか し。 【二三一】△よくたきしめたる薫物の、昨日、一昨日、今日などは忘れたるに、 ひきあげたるに、煙の殘りたるは、ただいまの香よりもめでたし。 【二三二】△月のいとあかきに、川を渡れば、牛のあゆむままに、水晶などのわ れたるやうに、水の散りたるこそをかしけれ。 【二三三】△おほきにてよきもの△家。餌袋。法師。くだもの。牛。松の木。硯 の墨。 △男の目のほそきは女びたり。また、金椀のやうならんもおそろし。火桶。酸 漿。山吹の花。櫻の花びら。 【二三四】△短くてありぬべきもの△とみのもの縫ふ絲。下衆女の髮。人のむす めの聲。燈臺。 【二三五】△人の家につきづきしきもの△肱折りたる廊。圓座。三尺の几帳。お ほきやかなる童女。よきはしたもの。 △侍の曹司。折敷。懸盤。中の盤。おはらき。衝立障子。かき板。裝飾よく したる餌袋。からかさ。棚厨子。提子。銚子。 【二三六】△ものへ行く路に、きよげなる男のほそやかなるが、立文もちていそ ぎ行くこそ、いづちならんと見ゆれ。 △また、きよげなるわらはべなどの、袙どものいとあざやかなるにはあらで、 なえばみたるに、屐子のつややかなるが齒に土おほくつきたるをはきて、白き 紙におほきに包みたる物、もしは箱の蓋に草子どもなど入れて持ていくこそ、 いみじう、呼びよせて見まほしけれ。 △門近なる所の前わたりを呼び入るるに、愛敬なく、いらへもせでいく者は、 使ふらむ人こそおしはからるれ。 【二三七】△よろづのことよりも、わびしげなる車に裝束わるくて物見る人、い ともどかし。説經などはいとよし。罪うしなふことなれば。それだになほあな がちなるさまにては見ぐるしきに、まして祭などは見でありぬべし。下簾なく て、白き單の袖などうち垂れてあめりかし。ただその日の料と思ひて、車の簾 もしたてて、いとくちをしうはあらじと出でたるに、まさる車など見つけては、 なにしにとおぼゆるものを、まいて、いかばかりなる心にて、さて見るらん。 △よき所に立てんといそがせば、とく出でて待つほど、ゐ入り、立ちあがりな ど、暑くくるしきに困ずるほどに、齋院の垣下にまゐりける殿上人、所の衆、 辨、少納言など、七つ八つとひきつづけて、院のかたより走らせて來るこそ、 ことなりにけりとおどろかれてうれしけれ。 △物見の所の前に立てて見るも、いとをかし。殿上人ものいひにおこせなどし、 所の御前どもに水飯食はすとて、階のもとに馬ひき寄するに、おぼえある人の 子どもなどは、雜色など下りて馬の口とりなどしてをかし。さらぬ者の見も入 れられぬなどぞいとほしげなる。 △御輿のわたらせ給へば、轅ども、あるかぎりうちおろして、過ぎさせ給ひぬ れば、まどひあぐるもをかし。その前に立つる車はいみじう制するを、「など て立つまじき」とてしひて立つれば、いひわづらひて、消息などするこそをか しけれ。所もなく立ちかさなりたるに、よきところの御車、人だまひひきつづ きておほく來るを、いづこに立たむとすらんと見るほどに、御前どもただ下り に下りて、立てる車どもをただのけにのけさせて、人だまひまで立てつづけさ せつるこそ、いとめでたけれ。追ひさけさせつる車どもの、牛かけて所あるか たにゆるがしゆくこそ、いとわびしげなれ。きらきらしくよきなどをば、いと さしもおしひしがず。 △いときよげなれど、またひなび、あやしき下衆など絶えず呼び寄せ、いだし 据ゑなどしたるもあるぞかし。 【二三八】△「細殿にびんなき人なん、曉にかささして出でける」といひ出でた るを、よく聞けば、わがうへなりけり。地下などいひても、目やすく、人にゆ るさるばかりの人にもあらざなるを、あやしのことやと思ふほどに、上より御 文持て來て、「返りごと、ただいま」と仰せられたり。なにごとにかとて見れ ば、大がさの繪をかきて、人は見えず、ただ手のかぎり笠をとらへさせて、下 に、 △△山の端明けしあしたより と書かせ給へり。なほはかなきことにても、ただめでたくのみおぼえさせ給ふ に、はづかしく心づきなきことは、いかでか御覽ぜられじと思ふに、かかるそ ら言のいでくる、くるしけれど、をかしくて、こと紙に雨をいみじう降らせて、 下に、 △△「ならぬ名の立ちにけるかな さてや、ぬれ衣にはなり侍らむ」と啓したれば、右近の内侍などに語らせ給ひ て、わらはせ給ひけり。 【二三九】△三條の宮におはしますころ、五日の菖蒲の輿などもてまゐり、藥玉 まゐらせなどす。 △わかき人々、御匣殿など、藥玉して姫宮・若宮に着けたてまつらせ給ふ。い とをかしき藥玉ども、ほかよりまゐらせたるに、青ざしといふ物を持て來たる を、あをき薄樣をえんなる硯の蓋に敷きて、「これ、ませ越しにさぶらふ」とて まゐらせたれば、 △△みな人の花や蝶やといそぐ日もわが心をば君ぞ知りける この紙の端をひき破らせ給ひて書かせ給へる、いとめでたし。 【二四〇】△御乳母の大輔の命婦、日向へくだるに、賜はする扇どもの中に、片 つかたは日いとうららかにさしたる田舍の館などおほくして、いま片つかたは 京のさるべき所にて、雨いみじう降りたるに、 △△あかねさす日に向ひても思ひ出でよ都は晴れぬながめすらんと 御手にて書かせ給へる、いみじうあはれなり。さる君を見おきたてまつりてこ そえ行くまじけれ。 【二四一】△清水にこもりたりしに、わざと御使して賜はせたりし、唐の紙のあ かみたるに、草にて、 △△「山ちかき入相の鐘の聲ごとに戀ふる心の數は知るらん ものを、こよなの長居や」とぞ書かせ給へる。紙などのなめげならぬも、とり 忘れたる旅にて、むらさきなる蓮の花びらに書きてまゐらす。 【二四二】△驛は△梨原。望月の驛。山は驛は、あはれなりしことを聞きおきた りしに、またもあはれなることのありしかば、なほとりあつめてあはれなり。 【二四三】△社は△布留の社。生田の社。旅の御社。花ふちの社。杉の御社は、 しるしやあらんとをかし。ことのままの明神、いとたのもし。「さのみ聞きけ ん」とやいはれ給はん、と思ふぞいとほしき。 【二四四】△蟻通の明神、貫之が馬のわづらひけるに、この明神の病ませ給ふと て、歌よみてたてまつりけん、いとをかし。 △この蟻通とつけけるは、まことにやありけん、昔おはしましける帝の、ただ わかき人をのみおぼしめして、四十になりぬるをば、うしなはせ給ひければ、 人の國の遠きに行きかくれなどして、さらに都のうちにさる者のなかりけるに、 中將なりける人の、いみじう時の人にて、心などもかしこかりけるが、七十近 き親二人を持たるに、かう四十をだに制することに、まいておそろし、とおぢ さわぐに、いみじく孝なる人にて、遠き所に住ませじ、一日に一たび見ではえ あるまじとて、みそかに家のうちの地を掘りて、そのうちに屋をたてて、こめ 据ゑて、いきつつ見る。人にも、おほやけにも、失せかくれにたる由を知らせ てあり。などか、家に入りゐたらん人をば知らでもおはせかし。うたてありけ る世にこそ。この親は上達部などにはあらぬにやありけん、中將などを子にて 持たりけるは。心いとかしこう、よろづの事知りたりければ、この中將もわか けれど、いと聞えあり、いたりかしこくして、時の人におぼすなりけり。 △唐土の帝、この國の帝を、いかで謀りてこの國討ちとらんとて、つねにここ ろみごとをし、あらがひごとをしておそり給ひけるに、つやつやとまろにうつ くしげに削りたる木の二尺ばかりあるを、「これが本末いづかた」と問ひに奉 れたるに、すべて知るべきやうなければ、帝おぼしわづらひたるに、いとほし くて、親のもとにいきて、「かうかうの事なんある」といへば、「ただ、速から ん川に、立ちながら横さまに投げ入れて、返りて流れんかたを末としるして遣 せ」と教ふ。まゐりて、我が知りがほに、さて、「こころみ侍らん」とて、人と 具して、投げ入れたるに、先にしていくかたにしるしをつけて遣したれば、ま ことにさなりけり。 △また、二尺ばかりなるくちなはの、ただおなじ長さなるを、「これが男女」と て奉れり。また、さらに人え見知らず。例の、中將來て問へば、「二つを並べて、 尾のかたにほそきすばえをしてさし寄せんに、尾はたらかさんを女と知れ」と いひける、やがて、それは内裏のうちにてさしけるに、まことに一つは動かず、 一つは動かしければ、またさるしるしつけて、遣しけり。 △ほどひさしくて、七曲にわだかまりたる玉の、中通りて左右に口あきたるが ちひさきを奉りて、「これに緒通して賜はらん。この國にみなし侍る事なり」 とて奉りたるに、「いみじからんものの上手、不用なり」と、そこらの上達部・ 殿上人、世にありとある人いふに、また行きて、「かくなん」といへば、「大き なる蟻をとらへて、二つばかりが腰にほそき絲をつけて、またそれに、います こしふときをつけて、あなたの口に蜜を塗りて見よ」といひければ、さ申して、 蟻を入れたるに、蜜の香をかぎて、まことにいととくあなたの口より出でにけ り。さて、その絲の貫かれたるを遣してけるのちになん、「なほ日の本の國はか しこかりけり」とて、のちにさる事もせざりける。 △この中將をいみじき人におぼしめして、「なにわざをし、いかなる官・位をか 賜ふべき」と仰せられければ、「さらに官もかうぶりも賜はらじ。ただ老いたる 父母のかくれうせて侍るたづねて、都に住まする事をゆるさせ給へ」と申しけ れば、「いみじうやすき事」とてゆるされければ、よろづの人の親これを聞き てよろこぶ事いみじかりけり。中將は上達部・大臣になさせ給ひてなんありけ る。 △さて、その人の神になりたるにやあらん、その神の御もとにまうでたりける 人に、夜現れてのたまへりける、 △△七曲にまがれる玉の緒をぬきてありとほしとは知らずやあるらん とのたまへりける、と人の語りし。 【二四五】△一條の院をば今内裏とぞいふ。おはします殿は清涼殿にて、その北 なる殿におはします。西東は渡殿にて、わたらせ給ひ、まうのぼらせ給ふ道に て、前は壷なれば、前栽植ゑ、笆結ひて、いとをかし。 △二月廿日ばかりのうらうらとのどかに照りたるに、渡殿の西の廂にて、上の 御笛吹かせ給ふ。高遠の兵部卿御笛の師にてものし給ふを、御笛二つして、高 砂ををりかへして吹かせ給ふは、なほいみじうめでたしといふも世のつねなり。 御笛の事どもなど奏し給ふ、いとめでたし。御簾のもとに集まり出でて、見た てまつるをりは、「芹摘みし」などおぼゆる事こそなけれ。 △すけただは木工の允にてぞ藏人にはなりたる。いみじくあらあらしくうたて あれば、殿上人・女房、「あらはこそ」とつけたるを、歌に作りて、「さうなし の主、尾張人の種にぞありける」と歌ふは、尾張の兼時がむすめの腹なりけり。 これを御笛に吹かせ給ふを、そひにさぶらひて、「なほ高く吹かせおはしませ。 え聞きさぶらはじ」と申せば、「いかが。さりとも、聞き知りなん」とて、みそ かにのみ吹かせ給ふに、あなたよりわたりおはしまして、「かの者なかりけり。 ただ今こそ吹かめ」と仰せられて吹かせ給ふは、いみじうめでたし。 【二四六】△身をかへて、天人などはかうやあらんと見ゆるものは、ただの女房 にてさぶらふ人の、御乳母になりたる。唐衣も着ず、裳をだにも、よういはば 着ぬさまにて、御前に添ひ臥し、御帳のうちを居どころにして、女房どもを呼び つかひ、局にものをいひやり、文をとりつがせなどしてあるさま、いひつくす べくもあらず。 △雜色の藏人になりたる、めでたし。去年の十一月の臨時の祭に御琴持たりし は、人とも見えざりしに、君達とつれだちてありくは、いづこなる人ぞとおぼ ゆれ。ほかよりなりたるなどは、いとさしもおぼえず。 【二四七】△雪高う降りて、いまもなほ降るに、五位も四位も、色うるはしうわ かやかなるが、うへのきぬの色いときよらにて、革の帶のかたつきたるを宿直 姿にひきはこえて、むらさきの指貫も、雪に冴え映えて濃さまさりたるを着て、 袙のくれなゐならずは、おどろおどろしき山吹をいだして、からかさをさした るに、風のいたう吹きて横さまに雪を吹きかくれば、すこしかたぶけてあゆみ 來るに、深き沓、半靴などのはばきまで、雪のいと白うかかりたるこそをかし けれ。 【二四八】△細殿の遣戸をいととうおしあけたれば、御湯殿に馬道より下りて來 る殿上人、なえたる直衣・指貫の、いみじうほころびたれば、色々の衣どもの こぼれ出でたるをおし入れなどして、北の陣ざまにあゆみ行くに、あきたる戸 の前を過ぐとて、纓をひき越して顏にふたぎていぬるもをかし。 【二四九】△岡は△船岡。片岡。鞆岡は、笹の生ひたるがをかしきなり。かたら ひの岡。人見の岡。 【二五〇】△降るものは△雪。霰。霙はにくけれど、白き雪のまじりて降る、を かし。 【二五一】△雪は、桧皮葺、いとめでたし。すこし消えがたになりたるほど。ま た、いと多うも降らぬが、瓦の目ごとに入りて、黒うまろに見えたる、いとを かし。 △時雨・霰は、板屋。霜も、板屋。庭。 【二五二】△日は△入り日。入りはてぬる山の端に、光なほとまりて赤う見ゆる に、薄黄ばみたる雲のたなびきわたりたる、いとあはれなり。 【二五三】△月は△有明の、東の山ぎはにほそくて出づるほど、いとあはれなり。 【二五四】△星は△すばる。ひこぼし。ゆふづつ。よばひ星、すこしをかし。尾 だになからましかば、まいて。 【二五五】△雲は△白き。むらさき。黒きもをかし。風吹くをりの雨雲。 △明けはなるるほどの黒き雲の、やうやう消えて、白うなり行くも、いとをか し。「朝にさる色」とかや、ふみにも作りたなる。 △月のいとあかきおもてにうすき雲、あはれなり。 【二五六】△さわがしきもの△走り火。板屋の上にて烏の齋の生飯食ふ。十八日 に、清水にこもりあひたる。 △暗うなりて、まだ火もともさぬほどに、ほかより人の來あひたる。まいて、 遠き所の人の國などより、家の主の上りたる、いとさわがし。 △近きほどに火出で來ぬといふ。されど、燃えはつかざりけり。 【二五七】△ないがしろなるもの△女官どもの髮上げ姿。唐繪の革の帶のうし ろ。聖のふるまひ。 【二五八】△ことばなめげなるもの△宮のべの祭文讀む人。舟漕ぐ者ども。雷鳴 の陣の舍人。相撲。 【二五九】△さかしきもの△今樣の三歳兒。ちごの祈りし、腹などとる女。 △ものの具ども請ひ出でて、祈り物作る、紙をあまたおしかさねて、いとにぶ き刀して切るさまは、一重だに斷つべくもあらぬに、さるものの具となりにけ れば、おのが口をさへひきゆがめておし切り、目多かるものどもして、かけ竹 うち割りなどして、いと神々しうしたてて、うち振ひ祈ることども、いとさか し。かつは、「なにの宮、その殿の若君、いみじうおはせしを、かい拭ひたるや うにやめたてまつりたりしかば、祿を多く賜はりしこと。その人かの人召した りけれど、驗なかりければ、いまに嫗をなん召。御徳をなん見る」など語り をる顏もあやし。 △下衆の家の女あるじ。痴れたる者、それしもさかしうて、まことにさかしき 人を教へなどすかし。 【二六〇】△ただ過ぎに過ぐるもの△帆かけたる舟。人の齡。春、夏、秋、冬。 【二六一】△ことに人に知られぬもの△凶會日。人の女親の老いにたる。 【二六二】△文ことばなめき人こそいとにくけれ。世をなのめに書き流したるこ とばのにくきこそ。さるまじき人のもとに、あまりかしこまりたるも、げにわ ろきことなり。されど、わが得たらんはことわり、人のもとなるさへにくくこ そあれ。 △おほかたさし向ひてもなめきは、などかくいふらんとかたはらいたし。まい て、よき人などをさ申す者は、いみじうねたうさへあり。田舍びたる者などの さあるは、をこにていとよし。 △をとこ・主などなめくいふ、いとわるし。わが使ふものなどの「なにとおは する」「のたまふ」などいふ、いとにくし。ここもとに、「侍り」などいふ文字 をあらせばやと聞くこそ多かれ。さもいひつべき者には、「あな、にげな、愛敬 な。などかう、このことばはなめき」といへば、聞く人もいはるる人もわらふ。 かうおぼゆればにや、「あまり見そす」などいふも、人わろきなるべし。 △殿上人・宰相などを、ただ名のる名をいささかつつましげならずいふは、い とかたはなるを、きようさいはず、女房の局なる人をさへ、「あのおもと」「君」 などいへば、めづらかにうれしと思ひて、ほむることぞいみじき。 △殿上人・君たち、御前よりほかにては、官をのみいふ。また、御前にては、 おのがどちものをいふとも、きこしめすには、などてか、「まろが」などはいは ん。さいはんにかしこく、いはざらんにわろかるべきことかは。 【二六三】△いみじうきたなきもの△なめくぢ。えせ板敷の帚のすゑ。殿上の合 子。 【二六四】△せめておそろしきもの△夜鳴る神。近き隣に盜人の入りたる。わが 住む所に來たるは、ものもおぼえねばなにとも知らず。 △近き火、またおそろし。 【二六五】△たのもしきもの△心地あしきころ、伴僧あまたして修法したる。心 地などのむつかしきころ、まことまことしき思ひ人のいひなぐさめたる。 【二六六】△いみじうしたてて婿とりたるに、ほどもなく住まぬ婿の舅にあひた る、いとほしとや思ふらん。 △ある人の、いみじう時にあひたる人の婿になりて、ただ一月ばかりも、はか ばかしう來でやみにしかば、すべていみじういひさわぎ、乳母などやうの者は、 まがまがしきことなどいふもあるに、そのかへる正月に藏人になりぬ。「「あさ ましう、かかるなからひには、いかで」とこそ人は思ひたれ」など、いひあつ かふは聞くらんかし。 △六月に人の八講し給ふ所に、人々あつまりて聞きしに、藏人になれる婿の、 れうの表の袴、黒半臂などいみじうあざやかにて、わすれにし人の車の鴟の尾 といふ物に、半臂の緒をひきかけつばかりにてゐたりしを、いかに見るらんと、 車の人々も知りたるかぎりはいとほしがりしを、こと人々も、「つれなくゐたり しものかな」など、後にもいひき。 △なほ、男は、もののいとほしさ、人の思はんことは知らぬなめり。 【二六七】△世の中になほいと心憂きものは、人ににくまれんことこそあるべけ れ。誰てふ物狂か、我人にさ思はれんとは思はん。されど、自然に宮仕所にも、 親・はらからの中にても、思はるる思はれぬがあるぞいとわびしきや。 △よき人の御ことはさらなり、下衆などのほども、親などのかなしうする子は、 目たて耳たてられて、いたはしうこそおぼゆれ。見るかひあるはことわり、い かが思はざらんとおぼゆ。ことなることなきは、また、これをかなしと思ふら んは、親なればぞかしとあはれなり。 △親にも、君にも、すべて、うち語らふ人にも、人に思はれんばかりめでたき 事はあらじ。 【二六八】△男こそ、なほいとありがたくあやしき心地したるものはあれ。いと きよげなる人を捨てて、にくげなる人を持たるもあやしかし。おほやけ所に入 りたちする男、家の子などは、あるがなかによからんをこそは、選りて思ひ給 はめ。およぶまじからむ際をだに、めでたしと思はんを、死ぬばかりも思ひか かれかし。人のむすめ、まだ見ぬ人などをも、よしと聞くをこそは、いかでと も思ふなれ。かつ女の目にもわろしと思ふを思ふは、いかなる事にかあらん。 △かたちいとよく、心もをかしき人の、手もよう書き、歌もあはれに詠みて、 うらみおこせなどするを、返りごとはさかしらにうちするものから、よりつか ず、らうたげにうちなげきてゐたるを、見捨てていきなどするは、あさましう、 おほやけ腹立ちて、見證の心地も心憂く見ゆべけれど、身のうへにては、つゆ 心ぐるしさを思ひ知らぬよ。 【二六九】△よろづのことよりも情あるこそ、男はさらなり、女もめでたくおぼ ゆれ。なげのことばなれど、せちに心にふかく入らねど、いとほしきことをば 「いとほし」とも、あはれなるをば「げにいかに思ふらん」などいひけるを、 傳へて聞きたるは、さし向ひていふよりもうれし。いかでこの人に、思ひ知り けりとも見えにしがな、とつねにこそおぼゆれ。 △かならず思ふべき人、とふべき人は、さるべきことなれば、とり分かれしも せず。さもあるまじき人の、さしいらへをもうしろやすくしたるは、うれしき わざなり。いとやすきことなれど、さらにえあらぬことぞかし。 おほかた心よき人の、まことにかどなからぬは、男も女もありがたきことな めり。また、さる人も多かるべし。 【二七〇】△人のうへいふを腹立人こそいとわりなけれ。いかでかいはではあ らん。わが身をばさしおきて、さばかりもどかしくいはまほしきものやはある。 されど、けしからぬやうにもあり、また、おのづから聞きつけて、うらみもぞ する、あいなし。 △また、思ひはなつまじきあたりは、いとほしなど思ひ解けば、念じていはぬ をや。さだになくば、うちいで、わらひもしつべし。 【二七一】△人の顏に、とり分きてよしと見ゆる所は、たびごとに見れども、あ なをかし、めづらしとこそおぼゆれ。繪など、あまたたび見れば、目もたたず かし。近う立てたる屏風の繪などは、いとめでたけれども、見も入れられず。 △人のかたちはをかしうこそあれ。にくげなる調度の中にも、一つよき所のま もらるるよ。みにくきもさこそはあらめと思ふこそわびしけれ。 【二七二】△古代の人の指貫着たるこそ、いとたいだいしけれ。前にひき當てて、 まづ裾をみな篭め入れて、腰はうち捨てて、衣の前をととのへはてて、腰をお よびてとるほどに、うしろざまに手をさしやりて、猿の手結はれたるやうにほ どき立てるは、とみのことにいでたつべくも見えざめり。 【二七三】△十月十よ日の月のいとあかきにありきて、女房十五六人ばかり、 みな濃き衣をうへに着て、ひき返しつつありしに、中納言の君の、くれなゐの はりたるを着て、頚よりかみをかき越し給へりしが、あたらし、そとはに、い とよくも似たりしかな。「ひひなのすけ」とぞ、わかき人々つけたりし。後に 立ちてわらふも知らずかし。 【二七四】△成信の中將こそ、人の聲はいみじうよう聞き知り給ひしか。おなじ 所の人の聲などは、つねに聞かぬ人はさらにえ聞き分かず。ことに男は人の聲 をも手をも、見分き聞き分かぬものを、いみじうみそかなるも、かしこう聞き 分き結ひしこそ。 【二五七】△大藏卿ばかり耳とき人はなし。まことに、蚊のまつげの落つるをも 聞きつけ給ひつべうこそありしか。 △職の御曹司の西面に住みしころ、大殿の新中將宿直にて、ものなどいひしに、 そばにある人の、「この中將に扇の繪のこといへ」とささめけば、「いま、かの 君の立ち給ひなんにを」と、いとみそかにいひ入るるを、その人だにえ聞きつ けで、「なにとか、なにとか」と耳をかたぶけ來るに、遠くゐて、「にくし。さ のたまはば、今日は立たじ」とのたまひしこそ、いかで聞きつけ給ふらんとあ さましかりしか。 【二七六】△うれしきもの△まだ見ぬ物語の一を見て、いみじうゆかしとのみ思 ふが、殘り見出でたる。さて、心おとりするやうもありかし。 △人の破り捨てたる文を繼ぎて見るに、おなじ續きをあまたくだり見續けたる。 いかならんと思ふ夢を見て、おそろしと胸つぶるるに、ことにもあらず合せな したる、いとうれし。 △よき人の御前に、人々あまたさぶらふをり、昔ありける事にもあれ、今きこ しめし、世にいひける事にもあれ、語らせ給ふを、我に御覽じあはせてのたま はせたる、いとうれし。 △遠き所はさらなり、おなじ都のうちながらも隔りて、身にやむごとなく思ふ 人のなやむを聞きて、いかにいかにと、おぼつかなきことをなげくに、おこた りたる由、消息聞くも、いとうれし。 △思ふ人の人にほめられ、やむごとなき人などの、くちをしからぬ者におぼし のたまふ。もののをり、もしは、人といひかはしたる歌の聞えて、打聞などに 書き入れらるる。みづからのうへにはまだ知らぬことなれど、なほ思ひやるよ。 △いたううちとけぬ人のいひたるふるき言の、知らぬを聞き出でたるもうれし。 のちに物の中などにて見出でたるは、ただをかしう、これにこそありけれと、 かのいひたりし人ぞをかしき。 △みちのくに紙、ただのも、よき得たる。はづかしき人の、歌の本末問ひたる に、ふとおぼえたる、我ながらうれし。つねにおぼえたる事も、また人の問ふ に、きよう忘れてやみぬるをりぞ多かる。とみにてもとむる物見出でたる。 △物合、なにくれと挑むことに勝ちたる、いかでかうれしからざらん。また、 我はなど思ひてしたり顏なる人謀り得たる。女どちよりも、男はまさりてうれ し。これが、答はかならずせんと思ふらんと、つねに心づかひせらるるもをかし きに、いとつれなく、なにとも思ひたらぬさまにてたゆめ過ぐすも、またをか し。にくき者のあしき目見るも、罪や得らんと思ひながら、またうれし。 △ものの折に衣打たせにやりて、いかならんと思ふに、きよらかにて得たる。刺 櫛すらせたるに、をかしげなるもまたうれし。またも多かるものを。 △日ごろ、月ごろ、しるき事ありて、なやみわたるが、おこたりぬるもうれし。 思ふ人のうへは、わが身よりもまさりてうれし。 △御前に人々所もなくゐたるに、今のぼりたるは、すこし遠き柱もとなどにゐ たるを、とく御覽じつけて、「こち」と仰せらるれば、道あけて、いと近う召し 入れられたるこそうれしけれ。 【二七七】△御前にて人々とも、また、もの仰せらるるついでなどにも、「世の 中の腹立たしう、むつかしう、片時あるべき心地もせで、ただいづちもいづち も行きもしなばやと思ふに、ただの紙のいと白うきよげなるに、よき筆、白き 色紙、みちのくに紙など得つれば、こよなうなぐさみて、さはれ、かくてしば しも生きてありぬべかんめりとなむおぼゆる。また、高麗縁の、筵青うこまや かに厚きが、縁の紋いとあざやかに、黒う白う見えたるをひきひろげて見れば、 なにか、なほこの世は、さらにさらにえ思ひ捨つまじと、命さへ惜しくなんな る」と申せば、「いみじくはかなきことにもなぐさむなるかな。姨捨山の月は、 いかなる人の見けるにか」などわらはせ給ふ。さぶらふ人も「いみじうやすき 息災の祈ななり」などいふ。 △さてのち、ほど經て、心から思ひみだるる事ありて里にある頃、めでたき紙 二十を包みて賜はせたり。仰せごとには、「とくまゐれ」などのたまはせで、 「これはきこしめしおきたることのありしかばなむ。わろかめれば、壽命經 もえ書くまじげにこそ」と仰せられたる、いみじうをかし。思ひ忘れたりつる ことをおぼしおかせ給へりけるは、なほただ人にてだにをかしかべし。まいて、 おろかなるべきことにぞあらぬや。心もみだれて、啓すべきかたもなければ、 ただ、 △△かけまくもかしこき神のしるしには鶴のよはひとなりぬべきかな あまりにやと啓せさせ給へ」とてまゐらせつ。臺盤所の雜仕ぞ、御使には來た る。青き綾の單などして、まことに、この紙を草子に作りなどもてさわぐに、 むつかしきこともまぎるる心地して、をかしと心のうちにおぼゆ。 △二日ばかりありて、赤衣着たる男、疊を持て來て、「これ」といふ。「あれは 誰そ。あらはなり」など、ものはしたなくいへば、さし置きて往ぬ。「いづこよ りぞ」と問はすれど、「まかりにけり」とて、とり入れたれば、ことさらに御座 といふ疊のさまにて、高麗など、いときよらなり。心のうちには、さにやあら んなんど思へど、なほおぼつかなさに、人々いだして求むれど、失せにけり。 あやしがりいへど、使のなければいふかひなくて、所違へなどならば、おのづ からまたいひに來なん、宮の邊に案内しにまゐらまほしけれど、さもあらずは、 うたてあべし、と思へど、なほ誰か、すずろにかかるわざはせん、仰せごとな めり、といみじうをかし。 △二日ばかり音もせねば、うたがひなくて、右京の君のもとに、「かかる事な んある。さることやけしき見給ひし。忍びてありさまのたまへ。さること見え ずは、かう申したりとな散らし給ひそ」といひやりたるに、「いみじう隱させ 給ひし事なり。ゆめゆめまろが聞えたると、な口にも」とあれば、さればよと 思ふもしるく、をかしうて、文を書きて、またみそかに御前の勾欄におかせし ものは、まどひけるほどに、やがてかけ落して、御階の下に落ちにけり。 】【二七八】△關白殿、二月廿一日に法興院の積善寺といふ御堂にて一切經供養ぜ させ給ふに、女院もおはしますべければ、二月一日のほどに、二條の宮へ出で させ給ふ。ねぶたくなりにしかば、なに事も見入れず。 △つとめて、日のうららかにさし出でたるほどに起きたれば、白う新しうをか しげに造りたるに、御簾よりはじめて、昨日掛けたるなめり。御しつらひ、獅 子・狛犬など、いつのほどにか入りゐけんとぞをかしき。櫻の一丈ばかりにて、 いみじう咲きたるやうにて、御階のもとにあれば、いととく咲きにけるかな、 梅こそただ今はさかりなれ、と見ゆるは、造りたるなりけり。すべて、花のに ほひなどつゆまことにおとらず。いかにうるさかりけん。雨降らばしぼみなん かしと思ふぞくちをしき。小家などいふもの多かりける所を、今造らせ給へれ ば、木立など見所あることもなし。ただ、宮のさまぞ、けぢかうをかしげなる。 △殿わたらせ給へり。青鈍の固紋の御指貫、櫻の御直衣にくれなゐの御衣三つ ばかりを、ただ御直衣にひき重ねてぞたてまつりたる。御前よりはじめて、紅 梅の濃き薄き織物、固紋・無紋などを、あるかぎり着たれば、ただ光り滿ちて 見ゆ。唐衣は、萠黄・柳・紅梅などもあり。 △御前にゐさせ給ひて、ものなど聞えさせ給ふ。御いらへなどのあらまほしさ を、里なる人などにはつかに見せばやと見たてまつる。女房など御覽じわたし て、「宮、なにごとをおぼしめすらん。ここらめでたき人々を据ゑ並めて御覽 ずるこそはうらやましけれ。一人わるきかたちなしや。これみな家々のむすめ どもぞかし。あはれなり、ようかへりみてこそさぶらはせ給はめ。さても、こ の宮の御心をば、いかに知りたてまつりて、かくはまゐり集まり給へるぞ。い かにいやしくもの惜しみせさせ給ふ宮とて、我は宮の生れさせ給ひしより、い みじう仕うまつれど、まだおろしの御衣一つ賜はらず。なにか、しりう言には 聞えん」などのたまふがをかしければ、わらひぬれば、「まことぞ。をこなりと 見てかくわらひいまするがはづかし」などのたまはするほどに、内裏より式部 の丞なにがしまゐりたり。 △御文は、大納言殿とりて殿にたてまつらせ給へば、ひき解きて、「ゆかしき御 文かな。ゆるされ侍らば、あけて見侍らん」とはのたまはすれど、「あやふしと おぼいためり。かたじけなくもあり」とてたてまつらせ給ふを、とらせ給ひて も、ひろげさせ給ふやうにもあらずもてなさせ給ふ、御用意ぞありがたき。 △御簾の内より女房褥さし出でて、三四人御几帳のもとにゐたり。「あなたに まかりて、祿のことものし侍らん」とて立たせ給ひぬるのちぞ、御文御覽ずる。 御返し、紅梅の薄樣に書かせ給ふが、御衣のおなじ色ににほひ通ひたる、なほ、 かくしもおしはかりまゐらする人はなくやあらんとぞくちをしき。今日のはこ とさらにとて、殿の御方より祿は出ださせ給ふ。女の裝束に紅梅の細長添へた り。肴などあれば、醉はさまほしけれど、「今日はいみじきことの行事に侍り。 あが君、ゆるさせ給へ」と、大納言殿にも申して立ちぬ。 △君など、いみじく化粧じ給ひて、紅梅の御衣ども、おとらじと着給へるに、 三の御前は、御匣殿・中姫君よりもおほきに見え給ひて、上など聞えむにぞよ かめる。 △上もわたり給へり。御几帳ひき寄せて、あたらしうまゐりたる人々には見え 給はねば、いぶせき心地す。 △さしつどひて、かの日の裝束・扇などのことをいひあへるもあり。また、挑 み隱して、「まろは、なにか。ただあらんにまかせてを」などいひて、「例の、 君の」など、にくまる。夜さりまかづる人多かれど、かかるをりのことなれば、 えとどめさせ給はず。 △上、日々にわたり給ひ、夜もおはします。君たちなどおはすれば、御前、人 ずくなならでよし。御使日々にまゐる。 △御前の櫻、露に色はまさらで、日などにあたりてしぼみ、わろくなるだにく ちをしきに、雨の夜降りたるつとめて、いみじくむとくなり。いととう起きて、 「泣きて別れけん顏に心おとりこそすれ」といふを聞かせ給ひて、「げに雨降 るけはひしつるぞかし。いかならん」とて、おどろかせ給ふほどに、殿の御か たより侍の者ども、下衆など、あまた來て、花の下にただ寄りに寄りて、ひき 倒しとりてみそかに行く。「まだ暗からんにとこそ仰せられつれ。明け過ぎに けり。ふびんなるわざかな。とくとく」と倒しとるに、いとをかし。「「いはば いはなん」と、兼澄がことを思ひたるにや」とも、よき人ならばいはまほしけ れど、「彼の花盜むは誰ぞ。あしかめり」といへば、いとど逃げて、引きもて往 ぬ。なほ殿の御心はをかしうおはすかし。枝どももぬれまつはれつきて、いか にびんなきかたちならましと思ふ。ともかくもいはで入りぬ。 △掃部司まゐりて、御格子まゐる。主殿の女官御きよめなどにまゐりはてて、 起きさせ給へるに、花もなければ、「あな、あさまし。あの花どもはいづち往ぬ るぞ」と仰せらる。「あかつきに、「花盜人あり」といふなりつるを、なほ枝な どすこしとるにやとこそ聞きつれ。誰がしつるぞ、見つや」と仰せらる。「さも 侍らず。まだ暗うてよくも見えざりつるを、白みたる者の侍りつれば、花を折 るにやとうしろめたさにいひ侍りつるなり」と申す。「さりとも、みなは、かう、 いかでかとらん。殿の隱させ給へるならん」とてわらはせ給へば、「いで、よも 侍らじ。春の風のして侍るならん」と啓するを、「かういはむとて隱すなりけり。 盜みにはあらで、いたうこそふりなりつれ」と仰せらるるも、めづらしきこと にはあらねど、いみじうぞめでたき。 △殿おはしませば、ねくたれの朝顏も、時ならずや御覽ぜんとひき入る。おは しますままに、「彼の花は失せにけるは。いかで、かうは盜ませしぞ。いとわ ろかりける女房たちかな。いぎたなくて、え知らざりけるよ」とおどろかせ給 へば、「されど、我よりさきにとこそ思ひて侍りつれ」と、しのびやかにいふ に、いととう聞きつけさせ給ひて、「さ思ひつることぞ。世にこと人出でゐて 見じ。宰相とそことのほどならんとおしはかりつ」といみじうわらはせ給ふ。 「さりけるものを、少納言は、春の風におほせける」と、宮の御前のうち笑ま せ給へる、いとをかし。「そらごとをおほせ侍るなり。今は、山田もつくるら んものを」などうち誦せさせ給へる、いとなまめきをかし。「さてもねたく見 つけられにけるかな。さばかりいましめつるものを。人の御かたには、かかる いましめ者のあるこそ」などのたまはす。「春の風は、そらにいとかしこうもい ふかな」など、またうち誦せさせ給ふ。「ただ言にはうるさく思ひつよりて侍り し。今朝のさま、いかに侍らまし」などぞわらはせ給ふ。小若君、されど、そ れをいととく見て、「露にぬれたる」といひける、おもてぶせなりといひ侍り ける」と申し給へば、いみじうねたがらせ給ふもをかし。 △さて、八九日のほどにまかづるを、「いますこし近うなりてを」など仰せらる れど、出でぬ。いみじう、つねよりものどかに照りたる晝つかた、「花の心開け ざるや。いかに、いかに」とのたまはせたれば、「秋はまだしく侍れど、夜に九 度のぼる心地なんし侍る」と聞えさせつ。 △出でさせ給ひし夜、車の次第もなく、「まづ、まづ」と乘りさわぐがにくけれ ば、さるべき人と、なほ、この車に乘るさまのいとさわがしう、祭のかへさな どのやうに、倒れぬべくまどふさまのいと見ぐるしきに、ただ、さはれ、乘る べき車なくてえまゐらずは、おのづからきこしめしつけて賜はせもしてんなど いひあはせて立てる、前よりおしこりて、まどひ出でて乘りはてて、かうこと いふに、「まだし、ここに」といふめれば、宮司寄り來て、「誰々おはするぞ」 と問ひ聞きて、「いとあやしかりけることかな。今はみな乘り給ひぬらんとこ そ思ひつれ。こはなど、かうおくれさせ給へる。今は得選乘せんとしつるに。 めづらかなりや」などおどろきて、寄せさすれば、「さば、まづその御心ざしあ らんをこそ乘せ給はめ。次にこそ」といふ聲を聞きて、「けしからず、腹ぎたな くおはしましけり」などいへば乘りぬ。その次には、まことに御厨子が車にぞ ありければ、火もいと暗きを、わらひて二條の宮にまゐり着きたり。 △御輿はとく入らせ給ひて、しつらひゐさせ給ひにけり。「ここに呼べ」と仰 せられければ、「いづら、いづら」と右京・小左近などいふわかき人々待ちて、 まゐる人ごとに見れど、なかりけり。下るるにしたがひて、四人づつ御前にま ゐりつどひてさぶらふに、「あやし。なきか。いかなるぞ」と仰せられけるも知 らず、あるかぎり下りはててぞからうじて見つけられて、「さばかり仰せらるる に、おそくは」とて、ひきゐてまゐるに、見れば、いつの間にかう年ごろの御 住まひのやうに、おはしましつきたるにかとをかし。 △「いかなれば、かうなきかとたづぬばかりまでは見えざりつる」と仰せらる るに、ともかくも申さねば、もろともに乘りたる人、「いとわりなしや。最果 の車に乘りて侍らん人は、いかでか、とくはまゐり侍らん。これも、御厨子が いとほしがりて、ゆづりて侍るなり。暗かりつるこそわびしかりつれ」とわぶ わぶ啓するに、「行事する者のいとあしきなり。また、などかは、心知らざら ん人こそはつつまめ、右衞門などいはむかし」と仰せらる。「されど、いかで かは走り先立ち侍らん」などいふ、かたへの人にくしと聞くらんかし。「さま あしうて高う乘りたりとも、かしこかるべきことかは。定めたらんさまの、や むごとなからんこそよからめ」と、ものしげにおぼしめしたり。「下りはべる ほどのいと待ち遠に、くるしければにや」とぞ申しなほす。 △御經の事にて、明日わたらせ給はんとて、今宵まゐりたり。南の院の北面に さしのぞきたれば、高坏どもに火をともして、二人、三人、三四人、さべきど ち屏風ひき隔てたるもあり。几帳など隔てなどもしたり。また、さもあらで、 集まりゐて衣どもとぢかさね、裳の腰さし、化粧ずるさまはさらにもいはず、 髮などいふもの、明日よりのちはありがたげに見ゆ。「寅の時になんわたらせ 給ふべかなる。などか、今までまゐり給はざりつる。扇持たせて、もとめきこ ゆる人ありつ」と告ぐ。 △さて、まことに寅の時かと裝束きたちてあるに、明けはて、日もさし出でぬ。 西の對の唐廂にさし寄せてなん乘るべきとて、渡殿へあるかぎり行くほど、ま だうひうひしきほどなる今參などはつつましげなるに、西の對に殿の住ませ給 へば、宮もそこにおはしまして、まづ女房ども車に乘せ給ふを御覽ずとて、御 簾のうちに、宮・淑景舍・三四の君・殿の上、その御おとと三所、立ち並みお はしまさふ。 △車の左右に、大納言殿・三位の中將、二所して簾うちあげ、下簾ひきあげて 乘せ給ふ。うち群れてだにあらば、すこし隱れどころもやあらん、四人づつ書 立にしたがひて、「それ、それ」と呼び立てて乘せ給ふに、あゆみ出づる心地 ぞ、まことにあさましう、顯證なりといふも世のつねなり。御簾のうちに、そ こらの御目どもの中に、宮の御前の見ぐるしと御覽ぜんばかり、さらにわびし きことなし。汗のあゆれば、つくろひたてたる髮なども、みなあがりやしたら んとおぼゆ。からうじて過ぎ行きたれば、車のもとに、はづかしげにきよげな る御さまどもして、うち笑みて見給ふもうつつならず。されど、倒れでそこま では行きつきぬるぞ、かしこきかおもなきか、思ひたどらるれ。 △みな乘りはてぬれば、ひき出でて、二條の大路に榻にかけて、物見る車のや うに立て並べたる、いとをかし。人もさ見たらんかしと心ときめきせらる。四 位・五位・六位などいみじう多う出で入り、車のもとに來て、つくろひ、もの いひなどする中に、明順の朝臣の心地、空を仰ぎ、胸をそらいたり。 △まづ院の御迎へに、殿をはじめたてまつりて、殿上人・地下などもみなまゐ りぬ。それわたらせ給ひてのちに、宮は出でさせ給ふべしとあれば、いと心も となしと思ふほどに、日さしあがりてぞおはします。御車ごめに十五、四つは 尼の車、一の御車は唐車なり。それにつづきてぞ尼の車、後口より水晶の數珠、 薄墨の裳・袈裟・衣、いといみじくて、簾はあげず、下簾も薄色の裾すこし濃 き、次に女房の十、櫻の唐衣、薄色の裳、濃き衣、香染・薄色の表着ども、い みじうなまめかし。日はいとうららかなれど、空はみどりにかすみわたれるほ どに、女房の裝束のにほひあひて、いみじき織物、色々の唐衣などよりも、な まめかしうをかしきことかぎりなし。 △關白殿、その次々の殿ばら、おはするかぎり、もてかしづきわたしたてまつ らせ給ふさま、いみじくめでたし。これをまづ見たてまつり、めでさわぐ。此 の車どもの二十立て並べたるも、またをかしと見るらんかし。 △いつしか出でさせ給はなんと待ちきこえさするに、いとひさし。いかなるら んと心もとなく思ふに、からうじて采女八人、馬に乘せてひき出づ。青裾濃の 裳、裙帶・領布などの風に吹きやられたる、いとをかし。ふせという采女は、 典藥の頭重雅がしる人なりけり。葡萄染の織物の指貫を着たれば、「重雅は色 ゆるされにけり」など、山の井の大納言わらひ給ふ。 △みな乘りつづきて立てるに、今ぞ御輿出でさせ給ふ。めでたしと見たてまつ りつる御ありさまには、これはた、くらぶべからざりけり。 △朝日のはなばなとさしあがるほどに、水葱の花いときはやかにかがやきて、 御輿の帷子の色つやなどのきよらささへぞいみじき。御綱張りて出でさせ給ふ。 御輿の帷子のうちゆるぎたるほど、まことに、頭の毛など人のいふ、さらにそ らごとならず。さてのちは、髮あしからん人もかこちつべし。あさましういつ くしう、なほいかで、かかる御前に馴れ仕うまつるらんと、わが身もかしこう ぞおぼゆる。御輿過ぎさせ給ふほど、車の榻ども一たびにかきおろしたりつる、 また牛どもにただ掛けに掛けて、御輿の後につづけたる、心地めでたく興ある さま、いふかたもなし。 △おはしまし着きたれば、大門のもとに高麗・唐土の樂して、獅子・狛犬をど り舞ひ、亂聲の音、皷の聲にものもおぼえず。こは、いきての佛の國などに來 にけるにやあらんと、空に響きあがるやうにおぼゆ。 △内に入りぬれば、色々の錦のあげばりに、御簾いと青くかけわたし、屏幔ど も引きたるなど、すべてすべて、さらに此の世とおぼえず。御棧敷にさし寄せ たれば、また、この殿ばら立ち給ひて、「とう下りよ」とのたまふ。乘りつる 所だにありつるを、いますこしあかう顯證なるに、つくろひ添へたりつる髮も、 唐衣の中にてふくだみ、あやしうなりたらん、色の黒さ赤ささへ見え分かれぬ べきほどなるが、いとわびしければ、ふともえ下りず。「まづ、後なるこそは」 などいふほどに、それもおなじ心にや、「しぞかせ給へ。かたじけなし」など いふ。「恥ぢ給ふかな」とわらひて、からうじて下りぬれば、寄りおはして、 「「むねたかなどに見せで、隱しておろせ」と、宮の仰せらるれば來たるに、 思ひぐまなく」とて、ひきおろして率てまゐり給ふ。さ聞えさせ給ひつらんと 思ふも、いとかたじけなし。 △まゐりたれば、はじめ下りける人、物見えぬべき端に八人ばかりゐにけり。 一尺餘、二尺ばかりの長押の上におはします。「ここに、立ち隱して率てまゐ りたり」と申し給へば、「いづら」とて、御几帳のこなたに出でさせ給へり。 まだ御裳・唐の御衣たてまつりながらおはしますぞいみじき。くれなゐの御衣 どもよろしからんやは。中に唐綾の柳の御衣、葡萄染の五重がさねの織物に赤 色の唐の御衣、地摺の唐の薄物に、象眼重ねたる御裳などたてまつりて、もの の色などは、さらになべてのに似るべきやうもなし。 △「我をばいかが見る」と仰せらる。「いみじうなんさぶらひつる」なども、 言に出でては世のつねにのみこそ。「ひさしうやありつる。それは大夫の、院 の御供に着て人に見えぬる、おなじ下襲ながらあらば、人わろしと思ひなんと て、こと下襲縫はせ給ひけるほどに、おそきなりけり。いとすき給へりな」と てわらはせ給ふ。いとあきらかに、はれたる所は、いますこしぞけざやかにめ でたき。御額あげさせ給へりける御釵子に、分け目の御髮のいささか寄りてし るく見えさせ給ふさへぞ、聞えんかたなき。 △三尺の御几帳一よろひをさしちがへて、こなたの隔てにはして、そのうしろ に疊一ひらをながさまに縁を端にして、長押の上に敷きて、中納言の君といふ は、殿の御叔父の右兵衞の督忠君と聞えけるが御むすめ、宰相の君は、富の小 路の右の大臣の御孫、それ二人ぞ上にゐて、見給ふ。御覽じわたして、「宰相 はあなたに行きて、人どものゐたるところにて見よ」と仰せらるるに、心得て、 「ここにて、三人はいとよく見侍りぬべし」と申し給へば、「さば、入れ」と て召し上ぐるを、下にゐたる人々は、「殿上ゆるさるる内舍人なめり」とわら へど、「こは、わらはせむと思ひ給ひつるか」といへば、「むまさへのほどこそ」 などいへど、そこにのぼりゐて見るは、いとおもだたし。かかることなどぞみ づからいふは、吹き語りなどにもあり、また、君の御ためにも輕々しう、かば かりの人をさおぼしけんなど、おのづからも、もの知り、世の中もどきなどす る人は、あいなうぞ、かしこき御ことにかかりてかたじけなけれど、あること はまたいかがは。まことに身のほどに過ぎたることどももありぬべし。 △女院の御棧敷、所々の御棧敷ども見わたしたる、めでたし。殿の御前、この おはします御前より院の御棧敷にまゐり給ひて、しばしありて、ここにまゐら せ給へり。大納言二所、三位の中將は陣に仕うまつり給へるままに、調度負ひ て、いとつきづきしう、をかしうておはす。殿上人、四位・五位こちたくうち 連れ、御供にさぶらひて並みゐたり。 △入らせ給ひて見たてまつらせ給ふに、みな御裳・御唐衣、御匣殿までに着給 へり。殿の上は裳の上に小袿をぞ着給へる。「繪にかいたるやうなる御さまど もかな。いま一人は、今日は人々しかめるは」と申し給ふ。「三位の君、宮の 御裳ぬがせ給へ。この中の主君には、わが君こそおはしませ。御棧敷の前に陣 屋据ゑさせ給へる、おぼろげのことかは」とてうち泣かせ給ふ。げにと見えて、 みな人涙ぐましきに、赤色に櫻の五重の衣を御覽じて、「法服の一つ足らざり つるを、にはかにまどひしつるに、これをこそ返り申すべかりけれ。さらずは、 もしまた、さやうの物をとり占められたるか」とのたまはするに、大納言殿、 すこししぞきてゐ給へるが、聞き給ひて、「清僧都のにやあらん」とのたまふ。 一事としてめでたからぬことぞなきや。 △僧都の君、赤色の薄物の御衣、むらさきの御袈裟、いと薄き薄色の御衣ども、 指貫など着給ひて、頭つきの青くうつくしげに、地藏菩薩のやうにて、女房に まじりありき給ふも、いとをかし。「僧綱の中に威儀具足してもおはしまさで、 見ぐるしう、女房の中に」などわらふ。 △大納言殿の御棧敷より、松君ゐてたてまつる。葡萄染の織物の直衣、濃き綾 の打ちたる、紅梅の織物など着給へり。御供に例の四位・五位、いと多かり。 御棧敷にて、女房の中にいだき入れたてまつるに、なにごとのあやまりにか、 泣きののしり給ふさへ、いとはえばえし。 △ことはじまりて、一切經を蓮の花の赤き一花づつに入れて、僧俗・上達部・ 殿上人・地下・六位、なにくれまで持てつづきたる、いみじう尊し。導師まゐ り、かうはじまりて、舞ひなど、日ぐらしみるに、目もたゆくくるし。御使に 五位の藏人まゐりたり。御棧敷の前に胡床立ててゐたるなど、げにぞめでたき。 △夜さりつかた、式部の丞則理まゐりたり。「「やがて夜さり入らせ給ふべし。 御供にさぶらへ」と宣旨かうぶりて」とて、歸りもまゐらず。宮は、「まづ歸り てを」とのたまはすれど、また藏人の辨まゐりて、殿にも御消息あれば、ただ 仰せごとにて、入らせ給ひなんとす。 △院の御棧敷より、ちかの鹽竃などいふ御消息まゐり通ふ。をかしきものなど 持てまゐりちがひたるなどもめでたし。 △ことはてて、院還らせ給ふ。院司・上達部など、こたみはかたへぞ仕うまつ り給ひける。 △宮は内裏にまゐらせ給ひぬるも知らず、女房の從者どもは、二條の宮にぞお はしますらんとて、それにみな行きゐて、待てども待てども見えぬほどに、夜 いたうふけぬ。内裏には、宿直物もて來なんと待つに、きよう見え聞えず。あ ざやかなる衣どもの身にもつかぬを着て、寒きまま、いひ腹立てど、かひもな し。つとめて來たるを、「いかで、かく心もなきぞ」などいへど、のぶること もいはれたり。 △またの日、雨の降りたるを、殿は、「これになん、おのが宿世は見え侍りぬ る。いかが御覽ずる」と聞えさせ給へる、御心おごりもことわりなり。されど、 そのをり、めでたしと見たてまつりし御ことどもも、今の世の御ことどもに見 たてまつりくらぶるに、すべてひとつに申すべきにもあらねば、もの憂くて、 多かりしことどもも、みなとどめつ。 【二七九】△たふときこと△九條の錫杖。念佛の囘向。 【二八〇】△歌は△風俗。中にも、杉立てる門。神樂歌もをかし。今樣歌は長う てくせづいたり。 【二八一】△指貫は△むらさきの濃き。萠黄。夏は二藍。いと暑きころ、夏蟲の 色したるもすずしげなり。 【二八二】△狩衣は△香染の薄き。白き。ふくさ。赤色。松の葉色。青葉。櫻。 柳。また青き。藤。 △男はなにの色の衣をも着たれ。 【二八三】△單は△白き。日の裝束の、くれなゐの單の袙など、かりそめに着た るはよし。されど、なほ白きを。黄ばみたる單など着たる人は、いみじう心づ きなし。練色の衣どもなど着たれど、なほ單は白うてこそ。 【二八四】△下襲は△冬は躑躅。櫻。掻練襲。蘇枋襲。夏は二藍。白襲。 【二八五】△扇の骨は△朴。色は赤き。むらさき。みどり。 【二八六】△桧扇は△無紋。唐繪。 【二八七】△神は△松の尾。八幡、この國の帝にておはしましけむこそめでたけ れ。行幸などに、水葱の花の御輿にたてまつる、いとめでたし。大原野、春日 いとめでたくおはします。平野は、いたづら屋のありしを、「なにする所ぞ」 と問ひしに、「御輿宿」といひしも、いとめでたし。齋垣に蔦などのいと多く かかりて、もみぢの色々ありしも、「秋にはあへず」と貫之が歌思ひ出でられ て、つくづくとひさしうこそ立てられしか。みこもりの神、またをかし。賀茂、 さらなり。稻荷。 【二八八】△崎は△唐崎。三保が崎。 【二八九】△屋は△まろ屋。あづま屋。 【二九〇】△時奏する、いみじうをかし。いみじう寒き夜中ばかりなど、ごほご ほとごほめき、沓すり來て、弦うち鳴らしてなん、「何のなにがし、時丑三つ、 子四つ」など、はるかなる聲にいひて、時の杭さす音など、いみじうをかし。 「子九つ、丑八つ」などぞ、さとびたる人はいふ。すべて、なにもなにも、た だ四つのみぞ、杭にはさしける。 【二九一】△日のうらうらとある晝つかた、また、いといたう更けて、子の刻な どいふほどにもなりぬらんかし、おほとのごもりおはしましてにやなど、思ひ まゐらするほどに、「をのこども」と召したるこそ、いとめでたけれ。 △夜中ばかりに、御笛の聲の聞えたる、またいとめでたし。 【二九二】△成信の中將は、入道兵部卿の宮の御子にて、かたちいとをかしげに、 心ばへもをかしうおはす。伊豫の守兼資が女忘れて、親の伊豫へ率てくだりし ほど、いかにあはれなりけんとこそおぼえしか。あかつきに行くとて、今宵お はして、有明の月に歸り給ひけむ直衣姿などよ。 △その君、つねにゐてものいひ、人のうへなど、わるきはわるしなどのたまひ しに、物忌くすしう、つのかめなどにたててくふ物まつかいかけなどするもの の名を姓にて持たる人のあるが、こと人の子になりて、平などいへど、ただそ のもとの姓を、わかき人々ことぐさにてわらふ。ありさまもことなることもな し、をかしきかたなども遠きが、さすがに人にさしまじり、心などのあるを、 御前わたりも、見ぐるしなど仰せらるれど、はらぎたなきにや、告ぐる人もな し。 △一條の院に造らせ給ひたる一間のところには、にくき人はさらに寄せず。 東の御門につと向ひて、いとをかしき小廂に、式部のおもとともろともに夜 も晝もあれば、上もつねにもの御覽じに入らせ給ふ。「今宵は、うちに寢なん」 とて、南の廂に二人臥しぬる、のちにいみじう呼ぶ人のあるを、うるさしなど いひあはせて、寢たるやうにてあれば、なほいみじうかしがましう呼ぶを、 「それ、起せ。そら寢ならん」と仰せられければ、この兵部來て起せど、いみ じう寢入りたるさまなれば、「さらに起き給はざめり」といひに行きたるに、 やがてゐつきて、ものいふなり。しばしかと思ふに、夜いたう更けぬ。「權中 將にこそあなれ。こはなにごとを、かくゐてはいふぞ」とて、みそかに、ただ いみじうわらふも、いかでかは知らん。あかつきまでいひ明かして歸る。また、 「此の君、いとゆゆしかりけり。さらに、寄りおはせんにものいはじ。なにご とを、さはいひ明かすぞ」などいひわらふに、遣戸あけて、女は入り來ぬ。 △つとめて、例の廂に人のものいふを聞けば、「雨いみじう降るをりに來たる 人なんあはれなる。日ごろおぼつかなく、つらきこともありとも、さてぬれて 來たらんは、憂きこともみな忘れぬべし」とは、などていふにかあらん。さあ らんを、昨夜も、昨日の夜も、そがあなたの夜も、すべて、このごろ、うちし きり見ゆる人の、今宵いみじからん雨にさはらで來たらんは、なほ一夜もへだ てじと思ふなめりとあはれなりなん。さらで、日ごろも見えず、おぼつかなく て過ぐさむ人の、かかるをりにしも來んは、さらに心ざしのあるにはせじとこ そおぼゆれ。人の心々なるものなればにや。もの見知り、思ひ知りたる女の、 心ありと見ゆるなどを語らひて、あまた行くところもあり、もとよりのよすが などもあれば、しげくも見えぬを、なほさるいみじかりしをりに來たりし、な ど、人にも語りつがせ、ほめられんと思ふ人のしわざにや。それも、むげに心 ざしなからむには、げになにしにかは、作りごとにても見えんとも思はん。さ れど、雨のふる時に、ただむつかしう、今朝まではればれしかりつる空ともお ぼえず、にくくて、いみじき細殿、めでたき所とおぼえず。まいて、いとさら ぬ家などは、とく降りやみねかしとこそおぼゆれ。 △をかしきこと、あはれなることもなきものを、さて、月のあかきはしも、過 ぎにしかた、行く末まで、思ひ殘さるることなく、心もあくがれ、、めでたく、 あはれなること、たぐひなくおぼゆ。それに來たらん人は、十日、廿日、一月、 もしは一年も、まいて七八年ありて思ひ出でたらんは、いみじうをかしとおぼ えて、えあるまじうわりなきところ、人目つつむべきやうありとも、かならず 立ちながらも、ものいひてかへし、たま、とまるべからんは、とどめなどもし つべし。 △月のあかき見るばかり、ものの遠く思ひやられて、過ぎにしことの憂かりし も、うれしかりしも、をかしとおぼえしも、ただ今のやうにおぼゆるをりやは ある。こま野の物語は、なにばかりをかしきこともなく、ことばもふるめき、 見どころ多からぬも、月に昔を思ひ出でて、むしばみたる蝙蝠とり出でて、「も とみしこまに」といひてたづねたるが、あはれなるなり。 △雨は心もなきものと思ひしみたればにや、片時降るもいとにくくぞある。や むごとなきこと、おもしろかるべきこと、たふとうめでたかべいことも、雨だ に降れば、いふかひなくくちをしきに、なにか、そのぬれてかこち來たらんが めでたからん。 △交野の少將もどきたる落窪の少將などはをかし。昨夜・一昨日の夜もありし かばこそ、それもをかしけれ。足洗ひたるぞにくき。きたなかりけん。 △風などの吹き、あらあらしき夜來たるは、たのもしくて、うれしうもありな ん。 △雪こそめでたけれ。「忘れめや」などひとりごちて、忍びたることはさらな り、いとさあらぬ所も、直衣などはさらにもいはず、うへのきぬ、藏人の青色 などの、いとひややかにぬれたらんは、いみじうをかしかべし。緑衫なりとも、 雪にだにぬれなばにくかるまじ。昔の藏人は、夜など、人のもとにも、ただ青 色を着て、雨にぬれても、しぼりなどしけるとか。今は晝だに着ざめり。ただ 緑衫のみうちかづきてこそあめれ。衞府などの着たるは、まいていみじうをか しかりしものを。かく聞きて、雨にありかぬ人やあらんとすらむ。 △月のいみじうあかき夜、紙のまたいみじう赤きに、ただ、「あらずとも」と 書きたるを、廂にさし入りたる月にあてて、人の見しこそをかしかりしか。雨 降らんをりは、さはありなんや。 【二九三】△つねに文おこする人の、「なにかは。いふにもかひなし。いまは」 といひて、またの日音もせねば、さすがに、明けたてばさし出づる文の見えぬ こそさうざうしけれ、と思ひて、「さても、きはぎはしかりける心かな」とい ひてくらしつ。 △またの日、雨のいたく降る、晝まで音もせねば、「むげに思ひ絶えにけり」 などいひて、端のかたにゐたる、夕ぐれに、かささしたる者の持てきたる文を、 つねよりもとくあけて見れば、ただ、「水●す雨の」とある、いと多くよみ出 しつる歌どもよりもをかし。 【二九四】△今朝はさしも見えざりつる空の、いと暗うかき曇りて、雪のかきく らし降るに、いと心ぼそく見出すほどもなく、白うつもりて、なほいみじう降 るに、隨身めきてほそやかなる男の、かささして、そばのかたなる塀の戸より 入りて、文をさし入れたるこそをかしけれ。いと白きみちのくに紙、白き色紙 の結びたる、上に引きわたしける墨のふと凍りにければ、末薄になりたるをあ けたれば、いとほそく卷きて結びたる、卷目はこまごまとくぼみたるに、墨の いと黒う、薄く、くだりせばに、裏表かきみだりたるを、うち返しひさしう見 るこそ、なにごとならんと、よそにて見やりたるもをかしけれ。まいて、うち ほほゑむ所はいとゆかしけれど、遠うゐたるは、黒き文字などばかりぞ、さな めりとおぼゆるかし。 △額髮長やかに、面やうよき人の、暗きほどに文を得て、火ともすほども心も となきにや、火桶の火をはさみあげて、たどたどしげに見ゐたるこそをかしけ れ。 【二九五】△きらきらしきもの△大將の御前驅追ひたる。孔雀經の御讀經。御修 法。五大尊のも。御齋會。藏人の式部の丞の、白馬の日大路練りたる。その日、 靱負の佐の摺衣やうする。尊勝王の御修法。季の御讀經。熾盛光の御讀經。 【二九六】△神のいたう鳴るをりに、雷鳴の陣こそいみじうおそろしけれ。左右 の大將、中・少將などの御格子のもとにさぶらひ給ふ、いといとほし。鳴りは てぬるをり、大將仰せて、「おり」とのたまふ。 【二九七】△坤元録の御屏風こそをかしうおぼゆれ。漢書の屏風はををしくぞ 聞えたる。月次の御屏風もをかし。 【二九八】△節分違などして夜ふかく歸る、寒きこといとわりなく、おとがひな ど落ちぬべきを、からうじて來着きて、火桶ひき寄せたるに、火のおほきにて、 つゆ黒みたる所もなくめでたきを、こまかなる灰のなかよりおこし出でたるこ そ、いみじうをかしけれ。 △また、ものなどいひて、火の消ゆらんも知らずゐたるに、こと人の來て、炭 入れておこすこそいとにくけれ。されど、めぐりに置きて、中に火をあらせた るはよし。みなほかざまに火をかきやりて、炭を重ね置きたるいただきに火を 置きたる、いとむつかし。 【二九九】△雪のいと高う降りたるを、例ならず御格子まゐりて、炭櫃に火おこ して、物語などして集りさぶらふに、「少納言よ、香爐峯の雪いかならん」と 仰せらるれば、御格子あげさせて、御簾を高くあげたれば、わらはせたまふ。 △人々も、「さることは知り、歌などにさへ歌へど、思ひこそよらざりつれ。 なほ、此の宮の人には、さべきなめり」といふ。 【三〇〇】△陰陽師のもとなる小わらはべこそ、いみじう物は知りたれ。祓など しに出でたれば、祭文など讀むを、人はなほこそ聞け、ちうと立ち走りて、 「酒・水いかけさせよ」ともいはぬに、しありくさまの、例知り、いささか主 に物いはせぬこそうらやましけれ。さらん者がな、使はんとこそおぼゆれ。 【三〇一】△三月ばかり、物忌しにとて、かりそめなる所に、人の家に行きたれ ば、木どもなどのはかばかしからぬ中に、柳といひて、例のやうになまめかし うはあらず、ひろく見えてにくげなるを、「あらぬものなめり」といへど、「か かるもあり」などいふに、 △△さかしらに柳の眉のひろごりて春のおもてを伏する宿かな とこそ見ゆれ。 △その頃、またおなじ物忌しに、さやうの所に出で來るに、二日といふ日の晝 つかた、いとつれづれまさりて、ただ今もまゐりぬべき心地するほどにしも、 仰せごとのあれば、いとうれしくて見る。淺緑の紙に、宰相の君いとをかしげ に書い給へり。 △△いかにして過ぎにしかたを過ぐしけんくらしわづらふ昨日今日かな となん。私には、「今日しも千年の心地するに、あかつきにはとく」とあり。 此の君ののたまひたらんだにをかしかべきに、まして、仰せごとのさまはおろ かならぬ心地すれば、 △△雲の上もくらしかねける春の日を所がらともながめつるかな 私には、「今宵のほども、少將にやなり侍らんとすらん」とて、あかつきに まゐりたれば、「昨日の返し、「かねける」いとにくし。いみじうそしりき」と 仰せらるる、いとわびし。まことにさることなり。 【三〇二】△十二月廿四日、宮の御佛名の半夜の導師聞きて出づる人は、夜中ば かりも過ぎにけんかし。 △日ごろ降りつる雪の今日はやみて、風などいたう吹きつれば、垂氷いみじう しだり、地などこそむらむら白き所がちなれ、屋の上は、ただおしなべて白き に、あやしき賎の屋も雪にみな面隱しして、有明の月のくまなきに、いみじう をかし。白銀などを葺きたるやうなるに、水晶の瀧などいはましやうにて、長 く、短く、ことさらにかけわたしたると見えて、いふにもあまりてめでたきに、 下簾もかけぬ車の、簾をいと高うあげたれば、奧までさし入りたる月に、薄 色・白き・紅梅など、七つ八つばかり着たるうへに、濃き衣のいとあざやかな る、つやなど月にはえて、をかしう見ゆる、かたはらに、葡萄染の固紋の指貫、 白き衣どもあまた、山吹・くれなゐなど着こぼして、直衣のいと白き、紐を解 きたればぬぎ垂れられ、いみじうこぼれ出でたり。指貫の片つかたは軾のもと に踏み出したるなど、道に人あひたらば、をかしと見つべし。 △月のかげのはしたなさに、うしろざまにすべり入るを、つねにひき寄せ、あ らはになされてわぶるもをかし。凛々として氷鋪けり」といふことを、かへ すがへす誦しておはするは、いみじうをかしうて、夜一夜もありかまほしきに、 行く所の近うなるもくちをし。 【三〇三】△宮仕する人々の出で集りて、おのが君々の御ことめできこえ、宮の うち、殿ばらのことども、かたみに語りあはせたるを、その家あるじにて聞く こそをかしけれ。 △家ひろくきよげにて、わが親族はさらなり、うち語らひなどする人も、宮仕 人をかたがたに据ゑてこそあらせまほしけれ。さべきをりはひとところに集り ゐて物語し、人のよみたりし歌、なにくれと語りあはせて、人の文など持て來 るも、もろともに見、返りごと書き、また、むつまじう來る人もあるは、きよ げにうちしつらひて、雨など降りてえ歸らぬも、をかしうもてなし、まゐらん をりは、そのこと見入れ、思はんさまにして出しいでなどせばや。 △よき人のおはしますありさまなどのいとゆかしきこそ、けしからぬ心にや。 【三〇四】△見ならひするもの△あくび。ちごども。 【三〇五】△うちとくまじきもの△えせもの。さるは、よしと人にいはるる人よ りも、うらなくぞ見ゆる。船の路。 【三〇六】△日のいとうららかなるに、海の面いみじうのどかに、淺みどり打 ちたるをひきわたしたるやうにて、いささかおそろしきけしきもなきに、わか き女などの袙・袴など着たる、侍の者のわかやかなるなど、櫓といふもの押し て、歌をいみじう謠ひたるは、いとをかしう、やむごとなき人などにも見せた てまつらまほしう思ひ行くに、風いたう吹き、海の面ただあしにあしうなるに、 ものもおぼえず、とまるべき所に漕ぎ着くるほどに、船に浪のかけたるさまな ど、かた時に、さばかりなごかりつる海とも見えずかし。 △思へば、船に乘りてありく人ばかり、あさましうゆゆしきものこそなけれ。 よろしき深さなどにてだに、さるはかなきものに乘りて漕ぎ出づべきにもあら ぬや。まいて、そこひも知らず、千尋などあらんよ。ものをいと多く積み入れ たれば、水際はただ一尺ばかりだになきに、下衆どものいささかおそろしとも 思はで走りありき、つゆあしうもせば沈みやせんと思ふを、大きなる松の木な どの二三尺にてまろなる、五つ六つ、ほうほうと投げ入れなどするこそいみじ けれ。 △屋形といふもののかたにておす。されど、奧なるはたのもし。端にて立てる 者こそ目くるる心地すれ。早緒とつけて、櫓とかにすげたるものの弱げさよ。 かれが絶えば、なににかならん。ふと落ち入りなんを。それだに太くなどもあ らず。わが乘りたるは、きよげに造り、妻戸あけ、格子あげなどして、さ水と ひとしう下りげになどあらねば、ただ家の小さきにてあり。 △小舟を見やるこそいみじけれ。遠きはまことに笹の葉を作りてうち散らした るにこそいとよう似たれ。とまりたる所にて、船ごとにともしたる火は、また いとをかしう見ゆ。 △はし舟とつけて、いみじう小さきに乘りて漕ぎありく、つとめてなどいとあ はれなり。跡の白浪は、まことにこそ消えもて行け。よろしき人は、なほ乘り てありくまじきこととこそおぼゆれ。徒歩路もまたおそろしかなれど、それは いかにもいかにも地に着きたれば、いとたのもし。 △海はなほいとゆゆしと思ふに、まいて海女のかづきしに入るは憂きわざなり。 腰に着きたる緒の絶えもしなば、いかにせんとならん。男だにせましかば、さ てもありぬべきを、女はなほおぼろげの心ならじ。舟にをとこは乘りて、歌な どうち謠ひて、この栲繩を海に浮けてありく、あやふくうしろめたくはあらぬ にやあらん。のぼらんとて、その繩をなん引くとか。惑ひ繰り入るるさまぞこ とわりなるや。舟の端をおさへて放ちたる息などこそ、まことにただ見る人だ にしほたるるに、落し入れてただよひありく男は、目もあやにあさましかし。 【三〇七】△右衞門の尉なりける者の、えせなる男親を持たりて、人の見るにお もてぶせなりとくるしう思ひけるが、伊豫の國よりのぼるとて、浪に落し入れ けるを、「人の心ばかり、あさましかりけることなし」とあさましがるほどに、 七月十五日、盆たてまつるとていそぐを見給ひて、道命阿闍梨、 △△わたつ海に親おし入れてこの主の盆する見るぞあはれなりける。 とよみ給ひけんこそをかしけれ。 【三〇八】△小原の殿の御母上とこそは、普門といふ寺にて八講しける、聞きて、 またの日小野殿に、人々いと多く集りて、遊びし、文作りてけるに、 △△薪こることは昨日に盡きにしをいざ斧の柄はここに朽たさん とよみ給ひたりけんこそいとめでたけれ。 △ここもとは打聞になりぬるなめり。 【三〇九】△また、業平の中將のもとに、母の皇女の、「いよいよ見まく」との たまへる、いみじうあはれにをかし。ひき開けて見たりけんこそ思ひやらるれ。 【三一〇】△をかしと思ふ歌を草子などに書きて置きたるに、いふかひなき下衆 のうち謠ひたるこそ、いと心憂けれ。 【三一一】△よろしき男を下衆女などのほめて、「いみじうなつかしうおはしま す」などいへば、やがて思ひおとされぬべし。そしらるるはなかなかよし。下 衆にほめらるるは、女だにいとわるし。また、ほむるままにいひそこなひつる ものは。 【三一二】△左右の衞門の尉を、判官といふ名つけて、いみじうおそろしう、か しこき者に思ひたるこそ。夜行し、細殿などに入り臥したる、いと見ぐるしか し。布の白袴、几帳にうちかけ、うへのきぬの長くところせきをわがねかけた る、いとつきなし。太刀の後にひきかけなどして立ちさまよふは、されどよし。 青色をただつねに着たらば、いかにをかしからん。「見し有明ぞ」と誰いひけん。 【三一三】△大納言殿まゐり給ひて、ふみのことなど奏し給ふに、例の、夜いた くふけぬれば、御前なる人々、一人二人づつ失せて、御屏風・御几帳のうしろ などに、みなかくれ臥しぬれば、ただ一人、ねぶたきを念じてさぶらふに、 「丑四つ」と奏すなり。「明け侍りぬなり」とひとりごつを、大納言殿、「いま さらに、なおほとのごもりおはしましそ」とて、寢べきものとも思いたらぬを、 うたて、なにしにさ申しつらんと思へど、また人のあらばこそはまぎれも臥さ め。上の御前の、柱に寄りかからせ給ひて、すこし眠らせ給ふを、「かれ、見 たてまつらせ給へ。いまは明けぬるに、かうおほとのごもるべきかは」と申さ せ給へば、「げに」など、宮の御前にもわらひきこえさせ給ふも、知らせ給は ぬほどに、長女が童の、にはとりを捕へ持て來て、「あしたに里へ持て行かん」 といひて隱し置きたりける、いかがしけん、犬見つけて追ひければ、廊のまき に逃げ入りて、おそろしう鳴きののしるに、みな人起きなどしぬなり。上もう ちおどろかせ給ひて、「いかでありつる鷄ぞ」などたづねさせ給ふに、大納言殿 の、「聲明王の眠りを驚かす」といふことを、高ううち出し給へる、めでたうを かしきに、ただ人のねぶたかりつる目もいと大きになりぬ。「いみじきをりの ことかな」と、上も宮も興ぜさせ給ふ。なほ、かかることこそめでたけれ。 △またの夜は、夜の御殿にまゐらせ給ひぬ。夜中ばかりに、廊に出でて人呼べ ば、「下るるか。いで、送らん」とのたまへば、裳・唐衣は屏風にうちかけて 行くに、月のいみじうあかく、御直衣のいと白う見ゆるに、指貫を長う踏みし だきて、袖をひかへて、「到るな」といひて、おはするままに、「遊子なほ殘り の月に行く」と誦し給へる、またいみじうめでたし。 △「かやうの事、めで給ふ」とては、わらひ給へど、いかでか、なほをかしき ものをば。 【三一四】△僧都の御乳母のままなど、御匣殿の御局にゐたれば、男のある、板 敷のもと近う寄り來て、「からい目を見さぶらひて。誰にかはうれへ申し侍ら ん」とて、泣きぬばかりのけしきにて、「なにごとぞ」と問へば、「あからさま にものにまかりたりしほどに、侍る所の燒け侍りにければ、がうなのやうに、 人の家に尻をさし入れてのみさぶらふ。馬づかさの御秣積みて侍りける家より 出でまうで來て侍るなり。ただ垣を隔てて侍れば、夜殿に寢て侍りけるわらは べも、ほとほと燒けぬべくてなん。いささかものもとうで侍らず」などいひを るを、御匣殿も聞き給ひて、いみじうわらひ給ふ。 △△みまくさをもやすばかりの春の日に夜殿さへなど殘らざるらん と書きて、「これをとらせ給へ」とて投げやりたれば、わらひののしりて、「こ のおはする人の、家燒けたなりとて、いとほしがりて賜ふなり」とて、とらせ たれば、ひろげて、「これは、なにの御短册にか侍らん。物いくらばかりにか」 といへば、「ただ讀めかし」といふ。「いかでか。片目もあきつかうまつらでは」 といへば、「人にも見せよ。ただいま召せば、とみにて上へまゐるぞ。さばか りめでたき物を得ては、なにをか思ふ」とて、みなわらひまどひ、のぼりぬれ ば、人にや見せつらん、里に行きていかに腹立たんなど、御前にまゐりてまま の啓すれば、またわらひさわぐ。御前にも、「など、かく物狂ほしからん」と わらはせ給ふ。 【三一五】△男は、女親亡くなりて、男親の一人ある、いみじう思へど、心わづ らはしき北の方出で來てのちは、内にも入れ立てず、裝束などは、乳母、また 故上の御人どもなどしてせさす。 △西東の對のほどに、まらうど居などをかし。屏風・障子の繪も見どころあ りて住まひたり。殿上のまじらひのほど、くちをしからず人々も思ひ、上も御 けしきよくて、つねに召して、御遊などのかたきにおぼしめしたるに、なほつ ねにものなげかしく、世の中心にあはぬ心地して、すきずきしき心ぞ、かたは なるまであべき。 △上達部の、またなきさまにてもかしづかれたる妹一人あるばかりにぞ、思 ふ事うち語らひ、なぐさめ所なりける。 【三一六】△ある女房の、遠江の子なる人を語らひてあるが、おなじ宮人をなん しのびて語らふと聞きて、うらみければ、「親などもかけて誓はせ給へ。いみ じきそらごとなり。ゆめにだに見ず」となんいふは、いかがいふべき、といひ しに、 △△誓へ君遠江の神かけてむげに濱名のはし見ざりきや 【三一七】△びんなき所にて、人にものをいひけるに、胸のいみじう走りけるを、 「など、かくある」といひける人に、 △△あふさかは胸のみつねに走り井の見つくる人やあらんと思へば 【三一八】△「まことにや、やがては下る」といひたる人に、 △△思ひだにかからぬ山のさせも草誰かいぶきのさとはつげしぞ 一本 △「きよしと見ゆるもの」の次に 【一】△夜まさりするもの△濃き掻練のつや。むしりたる綿。 △女は額はれたるが髮うるはしき。琴の聲。かたちわろき人のけはひよき。ほ ととぎす。瀧の音。 【二】△火かげにおとるもの△むらさきの織物。藤の花。すべて、その類はみな おとる。くれなゐは月夜にぞわろき。 【三】△聞きにくきもの△聲にくげなる人の、ものいひ、わらひなど、うちとけ たるけはひ。ねぶりて陀羅尼讀みたる。齒黒めつけてものいふ聲。ことなるこ となき人は、もの食ひつつもいふぞかし。篳篥習ふほど。 【四】△文字に書きてあるやうあらめど心得ぬもの△炒鹽。袙。帷子。屐子。●。 桶舟。 【五】△下の心かまへてわろくてきよげに見ゆるもの△唐繪の屏風。石灰の壁。 盛物。桧皮葺の屋の上。かうしりの遊。 【六】△女の表着は△薄色。葡萄染。萠黄。櫻。紅梅。すべて、薄色の類。 【七】△唐衣は△赤色。藤。夏は二藍。秋は枯野。 【八】△裳は△大海。 【九】△汗衫は△春は躑躅。櫻。夏は青朽葉。朽葉。 【一〇】△織物は△むらさき。白き。紅梅もよけれど、見ざめこよなし。 【一一】△綾の紋は△葵。かたばみ。あられ地。 【一二】△薄樣色紙は△白き。むらさき。赤き。刈安染。青きもよし。 【一三】△硯の箱は△重ねの蒔繪に雲鳥の紋。 【一四】△筆は△冬毛。使ふもみめもよし。うの毛。 【一五】△墨は△まろなる。 【一六】△貝は△うつせ貝。蛤。いみじうちひささき梅の花貝。 【一七】△櫛の箱は△蠻繪、いとよし。 【一八】△鏡は△八寸五分。 【一九】△蒔繪は△唐草。 【二〇】△火桶は△赤色。青色。白きに作繪もよし。 【二一】△疊は△高麗縁。また、黄なる地の縁。 【二二】△檳榔毛は、のどかにやりたる。 △網代は、走らせ來る。 【二三】△松の木立高き所の東・南の格子あげわたしたれば、すずしげに透きて 見ゆる母屋に、四尺の几帳立てて、その前に圓座置きて、四十ばかりの僧のい ときよげなる、墨染の衣、薄物の袈裟、あざやかに裝束きて、香染の扇をつか ひ、せめて陀羅尼を讀みゐたり。 △もののけにいたう惱めば、移すべき人とて、おほきやかなる童の、生絹の單 あざやかなる、袴長う着なして、ゐざり出でて、横ざまに立てたる几帳のつら にゐたれば、外樣にひねり向きて、いとあざやかなる獨鈷をとらせて、うち拜 みて讀む陀羅尼もたふとし。 △見證の女房あまた添ひゐて、つとまもらへたり。ひさしうもあらでふるひ出 でぬれば、もとの心失せて、おこなふままに從ひ給へる、佛の御心もいとたふ としと見ゆ。 △せうと・從兄弟なども、みな内外したり。たふとがりて集りたるも、例の心 ならば、いかにはづかしと惑はん。みづからは苦しからぬことと知りながら、 いみじうわび泣いたるさまの心くるしげなるを、憑き人の知り人どもなどは、 らうたく思ひ、けぢかくゐて、衣ひきつくろひなどす。 △かかるほどに、よろしくて、「御湯」などいふ。北面にとりつぐわかき人ども は、心もとなく、ひきさげながら、いそぎ來てぞ見るや。單どもいときよげに、 薄色の裳など萎えかかりてはあらず、きよげなり。 △いみじうことわりなどいはせて、ゆるしつ。「几帳の内にありとこそ思ひし か。あさましくもあらはに出でにけるかな。いかなることありつらん」と、は づかしくて、髮をふりかけてすべり入れば、「しばし」とて、加持すこしうち して、「いかにぞや、さわやかになり給ひたりや」とてうち笑みたるも、心は づかしげなり。「しばしもさぶらふべきを、時のほどになり侍りぬれば」など まかり申しして出づれば、「しばし」など留むれど、いみじういそぎ歸る所に、 上臈とおぼしき人、簾のもとにゐざり出でて、「いとうれしく立ち寄らせ給へ るしるしに、たへがたう思ひ給へつるを、ただ今おこたりたるやうに侍れば、 かへすがへすなんよろこびきこえさする。明日も、御いとまのひまにはものせ させ給へ」となんいひつつ、「いと執念き御もののけに侍るめり。たゆませ給は ざらむ、よう侍るべき。よろしうものせさせ給ふなるを、よろこび申し侍る」 と言すくなにて出づるほど、いとしるしありて佛のあらはれ給へるとこそおぼ ゆれ。 【二四】△きよげなるわらはべの髮うるはしき、また、おほきなるが、髭は生ひ たれど、思はずに髮うるはしき、うちしたたかに、むくつけげに多かるなど、 おほくて、いとまなうここかしこに、やむごとなう、おぼえあるこそ、法師も あらまほしげなるわざなれ。 【二五】△宮仕所は△内裏。后の宮。その御腹の一品の宮など申したる。齋院、 罪ふかかなれどをかし。まいて、よの所は。また春宮の女御の御かた。 【二六】△荒れたる家の蓬ふかく、葎這ひたる庭に、月のくまなくあかくすみの ぼりて見ゆる。また、さやうの荒れたる板間よりもりくる月。荒うはあらぬ風 の音。 【二七】△池ある所の五月長雨のころこそいとあはれなれ。菖蒲・菰など生ひこ りて、水もみどりなるに、庭もひとつ色に見えわたりて、曇りたる空をつくづ くとながめくらしたるは、いみじうこそあはれなれ。いつも、すべて、池ある 所はあはれにをかし。冬も、氷したるあしたなどはいふべきにもあらず。わざ とつくろひたるよりも、うち捨てて水草がちに荒れ、青みたる絶え間絶え間よ り、月かげばかりは白々と映りて見えたるなどよ。 △すべて、月かげは、いかなる所にてもあはれなり。 【二八】△長谷にまうでて局にゐたりしに、あやしき下臈どもの、うしろをうち まかせつつ居並みたりしこそねたかりしか。 △いみじき心起してまゐりしに、川の音などのおそろしう、呉階をのぼるほど など、おぼろげならず困じて、いつしか佛の御前をとく見たてまつらん、と思 ふに、白衣着たる法師、蓑蟲などのやうなる者ども集りて、立ちゐ額づきなど して、つゆばかり所もおかぬけしきなるは、まことにこそねたくおぼえて、お し倒しもしつべき心地せしか。いづくもそれはさぞあるかし。 △やむごとなき人などのまゐり給へる、御局などの前ばかりをこそ拂ひなども すれ、よろしき人は制しわづらひぬめり。さは知りながらも、なほさしあたり てさるをりをり、いとねたきなり。 △はらひ得たる櫛、あかに落し入れたるもねたし。 【二九】△女房のまゐりまかでには、人の車を借るをりもあるに、いと心ようい ひて貸したるに、牛飼童、例のしもしよりもつよくいひて、いたう走り打つも、 あなうたてとおぼゆるに、男どものものむつかしげなるけしきにて、「とう遣れ。 夜ふけぬさきに」などいふこそ、主の心推しはかられて、またいひふれんとも おぼえね。 △業遠の朝臣の車のみや、夜中曉わかず人の乘るに、いささかさる事なかりけ れ。ようこそ教へ習はしけれ。それに、道にあひたりける女車の、ふかき所に 落し入れて、えひき上げで、牛飼の腹立ちければ、從者して打たせさへしけれ ば、ましていましめおきたるこそ。 【三一九】△この草子、目に見え心に思ふ事を、人やは見んとすると思ひて、つ れづれれなる里居のほどに書き集めたるを、あいなう、人のためにびんなきいひ すぐしもしつべき所々もあれば、よう隱し置きたりと思ひしを、心よりほかに こそ漏り出でにけれ。 △宮の御前に、内の大臣のたてまつり給へりけるを、「これになにを書かまし。 上の御前には史記といふ書をなん書かせ給へる」などのたまはせしを、「枕にこ そは侍らめ」と申ししかば、「さば、得てよ」とて賜はせたりしを、あやしきを、 こよやなにやと、つきせず多かる紙を、書きつくさんとせしに、いとものおぼ えぬ事ぞ多かるや。 △おほかたこれは、世の中にをかしきこと、人のめでたしなど思ふべき、なほ 選り出でて、歌などをも、木・草・鳥・蟲をも、いひ出したらばこそ、「思ふ ほどよりはわろし。心見えなり」とそしられめ、ただ心ひとつに、おのづから 思ふ事を、たはぶれに書きつけたれば、ものに立ちまじり、人なみなみなるべ き耳をも聞くべきものかはと思ひしに、「はづかしき」なんどもぞ、見る人はし 給ふなれば、いとあやしうあるや。げに、そもことわり、人のにくむをよしと いひ、ほむるをもあしといふ人は、心のほどこそおしはからるれ。ただ、人に 見えけんぞねたき。 △左中將、まだ伊勢の守と聞えし時、里におはしたりしに、端のかたなりし疊 さし出でしものは、この草子載りて出でにけり。まどひとり入れしかど、やが て持ておはして、いとひさしくありてぞ返りたりし。それよりありきそめたる なめり。とぞほんに。 -------------------------------------------------------------------------------- 本稿は、 国文学研究資料館編「日本古典文学本文データベース」所収のデータを基に 一部改変して成したものである。