伊勢物語 校定本文  一 △むかし、おとこ、うゐかうぶりして、平城の京、春日の里にしるよしして、 狩に往にけり。その里に、いとなまめいたる女はらから住みけり。このおとこ、 かいまみてけり。おもほえずふるさとに、いとはしたなくてありければ、心地 まどひにけり。おとこの著たりける狩衣の裾を切りて、歌を書きてやる。その おとこ、しのぶずりの狩衣をなむ著たりける。 △△かすが野の若紫のすり衣しのぶのみだれ限り知られず となむをいつきていひやりける。ついでおもしろきことともや思(ひ)けん。 △△みちのくの忍(ぶ)もぢずり誰ゆへにみだれそめにし我ならなくに といふ歌の心ばへなり。昔人は、かくいちはやきみやびをなんしける。  二 △むかし、おとこ有(り)けり。ならの京は離れ、この京は人の家まださだまら ざりける時に、西の京に女ありけり。その女、世人にはまされりけり。その人、 かたちよりは心なんまさりたりける。ひとりのみもあらざりけらし。それをか のまめ男、うち物語らひて、歸り來て、いかゞ思ひけん、時はやよひのついた ち、雨そをふるに遣りける。 △△起きもせず寢もせで夜をあかしては春の物とてながめ暮らしつ  三 △むかし、おとこありけり。懸想じける女のもとに、ひじきもといふ物をやる とて、 △△思ひあらば葎の宿に寢もしなんひじきものには袖をしつゝも △二條の后のまだ帝にも仕うまつり給はで、たゞ人にておはしましける時のこ と也。  四 △むかし、東の五條に大后の宮おはしましける、西の對に住む人有(り)けり。 それを本意にはあらで心ざしふかゝりける人、行きとぶらひけるを、む月の十 日ばかりのほどに、ほかにかくれにけり。ありどころは聞けど、人の行き通ふ べき所にもあらざりければ、猶憂しと思ひつゝなんありける。又の年のむ月に、 むめの花ざかりに、去年を戀ひて行きて、立ちて見、ゐて見見れど、去年に似 るべくもあらず。うち泣きて、あばらなる板敷に月のかたぶくまでふせりて、 去年を思(ひ)いでてよめる。 △△月やあらぬ春や昔の春ならぬわが身ひとつはもとの身にして とよみて、夜のほの※※と明くるに、泣く++歸りにけり。  五 △むかし、おとこ有(り)けり。東の五條わたりにいと忍びていきけり。密なる 所なれば、門よりもえ入らで、童べの踏みあけたる築地のくづれより通ひけ り。人しげくもあらねど、たびかさなりければ、あるじきゝつけて、その通ひ 路に、夜ごとに人をすへてまもらせければ、いけどもえ逢はで歸りけり。さて よめる。 △△人知れぬわが通ひ路の關守はよひ++ごとにうちも寢ななん とよめりければ、いといたう心やみけり。あるじゆるしてけり。 △二條の后に忍びてまいりけるを、世の聞えありければ、兄人たちのまもらせ 給ひけるとぞ。  六 △むかし、おとこありけり。女のえ得まじかりけるを、年を經てよばひわたり けるを、からうじて盜み出でて、いと暗きに來けり。芥川といふ河を率ていき ければ、草の上にをきたりける露を、「かれは何ぞ」となんおとこに問ひける。 ゆくさき多く夜もふけにければ、鬼ある所とも知らで、神さへいといみじう鳴 り、雨もいたう降りければ、あばらなる藏に、女をば奧にをし入れて、おとこ、 弓●を負ひて戸口に居り。はや夜も明けなんと思(ひ)つゝゐたりけるに、鬼 はや一口に食ひてけり。「あなや」といひけれど、神鳴るさはぎにえ聞かざりけ り。やう++夜も明けゆくに、見れば率て來し女もなし。足ずりをして泣けど もかひなし。 △△白玉かなにぞと人の問ひし時露と答へて消えなましものを △これは、二條の后のいとこの女御の御もとに、仕うまつるやうにてゐ給へり けるを、かたちのいとめでたくおはしければ、盜みて負ひていでたりけるを、 御兄人堀河の大臣、太郎國經の大納言、まだ下らうにて内へまいり給ふに、い みじう泣く人あるをきゝつけて、とゞめてとりかへし給うてけり。それをかく 鬼とはいふなりけり。まだいと若うて、后のたゞにおはしける時とや。  七 △むかし、おとこありけり。京にありわびて、あづまにいきけるに、伊勢、お はりのあはひの海づらを行くに、浪のいと白く立つを見て、 △△いとゞしく過ぎゆく方の戀しきにうら山しくもかへる浪かな となむよめりける。  八 △むかし、おとこ有(り)けり。京や住み憂かりけん、あづまの方に行きて住み 所もとむとて、ともとする人ひとりふたりして行きけり。信濃の國、淺間の嶽 にけぶりの立つを見て、 △△信濃なる淺間の嶽にたつ煙をちこち人の見やはとがめぬ  九 △むかし、おとこありけり。そのおとこ、身をえうなき物に思(ひ)なして、京 にはあらじ、あづまの方に住むべき國求めにとて行きけり。もとより友とする 人ひとりふたりしていきけり。道知れる人もなくて、まどひいきけり。三河の 國、八橋といふ所にいたりぬ。そこを八橋といひけるは、水ゆく河の蜘蛛手な れば、橋を八つわたせるによりてなむ八橋といひける。その澤のほとりの木の 蔭に下りゐて、乾飯食ひけり。その澤にかきつばたいとおもしろく咲きたり。 それを見て、ある人のいはく、「かきつばたといふ五文字を句の上にすへて、 旅の心をよめ」といひければ、よめる。 △△から衣きつゝなれにしつましあればはる※※きぬる旅をしぞ思(ふ) とよめりければ、皆人、乾飯のうへに涙おとしてほとびにけり。 △行き++て、駿河の國にいたりぬ。宇津の山にいたりて、わが入らむとする 道は、いと暗う細きに、つたかえでは茂り、物心ぼそく、すゞろなるめを見る ことと思ふに、修行者あひたり。「かゝる道はいかでかいまする」といふを見れ ば、見し人なりけり。京に、その人の御もとにとて、文書きてつく。 △△駿河なる宇津の山べのうつゝにも夢にも人にあはぬなりけり △富士の山を見れば、五月のつごもりに、雪いと白う降れり。 △△時知らぬ山は富士の嶺いつとてか鹿の子まだらに雪のふるらん △その山は、こゝにたとへば、比叡の山を二十ばかり重ねあげたらんほどして、 なりは鹽尻のやうになんありける。 △猶行き++て、武藏の國と下つ總の國との中に、いと大きなる河あり。それ をすみだ河といふ。その河のほとりにむれゐて思ひやれば、限りなくとをくも 來にけるかなとわびあへるに、渡守、「はや舟に乘れ、日も暮れぬ」といふに、 乘りて渡らんとするに、皆人物わびしくて、京に思ふ人なきにしもあらず。さ るおりしも、白き鳥の嘴と脚と赤き、鴫の大きさなる、水のうへに遊びつゝ魚 をくふ。京には見えぬ鳥なれば、皆人見知らず。渡守に問ひければ、「これな ん宮こどり」といふをきゝて、 △△名にし負はばいざ事とはむ宮こ鳥わが思ふ人はありやなしやと とよめりければ、舟こぞりて泣きにけり。  十 △むかし、おとこ、武藏の國までまどひありきけり。さて、その國に在る女を よばひけり。父はこと人にあはせむといひけるを、母なんあてなる人に心つけ たりける。父はなおびとにて、母なん藤原なりける。さてなんあてなる人にと 思ひける。このむこがねによみてをこせたりける。住む所なむ入間の郡、みよ し野の里なりける。 △△みよし野のたのむの雁もひたぶるに君が方にぞよると鳴くなる △むこがね、返し、 △△わが方によると鳴くなるみよし野のたのむの雁をいつか忘れん となむ。人の國にても、猶かゝることなんやまざりける。  十一 △むかし、おとこ、あづまへ行きけるに、友だちどもに、みちよりいひをこせ ける。 △△忘るなよほどは雲ゐになりぬとも空ゆく月のめぐり逢ふまで  十二 △むかし、おとこ有(り)けり。人のむすめをぬすみて、武藏野へ率て行くほど に、ぬす人なりければ、國の守にからめられにけり。女をば草むらのなかにを きて、逃げにけり。道來る人、「この野はぬす人あなり」とて、火つけむとす。 女、わびて、 △△武藏野はけふはな燒きそ若草のつまもこもれり我もこもれり とよみけるをきゝて、女をばとりて、ともにゐていにけり。  十三 △昔、武藏なるおとこ、京なる女のもとに、「聞ゆれば恥づかし、聞えねば苦 し」と書きて、うはがきに、「むさしあぶみ」と書きてをこせてのち、をとも せずなりにければ、京より女、 △△武藏鐙(むさしあぶみ)さすがにかけて頼むにはとはぬもつらしとふもうるさし とあるを見てなむたへがたき心地しける。 △△とへばいふとはねば恨む武藏鐙かゝるおりにや人は死ぬらん  十四 △むかし、おとこ、みちの國にすゞろに行きいたりにけり。そこなる女、京の 人はめづらかにや覺えけん、せちに思へる心なんありける。さて、かの女、 △△中++に戀に死なずは桑子にぞなるべかりける玉の緒ばかり 歌さへぞひなびたりける。さすがにあはれとや思ひけん、いきて寢にけり。夜 深く出でにければ、女、 △△夜も明けばきつにはめなでくたかけのまだきに鳴きてせなをやりつる といへるに、おとこ、京へなんまかるとて、 △△栗原のあれはの松の人ならば都のつとにいざといはましを といへりければ、よろこぼひて、「思ひけらし」とぞいひ居りける。  十五 △むかし、みちの國にて、なでうことなき人の妻に通ひけるに、あやしうさや うにてあるべき女ともあらず見えければ、 △△しのぶ山忍びて通ふ道も哉人の心のおくも見るべく △女、かぎりなくめでたしと思へど、さるさがなきえびす心を見ては、いかゞ はせんは。  十六 △むかし、紀の有常といふ人有(り)けり。み世の帝につかうまつりて、時に遇 ひけれど、後は世かはり時うつりにければ、世の常の人のごともあらず。人が らは、心うつくしくあてはかなることを好みて、こと人にも似ず。貧しく經て も、猶昔よかりし時の心ながら、世の常のことも知らず。年ごろあひ馴れたる 妻、やう++床離れて、つゐに尼になりて、姉のさきだちてなりたる所へ行く を、おとこ、まことにむつましきことこそなかりけれ、今はと行くを、いとあ はれと思(ひ)けれど、貧しければ、するわざもなかりけり。思ひわびて、ねむ ごろに相語らひける友だちのもとに、「かう++今はとてまかるを、何事もい さゝかなることもえせで、遣はすこと」と書きて、おくに、 △△手を折りてあひ見し事をかぞふればとおといひつゝ四つは經にけり △かの友だち、これを見て、いとあはれと思ひて、夜の物までをくりてよめる。 △△年だにもとおとて四つは經にけるをいくたび君をたのみ來ぬらん △かくいひやりたりければ、 △△これやこのあまの羽衣むべしこそ君がみけしとたてまつりけれ △よろこびにたへで、又、 △△秋や來る露やまがふと思ふまであるは涙の降るにぞ有(り)ける  十七 △年ごろをとづれざりける人の、櫻のさかりに見に來たりければ、あるじ、 △△あだなりと名にこそたてれ櫻花年にまれなる人も待ちけり △返し、 △△けふ來ずはあすは雪とぞ降りなまし消えずはありとも花と見ましや  十八 △むかし、なま心ある女ありけり。おとこ近う有(り)けり。女、歌よむ人なり ければ、心見むとて、菊の花のうつろへるを折りて、おとこのもとへやる。 △△紅ににほふはいづら白雪の枝もとをゝに降るかとも見ゆ △おとこ、知らずよみによみける。 △△紅ににほふがうへの白菊はおりける人の袖かとも見ゆ  十九 △昔、おとこ、宮づかへしける女の方に、御達なりける人をあひ知りたりける、 ほどもなくかれにけり。同じところなれば、女の目には見ゆる物から、おとこ はある物かとも思(ひ)たらず。女、 △△天雲のよそにも人のなりゆくかさすがに目には見ゆる物から とよめりければ、おとこ、返し、 △△天雲のよそにのみしてふることはわがゐる山の風はやみ也 とよめりけるは、又おとこある人となんいひける。  二十 △むかし、おとこ、大和にある女を見て、よばひてあひにけり。さて、ほど經 て、宮づかへする人なりければ、歸りくる道に、やよひばかりに、かえでのも みぢのいとおもしろきを折りて、女のもとに道よりいひやる。 △△君がためたおれる枝は春ながらかくこそ秋のもみぢしにけれ とてやりたりければ、返事は京に來著きてなん持てきたりける。 △△いつの間にうつろふ色のつきぬらん君が里には春なかるらし  二十一 △むかし、おとこ女、いとかしこく思ひかはして、異心なかりけり。さるをい かなる事かありけむ、いさゝかなることにつけて、世(の)中をうしと思ひて、 出でて去なんと思ひて、かゝる歌をなんよみて、物に書きつけける。 △△出でて去なば心輕しといひやせん世のありさまを人は知らねば とよみをきて、出でて去にけり。この女かく書きをきたるを、異しう、心をく べきこともおぼえぬを、何によりてかかゝらむと、いといたう泣きて、いづか たに求め行かむと門に出でて、と見かう見みけれど、いづこをはかりとも覺え ざりければ、かへり入りて、 △△思ふかひなき世なりけり年月をあだにちぎりて我や住まひし といひてながめ居り。 △△人はいさ思ひやすらん玉かづら面影にのみいとゞ見えつゝ この女いと久しくありて、念じわびてにやありけん、いひをこせたる。 △△今はとて忘るゝ草のたねをだに人の心にまかせずも哉 △返し、 △△忘草植ふとだに聞く物ならば思(ひ)けりとは知りもしなまし △又++ありしより異にいひかはして、おとこ、 △△わする覽と思(ふ)心のうたがひにありしよりけに物ぞかなしき △返し、 △△中空に立ゐる雲のあともなく身のはかなくもなりにける哉 とはいひけれど、をのが世々になりにければ、うとくなりにけり。  二十二 △むかし、はかなくて絶えにけるなか、猶や忘れざりけん、女のもとより、 △△憂きながら人をばえしも忘れねばかつ恨みつゝ猶ぞ戀しき といへりければ、「さればよ」といひて、おとこ、 △△あひ見ては心ひとつをかはしまの水の流れて絶えじとぞ思(ふ) とはいひけれど、その夜いにけり。いにしへゆくさきのことどもなどいひて、 △△秋の夜の千夜を一夜になずらへて八千夜し寢ばやあく時のあらん △返し、 △△秋の夜の千夜を一夜になせりともことば殘りてとりや鳴きなん △いにしへよりもあはれにてなむ通ひける。  二十三 △むかし、田舍わたらひしける人の子ども、井のもとに出でてあそびけるを、 大人になりにければ、おとこも女も恥ぢかはしてありけれど、おとこはこの女 をこそ得めと思ふ。女はこのおとこをと思ひつゝ、親のあはすれども、聞かで なんありける。さて、この隣のおとこのもとよりかくなん。 △△筒井つの井筒にかけしまろがたけ過ぎにけらしな妹見ざるまに △女、返し、 △△くらべこし振分髮も肩すぎぬ君ならずして誰かあぐべき などいひ++て、つゐに本意のごとくあひにけり。 △さて、年ごろ經るほどに、女、親なくたよりなくなるまゝに、もろともにい ふかひなくてあらんやはとて、かうちの國、高安の郡に、いきかよふ所出でき にけり。さりけれど、このもとの女、惡しと思へるけしきもなくて、出しやり ければ、おとこ、こと心ありてかゝるにやあらむと思ひうたがひて、前栽の中 にかくれゐて、かうちへいぬる顏にて見れば、この女、いとよう假粧じて、う ちながめて、 △△風吹けば沖つ白浪たつた山夜半にや君がひとりこゆらん とよみけるをきゝて、限りなくかなしと思ひて、河内へもいかずなりにけり。 △まれ++かの高安に來て見れば、はじめこそ心にくもつくりけれ、今はうち とけて、手づからいゐがひとりて、笥子のうつわ物に盛りけるを見て、心うが りていかずなりにけり。さりければ、かの女、大和の方を見やりて、 △△君があたり見つゝを居らん生駒山雲なかくしそ雨は降るとも といひて見いだすに、からうじて、大和人來むといへり。よろこびて待つに、 たび++過ぎぬれば、 △△君來むといひし夜ごとに過ぎぬれば頼まぬ物の戀ひつゝぞふる といひけれど、おとこ住まずなりにけり。  二十四 △むかし、おとこ、片田舍にすみけり。おとこ、宮づかへしにとて、別れおし みてゆきけるまゝに、三年こざりければ、待ちわびたりけるに、いとねむごろ にいひける人に、今宵あはむとちぎりたりけるに、このおとこきたりけり。 「この戸あけたまへ」とたゝきけれど、あけで、歌をなんよみて出したりける。 △△あらたまの年の三年を待ちわびてたゞ今宵こそにゐまくらすれ といひいだしたりければ、 △△梓弓ま弓槻弓年をへてわがせしがごとうるはしみせよ といひて、去なむとしければ、女、 △△梓弓引けど引かねど昔より心は君によりにし物を といひけれど、おとこかへりにけり。女、いとかなしくて、しりにたちてをひ ゆけど、えをいつかで、清水のある所に伏しにけり。そこなりける岩に、およ びの血して書きつけける。 △△あひ思はで離れぬる人をとゞめかねわが身は今ぞ消えはてぬめる と書きて、そこにいたづらになりにけり。  二十五 △むかし、おとこ有(り)けり。あはじともいはざりける女の、さすがなりける がもとに、いひやりける。 △△秋の野に笹わけし朝の袖よりも逢はでぬる夜ぞひぢまさりける △色好みなる女、返し、 △△見るめなきわが身をうらと知らねばやかれなで海人の足たゆく來る  二十六 △むかし、おとこ、五條わたりなりける女をえ得ずなりにけることと、わびた りける、人の返(り)ごとに、 △△思ほえず袖にみなとのさはぐ哉もろこし舟の寄りし許に  二十七 △昔、おとこ、女のもとに一夜いきて、又もいかずなりにければ、女の、手洗 ふ所に貫簀をうち遣りて、たらひのかげに見えけるを、みづから、 △△我許物思(ふ)人は又もあらじと思へば水の下にも有(り)けり とよむを、來ざりけるおとこ立ちきゝて、 △△水口に我や見ゆらんかはづさへ水の下にて諸聲になく  二十八 △むかし、色好みなりける女、出でていにければ、 △△などてかくあふごかたみになりにけん水もらさじと結びしものを  二十九 △むかし、春宮の女御の御方の花の賀に、召しあづけられたりけるに、 △△花にあかぬ歎きはいつもせしかども今日のこよひに似る時はなし  三十 △むかし、おとこ、はつかなりける女のもとに、 △△逢ふことはたまのを許おもほえてつらき心の長く見ゆらん  三十一 △むかし、宮の内にて、ある御達の局の前を渡りけるに、何のあたにか思(ひ) けん、「よしや草葉よ、ならんさが見む」といふ。おとこ、 △△罪もなき人をうけへば忘草をのが上にぞ生ふといふなる といふを、ねたむ女もありけり。  三十二 △むかし、物いひける女に、年ごろありて、 △△いにしへのしづのをだまき繰りかへし昔を今になすよしも哉 といへりけれど、何とも思はずやありけん。  三十三 △むかし、おとこ、津の國、むばらの郡にかよひける女、このたびいきては、 又は來じと思へるけしきなれば、おとこ、 △△葦邊より滿ちくる潮のいやましに君に心を思(ひ)ます哉 △返し、 △△こもり江に思ふ心をいかでかは舟さすさほのさして知るべき △ゐなか人の事にては、よしやあしや。  三十四 △むかし、おとこ、つれなかりける人のもとに、 △△いへばえにいはねば胸にさはがれて心ひとつに歎くころ哉 △おもなくていへるなるべし。  三十五 △むかし、心にもあらで絶えたる人のもとに、 △△玉の緒をあはおによりて結べれば絶えての後もあはむとぞ思(ふ)  三十六 △昔、「忘れぬるなめり」と問言しける女のもとに、 △△谷せばみ峯まで延へる玉かづら絶えむと人にわが思はなくに  三十七 △昔、おとこ、色好みなりける女に逢へりけり。うしろめたくや思(ひ)けん、 △△我ならで下紐とくなあさがほの夕影またぬ花にはありとも △返し、 △△二人してむすびし紐をひとりしてあひ見るまでは解かじとぞ思(ふ)  三十八 △むかし、紀の有常がりいきたるに、歩きてをそく來けるに、よみてやりける。 △△君により思(ひ)ならひぬ世(の)中の人はこれをや戀といふらん △返し、 △△ならはねば世の人ごとに何をかも戀とはいふと問ひし我しも  三十九 △むかし、西院の帝と申すみかどおはしましけり。その帝のみこたかい子と申 すいまそがりけり。そのみこうせ給(ひ)て、おほん葬の夜、その宮の隣なりけ るおとこ、御葬見むとて、女車にあひ乘りて出でたりけり。いと久しう率て出 でたてまつらず。うち泣きてやみぬべかりけるあひだに、天の下の色好み、源 の至といふ人、これも物見るに、このくるまを女車と見て、寄り來てとかくな まめくあひだに、かの至、ほたるをとりて女の車に入れたりけるを、車なりけ る人、この螢のともす火にや見ゆらん、ともし消ちなむずるとて、乘れるおと このよめる。 △△出でていなば限りなるべみともし消ち年へぬるかと泣く聲を聞け △かの至、返し、 △△いとあはれ泣くぞ聞ゆるともし消ち消ゆる物とも我は知らずな △天の下の色好みの歌にては猶ぞありける。 △至は順が祖父也。みこの本意なし。  四十 △むかし、わかきおとこ、異しうはあらぬ女を思ひけり。さかしらする親あり て、思ひもぞつくとて、この女をほかへをひやらむとす。さこそいへ、まだを いやらず。人の子なれば、まだ心いきおひなかりければ、とゞむるいきおひな し。女も卑しければ、すまふ力なし。さるあひだに、思ひはいやまさりにまさ る。俄に親この女ををひうつ。おとこ、血の涙をながせども、とゞむるよしな し。率て出でて去ぬ。おとこ、泣く++よめる。 △△出でていなば誰か別(れ)の難からんありしにまさる今日はかなしも とよみて絶えいりにけり。親あはてにけり。猶思ひてこそいひしか、いとかく しもあらじと思ふに、眞實に絶えいりにければ、まどひて願たてけり。今日の 入相許に絶えいりて、又の日の戌の時ばかりになんからうじていき出でたり ける。昔の若人は、さるすける物思ひをなんしける。今の翁、まさにしなむや。  四十一 △昔、女はらから二人ありけり。一人はいやしきおとこの貧しき、一人はあて なるおとこもたりけり。いやしきおとこもたる、しはすのつごもりに、うへの きぬを洗ひて、手づから張りけり。心ざしはいたしけれど、さるいやしきわざ もならはざりければ、うへのきぬの肩を張り破りてけり。せむ方もなくて、た ゞ泣きに泣きけり。これをかのあてなるおとこきゝて、いと心ぐるしかりけれ ば、いときよらなる緑衫のうへのきぬを見出でてやるとて、 △△紫の色こき時はめもはるに野なる草木ぞわかれざりける △武藏野の心なるべし。  四十二 △昔、おとこ、色好みと知る++、女をあひいへりけり。されどにくゝはたあ らざりけり。しば++行きけれど、猶いとうしろめたく、さりとて、行かでは たえあるまじかりけり。なをはたえあらざりけるなかなりければ、二日三日 許さはることありて、え行かでかくなん、 △△出でてこしあとだにいまだ變らじをたが通ひ路と今はなるらん △ものうたがはしさによめるなりけり。  四十三 △むかし、賀陽の親王と申すみこおはしましけり。そのみこ、女をおぼしめし て、いとかしこう惠みつかう給ひけるを、人なまめきてありけるを、我のみと 思ひけるを、又人きゝつけて、文やる。ほとゝぎすのかたをかきて、 △△ほとゝぎす汝がなく里のあまたあれば猶うとまれぬ思(ふ)ものから といへり。この女、けしきをとりて、 △△名のみたつしでのたおさは今朝ぞなく庵あまたとうとまれぬれば △時は五月になんありける。おとこ、返し、 △△庵おほきしでのたをさは猶たのむわが住む里に聲したえずは  四十四 △むかし、縣へゆく人に、むまのはなむけせむとて、よびて、うとき人にしあ らざりければ、いゑ刀自さかづきさゝせて、女の裝束かづけんとす。あるじの おとこ、歌よみて裳の腰にゆひつけさす。 △△出でてゆく君がためにと脱ぎつれば我さへもなくなりぬべきかな △この歌はあるが中におもしろければ、心とゞめてよまず、腹にあぢはひて。  四十五 △むかし、おとこ有(り)けり。人のむすめのかしづく、いかでこのおとこに物 いはむと思(ひ)けり。うち出でむことかたくやありけむ、物病みになりて死ぬ べき時に、「かくこそ思(ひ)しか」といひけるを、親きゝつけて、泣く++告 げたりければ、まどひ來たりけれど死にければ、つれ※※とこもり居りけり。 時は水無月のつごもり、いと暑きころをひに、夜ゐは遊びをりて、夜ふけて、 やゝ涼しき風吹きけり。螢たかく飛びあがる。このおとこ、見臥せりて、 △△ゆく螢雲のうへまでいぬべくは秋風ふくと雁につげこせ △△暮れがたき夏の日ぐらしながむればそのこととなく物ぞ悲しき  四十六 △むかし、おとこ、いとうるはしき友ありけり。片時さらずあひ思ひけるを、 人の國へいきけるを、いとあはれと思ひて、別れにけり。月日へてをこせたる 文に、「あさましく對面せで、月日の經にけること。忘れやし給(ひ)にけんと、 いたく思ひわびてなむ侍(る)。世(の)中の人の心は、目かるれば忘れぬべき物 にこそあめれ」といへりければ、よみてやる。 △△目かるとも思ほえなくに忘らるゝ時しなければ面影にたつ  四十七 △むかし、おとこ、ねんごろにいかでと思(ふ)女有(り)けり。されどこのおと こをあだなりときゝて、つれなさのみまさりつゝいへる。 △△大幣の引く手あまたになりぬれば思へどえこそ頼まざりけれ △返し、おとこ、 △△大幣と名にこそたてれ流(れ)てもつゐに寄る瀬はありといふ物を  四十八 △昔、おとこ有(り)けり。むまのはなむけせんとて人を待ちけるに、來ざりけ れば、 △△今ぞ知るくるしき物と人待たむ里をば離れずとふべかりけり  四十九 △むかし、おとこ、妹のいとおかしげなりけるを見をりて、 △△うら若み寢よげに見ゆる若草をひとの結ばむことをしぞ思(ふ) と聞えけり。返し、 △△初草のなどめづらしき言の葉ぞうらなく物を思(ひ)ける哉  五十 △昔、おとこ有(り)けり。恨むる人を恨みて、 △△鳥の子を十づゝ十は重ぬとも思はぬ人をおもふものかは といへりければ、 △△朝露は消えのこりてもありぬべし誰かこの世を頼みはつべき △又、おとこ、 △△吹(く)風にこぞの櫻は散らずともあな頼みがた人の心は △又、女、返し、 △△行く水に數かくよりもはかなきは思はぬ人を思ふなりけり △又、おとこ、 △△行く水と過ぐるよはひと散る花といづれ待ててふことを聞くらん △あだくらべかたみにしけるおとこ女の、忍びありきしけることなるべし。  五十一 △昔、おとこ、人の前栽に菊うへけるに、 △△植へし植へば秋なき時や咲かざらん花こそ散らめ根さへ枯れめや  五十二 △むかし、おとこありけり。人のもとよりかざり粽をこせたりける返事に、 △△あやめ刈り君は沼にぞまどひける我は野に出でてかるぞわびしき とて、雉をなむやりける。  五十三 △むかし、おとこ、逢ひがたき女にあひて、物がたりなどするほどに、鳥の鳴 きければ、 △△いかでかは鳥のなく覽人知れず思ふ心はまだ夜深きに  五十四 △昔、おとこ、つれなかりける女にいひやりける。 △△行(き)やらぬ夢地をたのむ袂には天つ空なる露やをくらん  五十五 △むかし、おとこ、思(ひ)かけたる女の、え得まじうなりての世に、 △△思はずはありもすらめど事のはのをりふしごとに頼まるゝ哉  五十六 △むかし、おとこ、臥して思ひ、起きて思ひ、思ひあまりて、 △△わが袖は草の庵にあらねども暮るれば露のやどりなりけり  五十七 △昔、おとこ、人知れぬ物思ひけり。つれなき人のもとに、 △△戀ひわびぬ海人の刈る藻にやどるてふ我から身をもくだきつる哉  五十八 △むかし、心つきて色好みなるおとこ、長岡といふ所に家つくりて居りけり。 そこの隣なりける宮ばらに、こともなき女どもの、田舍なりければ、田刈らん とて、このおとこのあるを見て、「いみじのすき物のしわざや」とて、集りて 入り來ければ、このおとこ、逃げて奧にかくれにければ、女、 △△荒れにけりあはれ幾世の宿なれや住みけんひとのをとづれもせぬ といひて、この宮に集り來居てありければ、このおとこ、 △△葎生ひて荒れたる宿のうれたきはかりにも鬼のすだくなりけり とてなむ出したりける。この女ども、「穗ひろはむ」といひければ、 △△うちわびて落穗ひろふと聞かませば我も田面にゆかましものを  五十九 △むかし、おとこ、京をいかゞ思ひけん、東山に住まむと思ひ入りて、 △△住みわびぬ今はかぎりと山里に身をかくすべき宿求めてん △かくて、物いたく病みて、死に入りたりければ、おもてに水そゝきなどして、 いき出でて、 △△わがうへに露ぞをくなる天の河門わたる舟の櫂のしづくか となむいひて、いき出でたりける。  六十 △むかし、おとこ有(り)けり。宮仕へいそがしく、心もまめならざりけるほど の家刀自まめに思はむといふ人につきて、人の國へいにけり。このおとこ、宇 佐の使にていきけるに、ある國の祗承の官人の妻にてなむあるときゝて、「女 あるじにかはらけとらせよ。さらずは飮まじ」といひければ、かはらけとりて 出したりけるに、肴なりける橘をとりて、 △△五月まつ花たちばなの香をかげばむかしの人の袖の香ぞする。 といひけるにぞ思ひ出でて、尼になりて、山に入りてぞありける。  六十一 △昔、おとこ、筑紫までいきたりけるに、「これは色好むといふすき物」とす だれのうちなる人のいひけるをきゝて、 △△染河をわたらむ人のいかでかは色になるてふことのなからん △女、返し、 △△名にしおはばあだにぞあるべきたはれ島浪の濡衣きるといふなり  六十二 △むかし、年ごろをとづれざりける女、心かしこくやあらざりけん、はかなき 人の事につきて、人の國なりける人につかはれて、もと見し人の前に出で來て、 物食はせなどしけり。夜さり、「このありつる人たまへ」とあるじにいひけれ ば、をこせたりけり。おとこ、「我をば知らずや」とて、 △△いにしへのにほひはいづら櫻花こけるからともなりにける哉 といふを、いと恥づかしと思(ひ)て、いらへもせでゐたるを、「などいらへも せぬ」といへば、「涙のこぼるゝに、目も見えず、物もいはれず」といふ。 △△これやこの我にあふみをのがれつゝ年月ふれどまさりがほなき といひて、衣脱ぎてとらせけれど、捨てて逃げにけり。いづちいぬらんとも知 らず。  六十三 △むかし、世心つける女、いかで心なさけあらむおとこにあひ得てしがなとお もへど、言ひ出でむもたよりなさに、まことならぬ夢語りをす。子三人を呼び て、かたりけり。二人の子は、なさけなくいらへて止みぬ。三郎なりける子な ん、「よき御男ぞいでこむ」とあはするに、この女、氣色いとよし。こと人は いとなさけなし。いかでこの在五中將にあはせてし哉と思(ふ)心あり。狩しあ りきけるにいきあひて、道にてむまの口をとりて、「かう++なむ思ふ」とい ひければ、あはれがりて、來て寢にけり。さてのち、おとこ見えざりければ、 女、おとこの家にいきてかいまみけるを、おとこほのかに見て、 △△百年に一年たらぬつくも髮我を戀ふらし面影に見ゆ とて出でたつ氣色を見て、むばらからたちにかゝりて、家に來てうちふせり。 おとこ、かの女のせしやうに、忍びて立てりて見れば、女なげきて寢とて、 △△さむしろに衣かたしきこよひもや戀しき人にあはでのみ寢む とよみけるを、おとこあはれと思(ひ)て、その夜は寢にけり。世(の)中の例と して、思ふをば思ひ、思はぬをば思はぬ物を、この人は、思ふをも、思はぬを も、けぢめ見せぬ心なんありける。  六十四 △昔、おとこ、みそかに語らふわざもせざりければ、いづくなりけんあやしさ によめる。 △△吹(く)風にわが身をなさば玉簾ひま求めつゝ入るべきものを △返し、 △△とりとめぬ風にはありとも玉簾たがゆるさばかひま求むべき  六十五 △むかし、おほやけおぼして使う給ふ女の、色ゆるされたるありけり。大御息 所とていますがりけるいとこなりけり。殿上にさぶらひける在原なりけるおと この、まだいとわかゝりけるを、この女あひ知りたりけり。おとこ、女方ゆる されたりければ、女のある所に來て向ひ居りければ、女、「いとかたはなり。 身もほろびなん。かくなせそ」といひければ、 △△思ふには忍ぶることぞ負けにける逢ふにしかへばさもあらばあれ といひて、曹司におり給へれば、例のこの御曹子には、人の見るをも知らでの ぼりゐければ、この女、思ひわびて里へ行く。されば何のよきことと思(ひ)て、 いき通ひければ、皆人きゝて笑ひけり。つとめてとのもづかさの見るに、沓は とりて、奧に投げ入れてのぼりぬ。かくかたはにしつゝありわたるに、、身もい たづらになりぬべければ、つゐにほろびぬべしとて、このおとこ、「いかにせ ん。わがかゝる心やめ給へ」と佛神にも申(し)けれど、いやまさりにのみお ぼえつゝ、猶わりなく戀しうのみおぼえければ、陰陽師、巫よびて、戀せじと いふ祓の具してなむいきける。祓へけるまゝに、いとゞかなしきこと數まさり て、ありしよりけに戀しくのみおぼえければ、 △△戀せじと御手洗河にせしみそぎ神はうけずもなりにけるかな といひてなんいにける。 △この帝は顏かたちよくおはしまして、佛の御名を御心にいれて、御聲はいと たうとくて申(し)給ふをきゝて、女はいたう泣きけり。「かゝる君につかうま つらで、宿世つたなくかなしきこと、このおとこにほだされて」とてなん泣き ける。かゝるほどに、帝きこしめしつけて、このおとこをば流しつかはしてけ れば、この女のいとこの御息所、女をばまかでさせて、藏にこめてしおりたま ふければ、藏にこもりて泣く。 △△海人の刈る藻にすむ蟲の我からと音をこそなかめ世をばうらみじ と泣きをれば、このおとこ、人の國より夜ごとに來つゝ、笛をいとおもしろく 吹きて、聲はおかしうてぞあはれに歌ひける。かゝれば、この女は藏にこもり ながら、それにぞあなるとは聞けど、あひ見るべきにもあらでなんありける。 △△さりともと思(ふ)覽こそ悲しけれあるにもあらぬ身を知らずして と思ひ居り。男は女しあはねば、かくし歩きつゝ、人の國にありきてかくうた ふ。 △△いたづらに行(き)てはきぬる物ゆへに見まくほしさに誘はなれつゝ △水のおの御時なるべし。大御息所も染殿の后也。五條の后とも。  六十六 △むかし、おとこ、津の國にしる所ありけるに、あにおとゝ友だちひきゐて、 難波の方にいきけり。なぎさを見れば、舟どものあるを見て、 △△難波津をけさこそみつの浦ごとにこれやこの世をうみ渡る舟 △これをあはれがりて、人※※かへりにけり。  六十七 △むかし、おとこ、逍●しに、思ふどちかいつらねて、和泉の國へ二月許に いきけり。河内の國、生駒の山を見れば、曇りみ晴れみ、たちゐる雲やまず。 あしたより曇りて、晝晴れたり。雪いと白う木のすゑに降りたり。それを見て、 かの行く人のなかに、たゞ一人よみける。 △△きのふけふ雲のたちまひかくろふは花の林をうしとなりけり  六十八 △昔、おとこ、和泉の國へいきけり。住吉の郡、住吉の里、住吉の濱をゆくに、 いとおもしろければ、おりゐつゝ行く。ある人、「住吉の濱とよめ」といふ。 △△鴈なきて菊の花さく秋はあれど春の海邊にすみよしの濱 とよめりければ、皆人※※よまずなりにけり。  六十九 △むかし、おとこ有(り)けり。そのおとこ、伊勢の國に狩の使にいきけるに、 かの伊勢の齋宮なりける人の親、「つねの使よりは、この人よくいたはれ」とい ひやれりければ、親のことなりければ、いとねむごろにいたはりけり。あした には狩にいだしたててやり、夕さりは歸りつゝ、そこに來させけり。かくてね むごろにいたづきけり。二日といふ夜、おとこ、われて「あはむ」といふ。女 もはたいとあはじとも思へらず。されど、人目しげければ、え逢はず。使ざね とある人なれば、とをくも宿さず。女の閨ちかくありければ、女、人をしづめ て、子ひとつ許に、おとこのもとに來たりけり。おとこはた寢られざりければ、 外のかたを見出だして臥せるに、月のおぼろなるに、ちひさき童をさきに立て て、人立てり。おとこ、いとうれしくて、わが寢る所に率て入りて、子ひとつ より丑三つまであるに、まだ何事も語らはぬにかへりにけり。おとこ、いとか なしくて、寢ずなりにけり。つとめて、いぶかしけれど、わが人をやるべきに しあらねば、いと心もとなくて待ち居れば、明けはなれてしばしあるに、女の もとより、詞はなくて、 △△君やこし我や行きけむおもほえず夢か現かねてかさめてか △おとこ、いといたう泣きてよめる。 △△かきくらす心の闇にまどひにき夢うつゝとはこよひ定めよ とよみてやりて、狩に出でぬ。野にありけど、心は空にて、こよひだに人しづ めて、いととく逢はむと思(ふ)に、國の守、齋宮のかみかけたる、狩の使あ りときゝて、夜ひと夜酒飮みしければ、もはらあひごともえせで、明けばおは りの國へ立ちなむとすれば、男も人知れず血の涙をながせど、え逢はず。夜や う++明けなむとするほどに、女がたよりいだす杯の皿に、歌をかきていだし たり。とりて見れば、 △△かち人の渡れど濡れぬえにしあれば とかきて、末はなし。その杯の皿に、續松の炭して、歌の末をかきつぐ。 △△又あふ坂の關はこえなん とて、明くればおはりの國へ越えにけり。 △齋宮は水のおの御時、文徳天皇の御むすめ、惟喬の親王の妹。  七十 △むかし、おとこ、狩の使より歸りきけるに、大淀のわたりに宿りて、齋宮 のわらはべにいひかけける。 △△見るめかる方やいづこぞさほさして我に教へよあまの釣舟  七十一 △昔、おとこ、伊勢の齋宮に、内の御使にてまいれりければ、かの宮にすきご といひける女、わたくしごとにて、 △△ちはやぶる神の齋垣も越えぬべし大宮人の見まくほしさに おとこ、 △△戀しくは來ても見よかしちはやぶる神のいさむる道ならなくに  七十二 △むかし、おとこ、伊勢の國なりける女、又え逢はで、隣の國へいくとて、い みじう恨みければ、女、 △△大淀の松はつらくもあらなくにうらみてのみもかへるなみ哉  七十三 △むかし、そこにはありと聞けど、消息をだにいふべくもあらぬ女のあたりを 思ひける。 △△目には見て手にはとられぬ月のうちの桂のごとき君にぞありける  七十四 △むかし、おとこ、女をいたう恨みて、 △△岩ねふみ重なる山にあらねども逢はぬ日おほく戀ひわたる哉  七十五 △昔、おとこ、「伊勢の國に率ていきてあらむ」といひければ、女、 △△大淀(おほよど)の濱におふてふみるからに心はなぎぬ語らはねども といひて、ましてつれなかりければ、おとこ、 △△袖ぬれて海人の刈りほすわたつうみのみるをあふにてやまむとやする △女、 △△岩間より生ふるみるめしつれなくは潮干潮滿ちかひもありなん △又、おとこ、 △△涙にぞぬれつゝしぼる世の人のつらき心は、袖のしづくか △世にあふことかたき女になん。  七十六 △昔、二條の后の、まだ春宮の御息所と申(し)ける時、氏神にまうで給(ひ)け るに、近衞府にさぶらひける翁、人※※の祿たまはるついでに、御車よりたま はりて、よみて奉りける。 △△大原や小鹽の山もけふこそは神世のことも思(ひ)出づらめ とて、心にもかなしとや思ひけん、いかゞ思ひけん、知らずかし。  七十七 △むかし、田邑の帝と申すみかどおはしましけり。その時の女御、多賀幾子と 申すみまそがりけり。それうせたまひて、安祥寺にてみわざしけり。人※※捧 げものたてまつりけり、奉りあつめたる物、千捧許あり。そこばくの捧げも のを木の枝につけて、堂の前にたてたれば、山もさらに堂の前にうごき出でた るやうになん見えける。それを、右大將にいまそがりける藤原の常行と申すい まそがりて、講の終るほどに、歌よむ人※※を召しあつめて、けふのみわざを 題にて、春の心ばえある歌たてまつらせ給ふ。右のむまの頭なりける翁、目は たがひながらよみける。 △△山のみなうつりてけふにあふ事は春の別れをとふとなるべし とよみけるを、いま見れば、よくもあらざりけり。そのかみはこれやまさりけ む、あはれがりけり。  七十八 △むかし、多賀幾子と申す女御おはしましけり。うせ給(ひ)て七七日のみわざ 安祥寺にてしけり。右大將藤原の常行といふ人いまそがりけり。そのみわざに まうで給ひて、かへさに、山科の禪師の親王おはします、その山科の宮に、瀧 おとし、水走らせなどして、おもしろく造られたるにまうで給うて、「年ごろ よそにはつかうまつれど、近くはいまだつかうまつらず。今宵はこゝにさぶら はむ」と申(し)給ふ。親王よろこびたまふて、夜の御座のまうけせさせ給(ふ)。 さるに、かの大將、出でてたばかりたまふやう、「宮づかへのはじめに、たゞ なをやはあるべき。三條の大御幸せし時、紀の國の千里の濱にありける、いと おもしろき石たてまつれりき。大御幸の後たてまつれりしかば、ある人の御曹 司の前の溝にすへたりしを、島このみ給(ふ)君也、この石をたてまつらん」と のたまひて、御隨身、舍人して取りにつかはす。いくばくもなくて持て來ぬ。 この石、きゝしよりは見るはまされり。これをたゞに奉らばすゞろなるべしと て、人※※に歌よませ給ふ。右のむまの頭なりける人のをなむ、あおき苔をき ざみて、蒔繪のかたにこの歌をつけて奉りける。 △△あかねども岩にぞかふる色見えぬ心を見せむよしのなければ となむよめりける。  七十九 △むかし、氏のなかに親王うまれ給へりけり、御産屋に、人※※歌よみけり。 御祖父がたなりける翁のよめる。 △△わが門に千尋ある影をうへつれば夏冬たれか隱れざるべき △これは貞數の親王、時の人、中將の子となんいひける。兄の中納言行平のむ すめの腹なり。  八十 △昔、おとろへたる家に、藤の花植へたる人ありけり。三月のつごもりに、そ の日雨そほふるに、人のもとへおりて奉らすとてよめる。 △△濡れつゝぞしゐておりつる年の内に春はいくかもあらじと思へば  八十一 △むかし、左の大臣いまそがりけり。賀茂河のほとりに、六條わたりに、家 をいとおもしろくつくりて住み給ひけり。神無月のつごもりがた、菊の花うつ ろひさかりなるに、紅葉のちぐさに見ゆるおり、親王たちおはしまさせて、夜 ひと夜酒飮みし遊びて、夜あけもてゆくほどに、この殿のおもしろきをほむる うたよむ。そこにありけるかたゐをきな、いたじきのしたにはひありきて、人 にみなよませはててよめる。 △△鹽竃にいつか來にけむ朝なぎに釣する舟はこゝに寄らなん となむよみけるは。陸奧の國にいきたりけるに、あやしくおもしろき所※ 多 かりけり。わがみかど六十餘國の中に、鹽竃といふ所に似たるところ無かりけ り。さればなむ、かの翁さらにこゝをめでて、鹽竃にいつか來にけむとよめり ける。  八十二 △むかし、惟喬の親王と申す親王おはしましけり。山崎のあなたに、水無瀬と いふ所に宮ありけり。年ごとのさくらの花ざかりには、その宮へなむおはしま しける。その時、右のむまの頭なりける人を、常に率ておはしましけり。時世 へて久しくなりにければ、その人の名忘れにけり。狩はねむごろにもせで、酒 をのみ飮みつゝ、やまと歌にかゝれりけり。いま狩する交野の渚の家、その院 の櫻ことにおもしろし。その木のもとにおりゐて、枝を折りてかざしにさして、 上中下みな歌よみけり。うまの頭なりける人のよめる。 △△世(の)中にたえて櫻のなかりせば春の心はのどけからまし となむよみたりける。又人の歌、 △△散(ち)ればこそいとゞ櫻はめでたけれうき世になにか久しかるべき とて、その木のもとは立ちてかへるに、日ぐれになりぬ。御供なる人、酒をも たせて野より出で來たり。この酒を飮みてむとて、よき所を求めゆくに、天の 河といふ所にいたりぬ。親王にむまの頭、大御酒まいる。親王ののたまひける。 「交野を狩りて、天の河のほとりに至るを題にて、歌よみてさか月はさせ」と のたまうければ、かのむまの頭よみて奉りける。 △△狩り暮らしたなばたつめに宿からむ天の河原に我は來にけり △親王、歌を返々誦じたまうて、返しえし給はず。紀の有常御ともにつかう まつれり。それが返し、 △△一年にひとたび來ます君まてば宿かす人もあらじとぞ思(ふ) △歸りて宮に入らせ給(ひ)ぬ。夜ふくるまで酒飮み物語して、あるじの親王、 醉ひて入り給ひなむとす。十一日の月もかくれなむとすれば、かのむまの頭の よめる。 △△あかなくにまだきも月のかくるゝか山の端にげて入れずもあらなん △親王にかはりたてまつりて、紀の有常、 △△をしなべて峯もたひらになりななむ山の端なくは月も入らじを  八十三 △むかし、水無瀬にかよひ給(ひ)し惟喬の親王、例の狩しにおはします供に、 うまの頭なる翁つかうまつれり。日ごろへて、宮にかへり給うけり。御をくり して、とくいなんとおもふに、大御酒たまひ、祿たまはむとて、つかはさざり けり。このむまの頭心もとながりて、 △△枕とて草ひき結ぶこともせじ秋の夜とだにたのまれなくに とよみける。時はやよひのつごもりなりけり。親王、おほとのごもらであかし 給(う)てけり。かくしつゝまうでつかうまつりけるを、思ひのほかに、御髮お ろし給うてけり。む月におがみたてまつらむとて、小野にまうでたるに、比叡 の山の麓なれば、雪いと高し。しゐて御室にまうでておがみたてまつるに、つ れ※※といと物がなしくておはしましければ、やゝ久しくさぶらひて、いにし へのことなど思ひ出で聞えけり。さても侍ひてしがなと思へど、公事どもあり ければ、え侍はで、夕暮にかへるとて、 △△忘れては夢かとぞ思(ふ)思ひきや雪ふみわけて君を見むとは とてなむ泣く++來にける。  八十四 △むかし、おとこ有(り)けり。身はいやしながら、母なん宮なりける。その母、 長岡といふ所に住み給(ひ)けり。子は京に宮づかへしければ、まうづとしけれ ど、しば++えまうでず。ひとつ子にさへありければ、いとかなしうし給ひけ り。さるに、一二月ばかりに、とみのこととて御ふみあり。おどろきて見れば、 歌あり。 △△老(い)ぬればさらぬ別れのありといへばいよ++見まくほしき君かな △かの子、いたううち泣きてよめる。 △△世(の)中にさらぬ別れのなくも哉千世もといのる人の子のため  八十五 △昔、おとこ有(り)けり。童よりつかうまつりける君、御髮おろし給うてけり。 む月にはかならずまうでけり。おほやけの宮づかへしければ、常にはえまうで ず。されど、もとの心うしなはでまうでけるになん有(り)ける。昔つかうまつ りし人、俗なる、禪師なる、あまたまいりあつまりて、む月なれば事だつとて、 大御酒たまひけり。雪こぼすがごと降りて、ひねもすにやまず。みな人醉ひて、 「雪に降りこめられたり」といふを題にて、歌ありけり。 △△思へども身をしわけねばめかれせぬ雪のつもるぞわが心なる とよめりければ、親王、いといたうあはれがり給うて、御衣ぬぎてたまへりけ り。  八十六 △昔、いとわかきおとこ、わかき女をあひいへりけり。をの++親ありければ、 つゝみていひさしてやみにけり。年ごろへて、女のもとに、猶心ざしはたさむ とや思(ひ)けむ、おとこ、歌をよみてやれりけり。 △△今までに忘れぬ人は世にもあらじをのがさま※※年のへぬれば とてやみにけり。おとこも女も、あひはなれぬ宮仕へになん出でにける。  八十七 △むかし、おとこ、津の國、むばらの郡、蘆屋の里にしるよしして、いきて住 みけり。むかしの歌に、 △△蘆の屋のなだの鹽燒いとまなみ黄楊の小櫛もさゝず來にけり とよみけるぞ、この里をよみける。こゝをなむ蘆屋の灘とはいひける。このお とこなま宮づかへしければ、それをたよりにて、ゑうの佐どもあつまり來にけ り。このおとこのこのかみも衞府の督なりけり。その家の前の海のほとりに遊 びありきて、「いざ、この山のかみにありといふ布引の瀧見にのぼらん」とい ひて、のぼりて見るに、その瀧、物よりこと也。長さ二十丈、廣さ五丈許な る石のおもて、白絹に岩をつゝめらんやうになむありける。さる瀧のかみに、 わらうだの大きさして、さし出でたる石あり。その石のうへに走りかゝる水は、 小柑子、栗の大きさにてこぼれ落つ。そこなる人にみな瀧の歌よます。かの衞 府の督まづよむ。 △△わが世をばけふかあすかと待つかひの涙の瀧といづれ高けん △あるじ、次によむ。 △△ぬき亂る人こそあるらし白玉のまなくも散るか袖のせばきに とよめりければ、かたへの人、笑ふことにや有(り)けん、この歌にめでてやみ にけり。 △歸りくる道とをくて、うせにし宮内卿もちよしが家の前來るに、日暮れぬ。 やどりの方を見やれば、海人の漁火多く見ゆるに、かのあるじのおとこよむ。 △△晴るゝ夜の星か河邊の螢かもわが住むかたの海人のたく火か とよみて、家にかへりきぬ。その夜、南の風吹きて、浪いと高し。つとめて、 その家の女の子ども出でて、浮海松の浪によせられたる拾ひて、いゑの内に持 て來ぬ。女がたより、その海松を高坏にもりて、柏をおほひて出したる、柏に 書けり。 △△渡つ海のかざしにさすといはふ藻も君がためにはおしまざりけり △田舍人の歌にては、あまれりや、足らずや。  八十八 △昔、いと若きにはあらぬ、これかれ友だちどもあつまりて、月を見て、それ がなかに一人、 △△おほかたは月をもめでじこれぞこの積れば人の老となる物  八十九 △昔、いやしからぬおとこ、我よりはまさりたる人を思(ひ)かけて、年へける。 △△人知れず我こひ死なばあぢきなくいづれの神になき名おほせん  九十 △むかし、つれなき人をいかでと思(ひ)わたりければ、あはれとや思(ひ)けん、 「さらば、明日物越しにても」といへりけるを、限りなくうれしく、又うたが はしかりければ、おもしろかりける櫻につけて、 △△櫻花けふこそかくもにほふともあなたのみがた明日の夜のこと といふ心ばへもあるべし。  九十一 △むかし、月日のゆくをさへ歎くおとこ、三月つごもりがたに、 △△おしめども春のかぎりのけふの日の夕暮にさへなりにける哉  九十二 △むかし、戀しさに來つゝかへれど、女に消息をだにえせでよめる。 △△蘆邊こぐ棚無し小舟いくそたび行きかへるらん知る人もなみ  九十三 △むかし、おとこ、身はいやしくて、いとになき人を思(ひ)かけたりけり。す こし頼みぬべきさまにやありけん、臥して思ひ、起きて思ひ、思(ひ)わびてよ める。 △△あふな+ 思ひはすべしなぞへなく高き卑しき苦しかりけり △昔もかゝることは、世のことはりにやありけん。  九十四 △むかし、おとこ有(り)けり。いかゞありけむ、そのおとこすまずなりにけり。 後に男ありけれど、子あるなかなりければ、こまかにこそあらねど、時※※も のいひをこせけり。女がたに、繪かく人なりければ、かきにやれりけるを、今 のおとこの物すとて、一日二日をこせざりけり。かのおとこ、いとつらく、 「をのがきこゆる事をば、今までたまはねば、ことはりと思へど、猶人をば恨 みつべき物になんありける」とて、弄じてよみてやれりける。時は秋になんあ りける。 △△秋の夜は春日わするゝ物なれや霞に霧や千重まさるらん となんよめりける。女、返し、 △△千ゞの秋ひとつの春にむかはめや紅葉も花もともにこそ散れ  九十五 △むかし、二條の后につかうまつるおとこ有(り)けり。女の仕うまつるを常に 見かはして、よばひわたりけり。「いかで物越しに對面して、おぼつかなく思 (ひ)つめたること、すこしはるかさん」といひければ、女、いとしのびて、物 越しに逢ひにけり。物語などして、おとこ、 △△彦星に戀はまさりぬ天の河へだつる關をいまはやめてよ △この歌にめでてあひにけり。  九十六 △むかし、おとこ有(り)けり。女をとかくいふこと月日經にけり。いは木にし あらねば、心苦しとや思(ひ)けん、やう++あはれと思(ひ)けり。そのころ、 水無月の望ばかりなりければ、女、身に瘡ひとつふたついできにけり。女いひ をこせたる。「今はなにの心もなし。身に瘡も一つ二ついでたり。時もいと暑 し。すこし秋風吹き立ちなん時、かならずあはむ」といへりけり。秋まつころ をひに、こゝかしこより、その人のもとへいなむずなりとて、口舌いできにけ り。さりければ、女の兄人、にはかに迎へに來たり。さればこの女、かえでの 初紅葉をひろはせて、歌をよみて、書きつけてをこせたり。 △△秋かけていひしながらもあらなくに木の葉ふりしくえにこそありけれ と書きをきて、「かしこより人をこせば、これをやれ」とていぬ。さて、やがて 後、つゐにけふまで知らず。よくてやあらむ、あしくてやあらん。いにし所も 知らず。かのおとこは、天の逆手をうちてなむのろひ居るなる。むくつけきこ と。人ののろひごとは、負ふ物にやあらむ、負はぬ物にやあらん。「今こそは 見め」とぞいふなる。  九十七 △むかし、堀河のおほいまうちぎみと申すいまそがりけり。四十の賀、九條の 家にてせられける日、中將なりける翁、 △△櫻花ちりかひくもれ老いらくの來むといふなる道まがふがに  九十八 △昔、おほきおほいまうちぎみときこゆるおはしけり。仕うまつるおとこ、な が月許に、むめのつくり枝に雉をつけて奉るとて、 △△わがたのむ君がためにとおる花は時しもわかぬ物にぞ有(り)ける とよみて奉りたりければ、いとかしこくおかしがり給(ひ)て、使に祿たまへり けり。  九十九 △むかし、右近の馬場のひをりの日、むかひに立てたりける車に、女の顏の下 簾よりほのかに見えければ、中將なりけるおとこのよみてやりける。 △△見ずもあらず見もせぬ人の戀しくはあやなく今日やながめ暮さん △返し、 △△知る知らぬなにかあやなくわきていはん思ひのみこそしるべなりけれ △後は誰と知りにけり。  百 △むかし、おとこ、後涼殿のはさまを渡りければ、あるやむごとなき人の御局 より、「忘れ草を忍ぶ草とやいふ」とて、いださせ給へりければ、たまはりて、 △△忘(れ)草生ふる野べとは見るらめどこは忍ぶなり後もたのまん  百一 △むかし、左兵衞(の)督なりける在原の行平といふありけり。その人の家によ き酒ありときゝて、うへにありける左中辨藤原の良近といふをなむ、まらうど ざねにて、その日はあるじまうけしたりける。なさけある人にて、瓶に花をさ せり。その花の中に、あやしき藤の花ありけり。花のしなひ、三尺六寸ばかり なむありける。それを題にてよむ。よみはてがたに、あるじのはらからなる、 あるじし給ふときゝて來たりければ、とらへてよませける。もとより歌のこと は知らざりければ、すまひけれど、しゐてよませければ、かくなん、 △△咲く花のしたにかくるゝ人を多みありしにまさる藤のかげかも △「などかくしもよむ」といひければ、「おほきおとゞの榮花の盛りにみまそ がりて、藤氏のことに榮ゆるを思ひてよめる」となんいひける。皆人、そしら ずなりにけり。  百二 △むかし、おとこ有(り)けり。うたはよまざりけれど、世(の)中を思(ひ)知り たりけり。貴なる女の尼になりて、世(の)中を思(ひ)うんじて、京にもあらず、 はるかなる山里に住みけり。もと親族なりければ、よみてやりける。 △△そむくとて雲にはのらぬ物なれど世のうきことぞよそになるてふ となんいひやりける。齋宮の宮也。  百三 △むかし、おとこ有(り)けり。いとまめにじちようにて、あだなる心なかりけ り。深草のみかどになむ仕うまつりける。心あやまりやしたりけむ、親王たち のつかひ給ひける人をあひいへりけり。さて、 △△寢ぬる夜の夢をはかなみまどろめばいやはかなにもなりまさる哉 となんよみてやりける。さる歌のきたなげさよ。  百四 △むかし、ことなる事なくて、尼になれる人有(り)けり。かたちをやつしたれ ど、物やゆかしかりけむ、賀茂の祭見に出でたりけるを、おとこ、歌よみてや る。 △△世をうみのあまとし人を見るからにめくはせよとも頼まるゝ哉 △これは齋宮の物見たまひける車に、かくきこえたりければ、見さしてかへり 給(ひ)にけりとなん。  百五 △むかし、おとこ、「かくては死ぬべし」といひやりたりければ、女、 △△白露は消なば消ななん消えずとて玉にぬくべき人もあらじを といへりければ、いとなめしと思(ひ)けれど、心ざしはいやまさりけり。  百六 △昔、おとこ、親王たちの逍●し給(ふ)所にまうでて、龍田河のほとりにて、 △△ちはやぶる神世もきかず龍田河からくれなゐに水くゝるとは  百七 △むかし、あてなるおとこありけり。そのおとこのもとなりける人を、内記に 有(り)ける藤原の敏行といふ人よばひけり。されど若ければ、文もおさ++し からず、ことばもいひ知らず、いはむや歌はよまざりければ、かのあるじなる 人、案を書きて、かゝせてやりけり。めでまどひにけり。さて、おとこのよめ る。 △△つれ※※のながめにまさる涙河袖のみひぢて逢ふよしもなし △返し、例のおとこ、女にかはりて、 △△あさみこそ袖はひづらめ涙河身さへ流ると聞かばたのまむ といへりければ、おとこいといたうめでて、今まで卷きて、文箱に入れてあり となんいふなる。おとこ、文をこせたり。得てのちの事なりけり。「雨の降り ぬべきになん見わづらひ侍(る)。身さいはひあらば、この雨は降らじ」といへ りければ、例のおとこ、女にかはりてよみてやらす。 △△かず++に思ひ思はず問ひがたみ身をしる雨は降りぞまされる とよみてやれりければ、蓑も笠もとりあへで、しとゞに濡れて惑ひ來にけり。  百八 △むかし、女、人の心をうらみて、 △△風吹けばとはに浪越す岩なれやわが衣手のかはく時なき と常の言ぐさにいひけるを、きゝおひけるおとこ、 △△夜ゐごとにかはづのあまたなく田には水こそまされ雨は降らねど  百九 △むかし、おとこ、友だちの人をうしなへるがもとにやりける。 △△花よりも人こそあだになりにけれいづれをさきに戀ひんとか見し  百十 △むかし、おとこ、みそかに通ふ女ありけり。それがもとより、「こよひ夢に なん見え給ひつる」といへりければ、おとこ、 △△思ひあまり出でにし魂のあるならん夜ふかく見えば魂むすびせよ  百十一 △昔、おとこ、やむごとなき女のもとに、なくなりにけるをとぶらふやうにて、 いひやりける。 △△いにしへはありもやしけん今ぞ知るまだ見ぬ人を戀ふるものとは △返し、 △△下紐のしるしとするも解けなくにかたるがごとは戀ひずぞあるべき △又、返し、 △△戀しとはさらにもいはじ下紐の解けむを人はそれと知らなん  百十二 △むかし、おとこ、ねむごろにいひちぎりける女の、ことざまになりにければ、 △△須磨のあまの鹽燒く煙風をいたみ思はぬ方にたなびきにけり  百十三 △昔、おとこ、やもめにてゐて、 △△ながゝらぬ命のほどに忘るゝはいかに短き心なるらん  百十四 △むかし、仁和のみかど、芹河に行幸したまひける時、今はさること似げなく 思(ひ)けれど、もとつきにける事なれば、大鷹の鷹飼にてさぶらはせたまひけ る。摺狩衣のたもとに書きつけける。 △△翁さび人なとがめそ狩衣けふばかりとぞ鶴も鳴くなる △おほやけの御氣色あしかりけり。をのが齡を思(ひ)けれど、わかゝらぬ人は きゝおひけりとや。  百十五 △むかし、陸奧の國にて、おとこ女すみけり。おとこ、「宮こへいなん」といふ。 この女いとかなしうて、馬のはなむけをだにせむとて、おきのゐて、都島とい ふ所にて、酒飮ませてよめる。 △△をきのゐて身をやくよりもかなしきは宮こしまべの別れなりけり  百十六 △むかし、おとこ、すゞろに陸奧の國までまどひいにけり。京に思ふ人にいひ やる。 △△浪間より見ゆる小島のはまびさし久しくなりぬ君にあひ見で △「何事も、みなよくなりにけり」となんいひやりける。  百十七 △むかし、みかど、住吉に行幸したまひけり。 △△我見ても久しくなりぬ住吉の岸の姫松いくよへぬらん △おほん神、現形し給(ひ)て、 △△むつましと君は白浪瑞垣の久しき世よりいはひそめてき  百十八 △昔、おとこ、ひさしくをともせで、「忘るゝ心もなし。まいり來む」といへり ければ、 △△玉かづらはふ木あまたになりぬれば絶えぬ心のうれしげもなし  百十九 △むかし、女の、あだなるおとこの形見とてをきたる物どもを見て、 △△形見こそ今はあだなれこれなくは忘るゝ時もあらましものを  百二十 △昔、おとこ、女のまだ世經ずとおぼえたるが、人の御もとに忍びてもの聞え て、のちほどへて、 △△近江なる筑摩の祭とくせなんつれなき人の鍋の數見む  百二十一 △むかし、お((を))とこ、梅壷より雨にぬれて、人のまかり出づるを見て、 △△うぐひすの花を縫ふてふ笠も哉ぬるめる人に著せてかへさん △返し、 △△うぐひすの花を縫ふてふ笠はいなおもひをつけよほしてかへさん  百二十二 △むかし、おとこ、ちぎれることあやまれる人に、 △△山城の井手の玉水手にむすびたのみしかひもなき世なりけり といひやれど、いらへもせず。  百二十三 △むかし、おとこありけり。深草にすみける女を、やう++あきがたにや思 (ひ)けん、かゝる歌をよみけり。 △△年をへて住みこし里を出でていなばいとゞ深草野とやなりなん △女、返し、 △△野とならば鶉となりて鳴きをらんかりにだにやは君は來ざらむ とよめりけるにめでて、行かむと思ふ心なくなりにけり。  百二十四 △むかし、おとこ、いかなりける事を思ひけるおりにかよめる。 △△思ふこといはでぞたゞにやみぬべき我とひとしき人しなければ  百二十五 △むかし、おとこ、わづらひて、心地死ぬべくおぼえければ、 △△つゐにゆく道とはかねてきゝしかどきのふ今日とは思はざりしを  定家本にない章段  百二十六 △雨のいみじう降り暮して、つとめてもなをいみじう降るに、ある人のがりや りし。 △△降り暮し+ つる雨のをとをつれなき人の心ともがな △返し、 △△やゝもすれば風にしたがふ雨のをとを絶えぬ心にかけずもあらなん  百二十七 △むかし、女をぬすみてなん行く道に、水のある所にて、「飮まんとや」と問ふ に、うなづきければ、坏なども具せざりければ、手にむすびて食はす。率ての ぼり(けり。おとこ、なくなりに)ければ、もとの所にかへり行くに、かの水飮 みしところにて、 △△大原やせかひの水をむすびつゝあくやと問ひし人はいづらは といひて來にけり。(あ)はれ+ 。  百二十八 △むかし、おとこ女、をき臥し物いふを、いかゞおぼえけん、おとこ、 △△心をぞわりなき物と思ひぬるかつ見る人や戀しかるらん  百二十九 △(むかし、にしの院といふところに住む人ありけり。)その人、市になん出で たりける。女車のありけるにいひつきにけり。とかくをかしきことなん、いひ つきて、女、「すみかはいづくぞ」といひければ、かくなんいひたりける。 △△わがいゑは雲井の峯し近ければ教ふとも來ん物ならなくに おとこ、 △△かりそめにそむる心しまめならばなどか雲井をたづねざるべき といひて別れにけり。  百三十 △むかし、おとこ、ある人に忍びてあひ通ひければ、かのをとこに、ある人、 △△中空に立ちゐる雲のあともなく身のはかなくもなりぬべきかな  百三十一 △むかしありける色好みける女、あきがたになるおとこのもとに、 △△今はとてわれに時雨のふりゆけば言の葉さへぞうつろひにける △返し、紀定文、 △△人を思ふ心のはなにあらばこそ風のまに++散りもみだれめ  百三十二 △むかし、おとこ、平城の京にあひ知りたる人とぶらひにいきたるに、友だち のもとには消息をばせで、うらみて文をばやらざりける人のもとに、 △△春の日のいたりいたらぬ里はあらじ咲ける咲かざる花のみゆらん  百三十三 △をなじおとこ、女のうゐもきけるに、釵子をこゝろざしてよみてやれる。 △△あまたあらばさしはせずとも玉くしげあけん折++思ひ出にせよ  百三十四 △むかし、おとこ、えあふまじかりける人を戀ひわたりて、 △△わが宿に蒔きしなでしこいつしかも花に咲かなんよそへてもみむ  百三十五 △むかし、おとこ、すゞろなる所に行きて、夜あけてかへるに、人++いひさ わぎければ、 △△月しあればあらはんことも知らずして寢てくるわれを人やみつらん  百三十六 △むかし、在原の行平といふ人みまそがりけり。女のもとに、 △△思ひつゝ居ればすべなしむばたまの夜になりなばわれこそ行かめ △女、 △△來ぬ人をいまもやくると待ちし間の名殘にけふも寢られざりけり  百三十七 △むかし、おとこありけり。わりなきことを思(ひ)て、ある所へいひやりける。 △△夕月夜あか月がたの朝かげにわが身はなりぬ君を戀ふとて とありけれど、いとかたくなりにけり。  百三十八 △むかし、物思ふおとこ、目をさまして外の方を見出して臥したるに、前栽の 中に、蟲の聲なきければ、 △△かしがまし草葉にかゝる蟲の音やわれだに物をいはでこそ思へ  百三十九 △むかし、色好む人ありけり。をとこもさまかはらず、もろ心にて、色好む女、 これをいかで得んと思ふに、女もねうじわたるを、いかなる折にかありけん、 あひみけり。おとこも女もかたみにおぼえけれど、われもいかで捨てられじと、 心の暇なく思ふに、なを女、出でていなんと思ふ心つきて、 △△いざ櫻散らばありなんひとさかりなれなば憂きめ見えもこそすれ と書きつけてなんいきけるを、をどろきてみれば、なければいとねたくて、 △△いさゝめに散りぬる櫻なからなむのどけき春のなをもたつめり といへどもかひなし。  百四十 △むかし、すき物ども集まりて、物の名をよみけるに、かはたけ、あるおとこ、 △△小夜ふけてなかばたけゆく久方の月吹きかえせ秋の山風  百四十一 △むかし、おとこ、はるかなるほどに行きたりけるに、筑紫のつと、人の乞ひ たりけるに、色革やるとて、 △△みやこよりこゝまで來ればつともなしたちのをがはのはしのみぞある △所の名なるべし。  百四十二 △むかし、色好み、絶えにし人のもとより、 △△思ひつゝ寢ればやひとの見えつらん夢としりせばさめざらましを  百四十三 △むかし、おとこ、來てかへるに、秋の夜もむなしくおぼえければ、 △△秋の夜も名のみなりけりあふとあへばことぞともなくあけぬるものを 本稿は、 国文学研究資料館編「日本古典文学本文データベース」所収のデータを基に 一部改変して成したものである。