遣唐使の墓誌発見…「魂は故郷へ」と異国の死刻む 【西安(中国陝西省)=竹腰雅彦】8世紀初めに日本から中国・唐(618―907)に渡り、 現地で客死した遣唐使随行の留学生の墓誌(734年)が見つかったと、西北大学(西安市)が10日、発表した。  中国で古代の日本人の墓誌が見つかったのは初めてで、「日本」の国号が記された中国最古の例。 謎に包まれている遣唐使の実像に迫る貴重な資料として注目される。  墓誌は死者の事績を記した墓石で、発見された墓誌は高さ、幅とも約39センチのほぼ正方形。 上に載せられた蓋石(ふたいし)の上面に12文字、本体に171文字が刻まれていた。  「姓は井、字は真成。国号は日本。天賦の才能をもって、唐に渡り、勉学にいそしんだ。 学問を修め、官吏として朝廷に仕えた。礼儀正しさは比類のないほどだった。 しかし、開元22年(734年)正月、急病のため36歳で死去した。 皇帝は死を悼み、尚衣奉御という官職を贈った。2月4日、サン水(さんすい)のほとりに埋葬した。 遺体は異国の土となったが、魂は故郷へ帰る」などと記されていた。 「尚衣奉御」は皇帝の衣服を管理する部署の長のこと。 当時の玄宗皇帝(在位712―756年)の信頼が相当あつかったことがうかがわれ、 「かなり親しい人物だったのではないか」と、調査にあたった西北大の王建新教授は推測している。  「井真成」は中国名(唐名)で、日本側の記録にないため、該当する人物は特定されていない。 阿倍仲麻呂(あべのなかまろ)、吉備真備(きびのまきび)などが派遣された717年の遣唐使の一員とみられる。  墓誌の具体的な発見日時は明らかにされていないが、記述内容から、 西安中心部から東に10キロほどのサン水付近に埋設されたと考えられる。(「サン水」のサンはさんずいに産)  ◆「遣唐使船」の著書もある東野治之・奈良大学教授(日本古代史)の話 「中国で亡くなった遣唐使の随員を初めて考古学的に裏付けた点で極めて重要。 遣唐使が中国で、どのような待遇を受けていたかを知る上でも非常に興味深い」  ◆遣唐使=630年の犬上御田鍬(いぬかみのみたすき)を最初として、唐に派遣された使節。 894年に菅原道真の建議によって廃止されるまで、20回の任命があり、うち16回が実際に渡航。 唐の先進的文化がもたらされ、律令国家確立に大きな役割を果たした。 派遣された主な人物は、山上憶良(やまのうえのおくら)、空海、最澄ら。 (2004/10/11/01:54 読売新聞 無断転載禁止) -------------------------------------------------------------------------------- 遣唐留学生の墓誌を発見 玄宗皇帝が官位贈る 中国西安市  唐(618-907年)の都、長安があった中国西安市で、 奈良時代の717年に阿倍仲麻呂らとともに遣唐使の一員として唐へ渡り、 勉学途中に客死した留学生の生前の功績を記した墓誌が見つかった。 同市の西北大学が10日発表した。中国で古代日本人の墓誌が見つかったのは初めて。  遣唐留学生の日常活動はほとんど分かっていないが、 墓誌には猛勉強ぶりや玄宗皇帝が死を惜しんで官位を贈ったことなどが記されており、 古代の日中交流史を解明する一級史料となる。  東野治之奈良大教授(古代史)は「中国で遣唐留学生が大事にされたことを示す素晴らしい発見」と話している。 また「国は日本」とあり、 日本が大宝律令(701年)で定めた国名を中国側も認めていたことを示す最古の実物史料となる。  発表によると、墓誌は一辺39センチの正方形の石で、表面に171字が刻まれていた。 西安市内の工事現場で見つかり個人が収蔵していたものを西北大の博物館員が収集した。  墓誌は「姓は井、名は真成、国は日本。生来の才能があり、礼儀の正しさは比類なく、勉学に努めた。 開元22年(734年)に36歳で死去。皇帝が悼み『尚衣奉御』を贈り、 ●(●=サンズイに産)水のほとりで葬った」などとし 「異国に埋葬するが、魂は故郷に帰ることを願う」と結んでいた。  井は、中国風に姓を1字に変えたもので、真成は本名とみられる。 日本や中国の文献には相当する名前はなく、全く無名の人物。 東野教授は渡来系の葛井(ふじい)氏の一族と推定している。 尚衣奉御は皇帝に衣服をささげる職場の長で皇帝と親しい人物が就いた役職。日本では下位の貴族に相当する。  墓誌は唐へ渡った年は記していないが、西北大は死亡時の年齢などから717年と推定。 次の遣唐使船は死亡前年の733年に到着し、翌年帰国の途に就いた。 井はこの便で帰る予定だった可能性が高いという。  遣唐使は唐の法制や文化を摂取する目的で630年から838年まで派遣が続き、留学生はその一員だった。(共同)  ■阿倍仲麻呂 奈良時代の文人。19歳で遣唐留学生に選ばれ717年、遣唐使に従って唐に渡った。 唐で官吏を歴任後、752年に入唐した遣唐使、藤原清河や吉備真備らとともに帰国することを許可され、 鑑真らを伴って蘇州から出港したが、船が安南(現在のベトナム)に漂着、長安に戻った。 その後も多くの官職を歴任、73歳で長安で死去した。 唐の官吏として活躍した唯一の日本人といってよく、その学識・文才は吉備真備とともに知られた。 李白ら中国の文人とも交友があった。(共同) ≪墓誌全文≫  中国西安市で見つかった墓誌の全文は次の通り。(□は不明字、句読点は西北大による)  公姓井、字真成、国号日本。才称天縦、故能□命遠邦、馳騁上国。踏礼楽、襲衣冠、束帯□朝。 難与儔矣。豈図強学不倦、聞道未終、□遇移舟、隙逢奔駟。以開元廿二年正月□日、乃終于官弟。春秋卅六。 皇上□傷、追崇有典。詔贈尚衣奉御、葬令官□。 即以其年二月四日●(●=穴カンムリに乏)于万年県●(●=サンズイに産)水□原、礼也。 嗚呼、素車暁引、丹●(●=施の也が兆)行哀。嗟遠□兮頽暮日、指窮郊兮悲夜台。 其辞曰、□乃天常、哀茲遠方。形既埋于異土、魂庶帰于故郷。 ≪墓誌の読み下し≫  東野治之奈良大教授による墓誌の日本語読み下し文は次の通り。(□は不明字)  公は姓は井、字(あざな)は真成。国は日本と号す。 才、天の縦(ゆるせ)るにかなう。ゆえによく命を遠邦に□し、騁(てい=馬)を上国に馳す。 礼楽を踏みて衣冠を襲い、束帯して朝に□す。ともに儔(たぐ=比較)こと難し。 あに図らんや、学につとめてうまず道を聞くことまだ終わらざるに、□に移舟にあい、 隙(げき)、奔駟(ほんし)にあわんとは(=急死を表す定形文)。 開元二十二年正月□日、官弟(=政府の与えた宿舎)に終わる。春秋三十六。 皇上、□く傷みて、追崇するに典(=決まり)あり、詔して尚衣奉御を贈り、葬は官をして□せしむ。 すなわちその年二月四日をもって、万年県の●(●=サンズイに産)水の□原にほうむる。礼なり。 ああ、素車(=白い車)暁に引き、丹●(●=施の也が兆)(ちょう=旗)、哀を行う。 遠□をなげきて暮日にたおれ、窮郊におもむきて夜台に悲しむ。 その辞にいわく、□はそれ天の常、この遠方なるを哀しむ。 形は既に異土に埋もれ、魂は故郷に帰らんことを庶(こいねが)う、と。 ≪墓誌の要旨≫  遣唐留学生の墓誌の要旨は次の通り。 一、姓は井、字(あざな)は真成。国は日本。生来の才能があり、よって命により、遠い国から唐に派遣された。 一、礼儀正しさは比類なく、勉学に努めて飽きなかったが、突然の出来事により、  開元22年正月に36歳で、国の宿舎で亡くなった。 一、皇帝は(死を)悼み「尚衣奉御」を贈り、2月4日に万年県の★水(現在の★河)のほとりで国費により葬った。 一、白い馬車と旗をあげた葬列により盛大な葬儀が行われた。  参列者は遠くに落ちる夕日を見て、ため息をつき、墓場を指さして悲しんだ。 一、(死は)自然の理だが、日本の人々も悲しんでいるだろう。  遺骨は異国に埋葬するが、魂は故郷に帰ることを願う。(共同) (★=サンズイに産) ◇  中国西安市で見つかった遣唐留学生の墓誌は、初めてという価値だけでなく、 あらためて遣唐使が古代国家の確立に果たした歴史的役割をクローズアップさせる発見だ。  墓誌の主は717年の遣唐使船で渡航し、734年の遣唐使船で帰国する直前に死亡したとみられる。 この2回の遣唐使は、日本史の中でも注目される。 一緒に渡航した留学生・僧の中には、帰国後に橘諸兄政権のブレーンとして活躍した吉備真備と僧玄●(げんぼう)、 それに帰国がかなわず唐政府の高官となった阿倍仲麻呂がいた。  仲麻呂以外は、帰国して出世しなければ名が残らない地方下級氏族の出身で、 奈良朝廷は、唐の制度・文化の摂取とともに、次代の官僚育成も狙い、無名でも優秀な若手を選んだとみられる。  734年に唐を出発した遣唐使船で真備と玄●が帰国し、 東大寺大仏開眼の導師を務めたインド僧・菩提僊那も来日した。 戒律師を招くため僧栄叡らが、行きの便で入唐したことも見逃せない。 熱意に応えて苦難の末に来日を果たしたのが鑑真で、奈良時代の重要人物が多数からんでいる。  墓誌の研究が進めば、ほとんど分からなかった留学生の活動ぶりだけでなく、 遣唐使の歴史的意味も一層明確になるだろう。日本人墓地が特定され、仲麻呂の墓誌も発見されるかもしれない。 (●=日ヘンに方) 産経新聞(10/10 22:40) -------------------------------------------------------------------------------- 中国・西安で遣唐使の墓誌発見 皇帝に仕えた日本人判明  唐の都・長安のあった中国・西安で、8世紀前半に阿倍仲麻呂らとともに遣唐使として渡りながら、 現地で亡くなった日本人留学生の墓誌(死者の簡単な伝記)が見つかった。 その人生や、死を惜しんだ玄宗皇帝が高官の役職を贈ったことなどが記されていた。 この時代の日本人の墓誌が中国で発見されたのは初めて。 古代東アジアの交流や、遣唐使の実態を伝える前例のない発見といえる。 西安で10日開かれた記者会見で発表されたと、中国国営新華社通信が伝えた。  西安の西北大学博物館が最近入手したもので、 39.5センチ四方の石に、名前は「井真成」で「国号日本」など12行で171文字が刻まれていた。 生まれつき優秀、国命で派遣され勉学に励み、宮廷で役職についたが、急病で開元22(734)年に36歳で死去、 魂は故郷に帰るだろう、といったことが記されている。  現存の実物資料としては国号「日本」が使用された最古の例となる。  共同通信によると、西安市内の工事現場で見つかり個人が収蔵していたものを西北大の博物館員が収集した。  当時の遣唐使は十数年に一度の不定期。年齢から、717年の遣唐使に19歳で留学生として参加したとみられる。 奈良に都を移してから初の遣唐使にあたる。 仲麻呂や吉備真備、僧玄●(●は日へんに方)(げんぼう)らに乗組員を加えた、総勢557人の回だ。  遣唐使の参加者は、唐で活躍した仲麻呂のほかは、日本で五位以上の官位を持つ参加者しか記録されていないため、 この人物に該当する記述はなく、日本名などは分からない。  死後に皇帝から贈られたのは、その近くに仕える「尚衣奉御」(尚衣局の責任者)という、従五品上の役職。 中国の官位は一~九品に分かれ、五品以上が皇帝の前に出ることができる殿上人だ。 唐で役人として出世したほぼ同年齢の仲麻呂は、真成が死亡した年に従五品下に昇格しており、 2人は似たコースを歩んでいた可能性が強い。仲麻呂は安南節度使(ベトナム地方の長官)にまで昇進している。  墓誌には朝廷内の役職についていたことを示唆する記述はあるが、実際にどのような役職だったのかは記されていない。  氣賀澤保規・明治大教授(中国史)による銘文の抄訳は以下の通り。  「姓は井、字(あざな)は真成、国は日本と号す。生まれつき優秀で、国命で遠く唐にやってきて、一生懸命努力した。 学問を修め、正式な官僚として朝廷に仕え、活躍ぶりは抜きんでていた。 ところが思わぬことに、急に病気になり開元22年の1月に官舎で亡くなった。36歳だった。 皇帝は大変残念に思い、特別な扱いで埋葬することにした。尚衣奉御の位を贈った。 2月4日に万年県の川のほとりに埋葬した。体はこの地に埋葬されたが、魂は故郷に帰るにちがいない」  町田章・奈良文化財研究所所長(考古学)の話  阿倍仲麻呂とともに養老元年の遣唐使で行った留学生と見て間違いないだろう。 遣唐使の中でも平安に入ってからのものは比較的記録が残っているが、 奈良時代の遣唐使については続日本紀などに断片的に記録が残っているだけ。 留学生についても、帰ってきて政治家や高僧として成功すれば伝記や紀行文の記録が残るが、 若くして向こうに渡ったとすれば日本側の資料では「その他大勢」でしかなく、名前が残らないのも当然と言える。 遣唐使の歴史を解明する上で、非常に重要な発見だ。 朝日新聞(10/10 22:04) -------------------------------------------------------------------------------- 遣唐留学生:墓誌を初発見 日中交流史に新たな側面 中国 【北京・大谷麻由美】新華社通信によると、中国陝西省西安市にある西北大学は10日、 中国・唐時代(618~907年)に日本から中国に渡った1人の遣唐留学生が客死したことを記す 墓誌を同市内で発見したと発表した。 この留学生は奈良時代、阿部仲麻呂らとともに遣唐使の一員として中国に渡ったと見られる。 中国で当時の日本人の墓誌が発見されたのは初めて。 墓誌は、ほとんど知られていない遣唐留学生の実態を伝えており、 日中交流史の新たな側面を浮き彫りにする貴重な発見と言える。  また同通信は、この墓誌には「国号日本」と書かれており、 中国で確認されている漢文の実物資料のうち、「日本」という国名が出てくる最も古いものであると報じた。  発表によると、西北大学の博物館が最近収蔵した墓誌は、ほぼ正方形の石製(一辺約39.5センチ)。 文字は篆書(てんしょ)で、全部で12行、171字から成る。  墓誌は、遣唐留学生について「姓は井、名は真成、国号日本」で、豊富な知識と勉学に励んだ業績を評価している。 「井真成」は官職として宮廷に仕えたが「開元22年」(西暦734年)に36歳で死去。 死後、皇帝の衣服を管理し直接皇帝に仕えることができる「尚衣奉御」という 高位の職を授与されたことも付記されている。 墓誌には、玄宗皇帝(在位712~756年)がその死を悼んで盛大な葬儀を行ったとの記述もあり、 「亡骸は異国の地にあるが、魂は故郷に帰ることを願う」と結んでいる。  「尚衣奉御」という役職から、「井真成」は唐で官吏として出世した仲麻呂に匹敵する人物だった可能性がある。 また墓誌にある死亡年齢などから717年に 仲麻呂や、帰国して右大臣になった吉備真備ら557人が参加した遣唐使として中国に渡った可能性が強い。  遣唐留学生の中では、仲麻呂や吉備真備、空海らの名が残っているが、日本側に「井真成」の記録はない。 中国名のうえ、日本で高位の官職に就いてなかったためと見られる。  ◇「井真成」はどんな人物か  遣唐留学生として唐の都・長安で活躍した日本人の墓誌が見つかった。 「井真成」と記された留学生はどんな人物だったのだろうか。識者に聞いた。  ◇勉学状況明らかに  東野治之・奈良大教授(日本古代史)の話  遣唐留学生の墓誌発見は初めてというだけでなく、 留学生の勉学状況や死亡後の待遇などこれまでよく分からなかった留学生の状況を具体的に明らかにする 極めて重要な資料。 墓誌は一般に良いことを書くので、事実かどうかわからないこともあるが、 皇帝が高い官職を与えて葬らせたとあり、大変優秀な人物だったと考えられる。 振る舞いが礼儀にかなっていたともあることから、儒学を学びに行ったと思われる。  ◇もう一人の仲麻呂  鈴木靖民・国学院大教授(日本古代史)の話  遣唐使の役割、目的などは文献では分かっていたが、同時代の生の史料が見つかったのは初めてで、 日中交流史、日本の古代文化史を具体的に想像できる第一級の史料だ。 (「井」という中国姓は)現在の大阪府藤井寺市一帯を本拠とした渡来系の 「井上忌寸(いみき)」という一族ではないか。一族の中でも特に優秀で、コネもあったのだろう。 死後に贈られた、皇帝の衣服を管理する役職「尚衣奉御」は従五品上(官位)に相当するが、 ほぼ同じ年齢で、ともに唐に派遣された阿倍仲麻呂は同じころ、従五品下に昇格しており、 「もう一人の阿倍仲麻呂」ともいえるだろう。 毎日新聞 2004年10月10日 20時57分 -------------------------------------------------------------------------------- 遣唐留学生の墓誌を初発見、功績を石に記す・中国西安市  【西安(中国陝西省)10日共同】唐(618―907年)の都、長安があった中国西安市で、 717年に阿倍仲麻呂らとともに遣唐使に加わって唐へ渡り、 勉学途中に客死した遣唐留学生の生前の功績を記す墓誌が見つかったと、西北大学(同市)が10日発表した。 中国で古代日本人の墓誌が見つかったのは初めて。  奈良・平安時代に文化の摂取のため唐へ渡った遣唐留学生の実態は謎に包まれており、 古代の日中交流史を解明する一級史料として注目される。 墓誌は一辺40センチの石で、表面に171字刻まれていた。 「姓は井、名は真成。国号は日本。開元22年(734年)に36歳で死去した。 人品が良く、知識が豊富で、学習に努力した」との内容が記され、 国の期待を背負い必死に学んだ様子がうかがえる。 唐の第六代玄宗皇帝(在位712―756年)が死を惜しみ、 日本の貴族に相当する官位を贈ったことも明らかになった。〔共同〕 日本経済新聞(21:15) -------------------------------------------------------------------------------- 唐の都、もう一人の仲麻呂がいた? 墓誌発見の日本人  奈良時代、唐の都・長安(現・西安)に渡り活躍した一人の日本人の存在が浮かび上がった。 中国の西安で発見された墓誌には、 留学生として中国に渡り、懸命に学びながら36歳で亡くなった「井真成」の人生が記されていた。 1200年以上前の、日中交流の一場面を描き出す驚きの発見。 阿倍仲麻呂と同じ717年の遣唐使船に乗り合わせたとみられるが、日本では記録は見つかっていない。 どんな人物だったのか、「もう一人の仲麻呂」像を描いてみると……。  ◇最大の手掛かりは「井」という中国姓だ。  鈴木靖民・国学院大教授(日本古代史)は、井を日本名の痕跡と考え、「井上」という一族に注目する。 現在の大阪府藤井寺市一帯を本拠とし、忌寸(いみき)という渡来系に多い姓(かばね)を与えられていた。 遣唐使など外交官の任務につくものが多く出ているという。  「遣唐使に参加できるのは、特に優秀か、特別なコネがある、限られた人物。 高級官僚になるための試験・科挙にも合格したかもしれない。そのためには何より語学力が必要だった」として、 「一族きっての秀才で井上真成という名前の若者だったのではないか」と考える。  東野治之・奈良大教授(日本古代史)は渡来系の氏族、「葛井(ふじい)氏」の出身ではないかと考える。 葛井寺(藤井寺市藤井寺)の創建にかかわった河内の貴族で、飛鳥から奈良時代にかけて、遣唐使などを多く出した。 「ふじいのまなり――という名前だったのでは」と推定する。  「皇帝が死を惜しんで官位を追贈したという。こうした厚遇を受けるのは非常に異例のことだ。 よほど優秀な留学生だったのだろう」とみる。  贈られた役職は「尚衣奉御」。石見清裕・早稲田大助教授(中国史)によると、殿中省尚衣局の責任者だという。 殿中省は王宮内の管理が業務で、尚衣局は皇帝の衣服関係を担当。奉御はその責任者で2人いた。 部下は20人程度で、「部長」的な役回りだったようだ。  当時の長安は人口100万人の世界一の国際都市。行政や法律の仕組みなどを学ぶために渡った日本の留学生は、 いつ来るかわからない次の遣唐使船を待ちながら、勉学、職務に励んだ。 実際には次に遣唐使が日本を出発したのは、733年。 懸命に学び知識を蓄えた井真成は734年の1月に死亡した。 最初の一隻が唐からの帰国の途についたのはその年の秋。 故郷に錦を飾るのを目前にした死だったようだ。墓誌には「無念」を思いやる記述が残っている。 〈阿倍仲麻呂とは〉墓誌の人物とともに留学生として唐に渡った阿倍仲麻呂は玄宗皇帝にその才能を認められ、 朝衡(ちょうこう)などと名を変えて唐王朝の要職を担った。 一度は帰国の途に就いたが船が難破して安南(現在のベトナム)に漂着。 再び長安に戻り、安南節度使などを歴任して770年に中国で亡くなった。 その名は「続日本紀」などに見える。 李白や王維ら一級の文化人とも交遊し、彼らの惜別や哀悼の詩にもうたわれている。 「天の原ふりさけ見れば春日なる三笠の山にいでし月かも」という歌でも知られる。 朝日新聞(10/10 22:11)